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がくとしてあらわれるであろうあらゆる将来しょうらい形而上学けいじじょうがくのためのプロレゴメナ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

がくとしてあらわれるであろうあらゆる将来しょうらい形而上学けいじじょうがくのためのプロレゴメナ』(どく: Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können)は、イマヌエル・カントによって1783ねん出版しゅっぱんされたかれ理論りろん哲学てつがくについての入門にゅうもんてき注釈ちゅうしゃくしょである。通常つうじょうは『プロレゴメナ』『プロレゴーメナ』などとりゃくしてばれる。ふるくは『哲学てつがく序説じょせつとうともやくされた[1]

概要がいよう

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カントの『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』は、1781ねんにそのだいいちはん出版しゅっぱんされた。しかし、その内容ないよう難解なんかいであったため、おおくの批判ひはんにさらされていた。そこでカントは、自分じぶん著書ちょしょがよりひろれられるように、また自身じしん理性りせい批判ひはんもとづく形而上学けいじじょうがく序論じょろんとして、『プロレゴメナ』をあらわした。

『プロレゴメナ』の主要しゅようなテーマは、『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』とおなじく以下いかのものであり、本書ほんしょ構成こうせいにもあらわれている。

  • 如何いかにして純粋じゅんすい数学すうがく可能かのう
  • 如何いかにして純粋じゅんすい自然しぜん科学かがく可能かのう
  • 如何いかにして素質そしつとしての形而上学けいじじょうがく可能かのう
  • 如何いかにしてがくとしての形而上学けいじじょうがく可能かのう

カントは、本書ほんしょ序論じょろんにおいて、デイヴィッド・ヒューム因果いんが関係かんけい批判ひはんこそ、「わたし独断どくだんのまどろみ」をやぶったものであるとして、自己じこ批判ひはん哲学てつがく内面ないめんてき起源きげんが、ヒュームにあることをあきらかにしている。

構成こうせい

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プロレゴメナとは、ギリシャ由来ゆらいするProlegomenonの複数ふくすうがたで、序文じょぶん緒言しょげん序論じょろんなどを意味いみする。 必須ひっす序言じょげん緒言しょげんとともに、カントはこの著作ちょさく先行せんこうする問題もんだい提起ていきみっつのしょう区分くぶんした。

普遍ふへんてき問題もんだい:そもそも形而上学けいじじょうがく可能かのうか/如何いかにして純粋じゅんすい理性りせいからの認識にんしき可能かのう

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超越ちょうえつろんてき主要しゅよう問題もんだいだい一部いちぶ如何いかにして純粋じゅんすい数学すうがく可能かのう

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この部分ぶぶんは、ようするに『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』から超越ちょうえつろんてき感性かんせいろん要約ようやくばんになっている。このなかで、カントは空間くうかん時間じかん超越ちょうえつろんてき観念かんねんせいについてのひょっとするともっと有名ゆうめいきょうせつ展開てんかいしている。要約ようやくすればつぎのようなことがべられている。空間くうかん時間じかん実在じつざいてきには存在そんざいしない、つまり、人間にんげんから独立どくりつには存在そんざいしない。すなわち、それらはむしろ(人間にんげんの)すべての感性かんせいてき経験けいけん根本こんぽん条件じょうけんであり、それでもっ我々われわれ現実げんじつるようなメガネのようなものである。

すべての感性かんせいてき経験けいけん必然ひつぜんてき条件じょうけんである純粋じゅんすい直観ちょっかん形式けいしきである空間くうかん時間じかんとをもって、この理論りろんとくつぎのことを説明せつめいしようとする。なぜ数学すうがく幾何きかがく(カントの時代じだいでの)における判断はんだんすべての経験けいけん判断はんだんえた破棄はきできない必然ひつぜんせいをもつのか。すなわち、両者りょうしゃ現実げんじつにおいて我々われわれから独立どくりつ形成けいせいされうるのならば、それらについての言明げんめいは、たとえば「すべての(健全けんぜんな)いぬよんほんあしつ」のような帰納きのう推理すいりによる比較的ひかくてき普遍ふへんてき言明げんめい確実かくじつせい要求ようきゅうしうる。すなわち、我々われわれが「これまで」てきたかぎりで、いぬるいの(健全けんぜんな)生物せいぶつ四肢ししつ。我々われわれがあるさんほんあしをもったそのような生物せいぶつにもくわすだろうことを不可能ふかのうにしないのはなにか。

