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『学 がく として現 あらわ れるであろうあらゆる将来 しょうらい の形而上学 けいじじょうがく のためのプロレゴメナ 』(独 どく : Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können )は、イマヌエル・カント によって1783年 ねん に出版 しゅっぱん された彼 かれ の理論 りろん 哲学 てつがく についての入門 にゅうもん 的 てき な注釈 ちゅうしゃく 書 しょ である。通常 つうじょう は『プロレゴメナ 』『プロレゴーメナ 』などと略 りゃく して呼 よ ばれる。古 ふる くは『哲学 てつがく 序説 じょせつ 』等 とう とも訳 やく された[ 1] 。
カントの『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』は、1781年 ねん にその第 だい 一 いち 版 はん が出版 しゅっぱん された。しかし、その内容 ないよう は難解 なんかい であったため、多 おお くの批判 ひはん にさらされていた。そこでカントは、自分 じぶん の著書 ちょしょ がより広 ひろ く受 う け入 い れられるように、また自身 じしん の理性 りせい 批判 ひはん に基 もと づく形而上学 けいじじょうがく の序論 じょろん として、『プロレゴメナ』を著 あらわ した。
『プロレゴメナ』の主要 しゅよう なテーマは、『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』と同 おな じく以下 いか のものであり、本書 ほんしょ の構成 こうせい にも現 あらわ れている。
如何 いか にして純粋 じゅんすい 数学 すうがく は可能 かのう か
如何 いか にして純粋 じゅんすい 自然 しぜん 科学 かがく は可能 かのう か
如何 いか にして素質 そしつ としての形而上学 けいじじょうがく は可能 かのう か
如何 いか にして学 がく としての形而上学 けいじじょうがく は可能 かのう か
カントは、本書 ほんしょ の序論 じょろん において、デイヴィッド・ヒューム の因果 いんが 関係 かんけい 批判 ひはん こそ、「私 わたし の独断 どくだん のまどろみ」を破 やぶ ったものであるとして、自己 じこ の批判 ひはん 哲学 てつがく の内面 ないめん 的 てき な起源 きげん が、ヒュームにあることを明 あき らかにしている。
プロレゴメナとは、ギリシャ語 ご に由来 ゆらい するProlegomenonの複数 ふくすう 形 がた で、序文 じょぶん 、緒言 しょげん 、序論 じょろん などを意味 いみ する。
必須 ひっす の序言 じょげん や緒言 しょげん とともに、カントはこの著作 ちょさく を先行 せんこう する問題 もんだい 提起 ていき と三 みっ つの章 しょう に区分 くぶん した。
普遍 ふへん 的 てき 問題 もんだい :そもそも形而上学 けいじじょうがく は可能 かのう か/如何 いか にして純粋 じゅんすい 理性 りせい からの認識 にんしき は可能 かのう か[ 編集 へんしゅう ]
超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 主要 しゅよう 問題 もんだい の第 だい 一部 いちぶ :如何 いか にして純粋 じゅんすい 数学 すうがく は可能 かのう か[ 編集 へんしゅう ]
この部分 ぶぶん は、要 よう するに『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』から超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 感性 かんせい 論 ろん の要約 ようやく 版 ばん になっている。この中 なか で、カントは空間 くうかん と時間 じかん の超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 観念 かんねん 性 せい についてのひょっとすると最 もっと も有名 ゆうめい な教 きょう 説 せつ を展開 てんかい している。要約 ようやく すれば次 つぎ のようなことが述 の べられている。空間 くうかん と時間 じかん は実在 じつざい 的 てき には存在 そんざい しない、つまり、人間 にんげん から独立 どくりつ には存在 そんざい しない。すなわち、それらはむしろ(人間 にんげん の)全 すべ ての感性 かんせい 的 てき 経験 けいけん の根本 こんぽん 条件 じょうけん であり、それで以 もっ て我々 われわれ が現実 げんじつ を見 み るようなメガネのようなものである。
全 すべ ての感性 かんせい 的 てき 経験 けいけん の必然 ひつぜん 的 てき 条件 じょうけん である純粋 じゅんすい な直観 ちょっかん 形式 けいしき である空間 くうかん と時間 じかん とを以 もっ て、この理論 りろん は特 とく に次 つぎ のことを説明 せつめい しようとする。なぜ数学 すうがく と幾何 きか 学 がく (カントの時代 じだい での)における判断 はんだん は全 すべ ての経験 けいけん 判断 はんだん を超 こ えた破棄 はき できない必然 ひつぜん 性 せい をもつのか。すなわち、両者 りょうしゃ が現実 げんじつ において我々 われわれ から独立 どくりつ に形成 けいせい されうるのならば、それらについての言明 げんめい は、例 たと えば「全 すべ ての(健全 けんぜん な)犬 いぬ は四 よん 本 ほん の足 あし を持 も つ」のような帰納 きのう 推理 すいり による比較的 ひかくてき 普遍 ふへん 的 てき な言明 げんめい の確実 かくじつ 性 せい を要求 ようきゅう しうる。すなわち、我々 われわれ が「これまで」見 み てきた限 かぎ りで、犬 いぬ 類 るい の(健全 けんぜん な)生物 せいぶつ は四肢 しし を持 も つ。我々 われわれ がある日 ひ 三 さん 本 ほん の足 あし をもったそのような生物 せいぶつ にも出 で くわすだろうことを不可能 ふかのう にしないのは何 なに か。