超越ちょうえつろんてき主要しゅよう問題もんだいだい如何いかにして純粋じゅんすい自然しぜん科学かがく可能かのう

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この部分ぶぶんは、手短てみじかえば、『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』の超越ちょうえつろんてき分析ぶんせきろん思想しそう再現さいげんしている。すなわち、まえ部分ぶぶんでは感性かんせいてき認識にんしき必然ひつぜんてき前提ぜんてい主役しゅやくえんじたが、ここでは(カントてき意味いみでの)悟性ごせい認識にんしきするものが核心かくしんにある。「実体じったい」、「原因げんいん結果けっか」、「普遍ふへんせい等々とうとうのような原理げんりてきな、自然しぜん科学かがく(カントの時代じだいの)における中心ちゅうしん概念がいねん(カントはそれを「カテゴリー」とぶ)が、空間くうかん時間じかんおなじように我々われわれ認識にんしきのうちで必然ひつぜんてき条件じょうけんとなることを悟性ごせい証明しょうめいしようとする。すなわち、我々われわれはカントにしたがって、ふたつの連続れんぞくする出来事できごと関係かんけい太陽たいよういしらす、いしあたたまる)を因果いんがせいのカテゴリーのした考察こうさつすることができる。カテゴリーはかつてたん連続れんぞくしていただけのものに客観きゃっかんてき必然ひつぜんせいあたえる。すなわち、まさに太陽たいよういしをてらす「ので」、いしあたたまるのである。

これも、普遍ふへんてき自然しぜん科学かがくてき言明げんめいに、たんなる帰納きのうえてたっせられるあるしゅ必然ひつぜんせいごう法則ほうそくせい確保かくほするという上述じょうじゅつ目的もくてきている。ちょうど原因げんいん結果けっかあつかいはさらにヒュームたいする明白めいはく反対はんたいなされる。ヒュームは因果いんが関係かんけいについての我々われわれ言明げんめい客観きゃっかんてき実在じつざいせい攻撃こうげきし、そこに出来事できごとについての観察かんさつされた関係かんけいについて必然ひつぜんせい想定そうていする習慣しゅうかんへのたんなる主観しゅかんてき心理しんりがくてき傾向けいこうだけをみとめた。

超越ちょうえつろんてき主要しゅよう問題もんだいだいさん如何いかにして形而上学けいじじょうがく一般いっぱん可能かのう

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この著作ちょさくみっ部分ぶぶんは、『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』の超越ちょうえつろんてきべんしょうろん簡略かんりゃくされかなりみじかくされたものを提示ていじしている。ここで、中心ちゅうしんてき認識にんしき器官きかんとして本来ほんらい意味いみでの(ふたたびカントの用語ようごほうしたがって)理性りせい主題しゅだいとなっている。感性かんせい悟性ごせいが(上述じょうじゅつのように)自然しぜんについての我々われわれ認識にんしき構成こうせいするのにたいして、理性りせい自然しぜんたいして統制とうせいてきなものとして我々われわれ指導しどうすることですべての可能かのう認識にんしき全体ぜんたい目指めざすのに役立やくだつ。そこで、我々われわれ理性りせいあたらしい認識にんしきのための構成こうせいてき権能けんのうをもつとあやまってかんがえ、それによっていわゆるアンチノミーおちいいってしまう危険きけんしょうじる。そのアンチノミーは、認識にんしきしうる存在そんざいしゃとしての我々われわれ追求ついきゅうす「べき」ものと我々われわれ認識にんしきし「る」ものとの混同こんどうにすべてもとづいている。

そこから形而上学けいじじょうがくてき問題もんだい提起ていきが、世界せかい時間じかんてき空間くうかんてき制約せいやくしたがって、すべての存在そんざいしゃだいいち原因げんいんあるいはかみ実存じつぞんしたがって、しょうじる。このことは、認識にんしき能力のうりょくとしての我々われわれ理性りせい批判ひはんによって、理性りせいがその能力のうりょくのうちで証明しょうめいしたいものだが、理性りせいはまた同時どうじ制限せいげんされ、すべてのこの問題もんだい提起ていきの(理論りろんてきな)解決かいけつ不可能ふかのうせいだけが証明しょうめいされるのである。

日本語にほんごやく

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脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ 哲学てつがく序説じょせつ桑木くわき厳翼げんよく天野あまの貞祐ていゆうわけ東亜とうあどう、1914ねん大正たいしょう3ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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プロレゴメナの原文げんぶん

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カントにかんするリンク

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