超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 主要 しゅよう 問題 もんだい の第 だい 二 に 部 ぶ :如何 いか にして純粋 じゅんすい 自然 しぜん 科学 かがく は可能 かのう か[ 編集 へんしゅう ]
この部分 ぶぶん は、手短 てみじか に言 い えば、『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』の超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 分析 ぶんせき 論 ろん の思想 しそう を再現 さいげん している。すなわち、前 まえ の部分 ぶぶん では感性 かんせい 的 てき 認識 にんしき の必然 ひつぜん 的 てき 前提 ぜんてい が主役 しゅやく を演 えん じたが、ここでは(カント的 てき な意味 いみ での)悟性 ごせい が認識 にんしき するものが核心 かくしん にある。「実体 じったい 」、「原因 げんいん と結果 けっか 」、「普遍 ふへん 性 せい 」等々 とうとう のような原理 げんり 的 てき な、自然 しぜん 科学 かがく (カントの時代 じだい の)における中心 ちゅうしん 概念 がいねん (カントはそれを「カテゴリー 」と呼 よ ぶ)が、空間 くうかん や時間 じかん と同 おな じように我々 われわれ の認識 にんしき のうちで必然 ひつぜん 的 てき 条件 じょうけん となることを悟性 ごせい は証明 しょうめい しようとする。すなわち、我々 われわれ はカントに従 したが って、二 ふた つの連続 れんぞく する出来事 できごと の関係 かんけい (太陽 たいよう が石 いし を照 て らす、石 いし が温 あたた まる)を因果 いんが 性 せい のカテゴリーの下 した で考察 こうさつ することができる。カテゴリーはかつて単 たん に連続 れんぞく していただけのものに客観 きゃっかん 的 てき 必然 ひつぜん 性 せい を与 あた える。すなわち、まさに太陽 たいよう が石 いし をてらす「ので」、石 いし が温 あたた まるのである。
これも、普遍 ふへん 的 てき で自然 しぜん 科学 かがく 的 てき な言明 げんめい に、単 たん なる帰納 きのう を超 こ えて達 たっ せられるある種 しゅ の必然 ひつぜん 性 せい と合 ごう 法則 ほうそく 性 せい を確保 かくほ するという上述 じょうじゅつ の目的 もくてき と似 に ている。ちょうど原因 げんいん と結果 けっか の取 と り扱 あつか いはさらにヒューム に対 たい する明白 めいはく な反対 はんたい と見 み なされる。ヒュームは因果 いんが 関係 かんけい についての我々 われわれ の言明 げんめい の客観 きゃっかん 的 てき 実在 じつざい 性 せい を攻撃 こうげき し、そこに出来事 できごと についての観察 かんさつ された関係 かんけい について必然 ひつぜん 性 せい を想定 そうてい する習慣 しゅうかん への単 たん なる主観 しゅかん 的 てき で心理 しんり 学 がく 的 てき な傾向 けいこう だけを認 みと めた。
超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 主要 しゅよう 問題 もんだい の第 だい 三 さん 部 ぶ :如何 いか にして形而上学 けいじじょうがく 一般 いっぱん は可能 かのう か[ 編集 へんしゅう ]
この著作 ちょさく の三 みっ つ目 め の部分 ぶぶん は、『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』の超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 弁 べん 証 しょう 論 ろん の簡略 かんりゃく 化 か されかなり短 みじか くされたものを提示 ていじ している。ここで、中心 ちゅうしん 的 てき な認識 にんしき 器官 きかん として本来 ほんらい の意味 いみ での(再 ふたた びカントの用語 ようご 法 ほう に従 したが って)理性 りせい が主題 しゅだい となっている。感性 かんせい と悟性 ごせい が(上述 じょうじゅつ のように)自然 しぜん についての我々 われわれ の認識 にんしき を構成 こうせい するのに対 たい して、理性 りせい は自然 しぜん に対 たい して統制 とうせい 的 てき なものとして我々 われわれ を指導 しどう することで全 すべ ての可能 かのう な認識 にんしき の全体 ぜんたい を目指 めざ すのに役立 やくだ つ。そこで、我々 われわれ が理性 りせい が新 あたら しい認識 にんしき のための構成 こうせい 的 てき な権能 けんのう をもつと誤 あやま って考 かんが え、それによっていわゆるアンチノミー に陥 おちい いってしまう危険 きけん が生 しょう じる。そのアンチノミーは、認識 にんしき しうる存在 そんざい 者 しゃ としての我々 われわれ が追求 ついきゅう す「べき」ものと我々 われわれ が認識 にんしき し「得 え る」ものとの混同 こんどう にすべて基 もと づいている。
そこから形而上学 けいじじょうがく 的 てき な問題 もんだい 提起 ていき が、世界 せかい の時間 じかん 的 てき 空間 くうかん 的 てき な制約 せいやく に従 したが って、全 すべ ての存在 そんざい 者 しゃ の第 だい 一 いち 原因 げんいん あるいは神 かみ の実存 じつぞん に従 したが って、生 しょう じる。このことは、認識 にんしき 能力 のうりょく としての我々 われわれ の理性 りせい の批判 ひはん によって、理性 りせい がその能力 のうりょく のうちで証明 しょうめい したいものだが、理性 りせい はまた同時 どうじ に制限 せいげん され、全 すべ てのこの問題 もんだい 提起 ていき の(理論 りろん 的 てき な)解決 かいけつ 不可能 ふかのう 性 せい だけが証明 しょうめい されるのである。