そう箇山

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そう箇山
写真しゃしん中央ちゅうおうおくやまそう箇山
標高ひょうこう 356 m
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん 広島ひろしまけん広島ひろしま西にし
安佐南あさみなみ
位置いち 北緯ほくい3425ふん32.8びょう 東経とうけい13226ふん3.9びょう / 北緯ほくい34.425778 東経とうけい132.434417 / 34.425778; 132.434417座標ざひょう: 北緯ほくい3425ふん32.8びょう 東経とうけい13226ふん3.9びょう / 北緯ほくい34.425778 東経とうけい132.434417 / 34.425778; 132.434417
宗箇山の位置(日本内)
宗箇山
そう箇山の位置いち
プロジェクト やま
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そう箇山(そうこやま)は、広島ひろしまけん広島ひろしま西にし安佐南あさみなみとのさかいにあるやまである。標高ひょうこう356m。地元じもとでは地名ちめい由来ゆらい三滝みたきやまともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

戦国せんごく武将ぶしょう茶人ちゃじん上田うえだはじめがこのやままつえたのが名称めいしょう由来ゆらいである。そのため「植松うえまつさん」ともばれる。そう箇は広島ひろしまじょう本丸ほんまるちぢみけいえんいずみてい)・上田うえだ上屋敷かみやしきもうけた茶屋ちゃや和風わふうどう」の3ヶ所かしょからのぞめる借景しゃっけいとしてこのやまえらび、山頂さんちょうおおきな赤松あかまつえた。そのためにこのまつは「そう箇松」、やまは「そう箇山」とばれるようになった。そう箇がえた初代しょだいまつ落雷らくらい焼失しょうしつし、2代目だいめ軍部ぐんぶきゅう陸軍りくぐん)が対空たいくう陣地じんち構築こうちくのために伐採ばっさい、3代目だいめ戦後せんごマツクイムシにより枯死こししており、現在げんざいむね箇松は1998ねん11月29にち植樹しょくじゅされた4代目だいめである[1]

そう箇は武将ぶしょうとしてははじめ丹羽にわ長秀ながひで、のち豊臣とよとみ秀吉ひでよし配下はいかとなり、茶道さどうにおいては千利休せんのりきゅう門下もんかののち古田ふるた織部おりべ門下もんかとなった人物じんぶつで、茶道さどう流派りゅうは上田うえだはじめ箇流」を創始そうしした。元和がんわ5ねん1619ねん)にそう箇が浅野あさの長晟ながあきらしたがって広島ひろしまはんはいって以降いこう上田うえだ広島ひろしまはん家老がろうをつとめ武家ぶけ茶道さどう発展はってんさせた。浅野あさの別邸べっていとなったちぢみけいえんいずみてい)はそう箇のさくにわによるものである(そう箇は徳島とくしまじょうひょう御殿ごてん庭園ていえん名古屋なごやじょうまる庭園ていえんがけている)。

地元じもとでは、正式せいしき名称めいしょうであるそう箇山よりも「三滝山さんだきやま(みたきやま)」という呼称こしょう一般いっぱんてきである。これは、やま中腹ちゅうふくみっつのたきがあったことに由来ゆらいする。そのたきは、三瀧寺さんそうじうらにあるが、現在げんざいはほとんどみずれており、説明せつめい看板かんばんによって、かろうじて確認かくにんできる状態じょうたいである。

登山とざんこう真言宗しんごんしゅう古刹こさつ三瀧寺さんそうじがある。このてら周辺しゅうへんは、はるさくらあき紅葉こうよう名所めいしょとしてられ、有名ゆうめい撮影さつえいスポットとなっている。

山頂さんちょうからは広島ひろしま市街しがい一望いちぼうのもとに見下みおろすことができ、都市とし近郊きんこうハイカーに人気にんきのあるやまである。元旦がんたんには初日はつひおがひとでにぎわう。広島ひろしま小学校しょうがっこうてい学年がくねん遠足えんそく定番ていばんコースでもあり、林間りんかん学校がっこうとうでよく利用りようされる「広島ひろしま三滝みたき少年しょうねん自然しぜんいえ」とあわせ、地元じもとにはなじみのふかやまでもある。

1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ6にち原爆げんばく投下とうかときそう箇山の東麓ひがしふもとにあたる三滝本みたきほんまち地区ちく熱線ねっせん爆風ばくふうすくなく、損害そんがい軽微けいびだったため、このやま陸軍りくぐん救護きゅうご活動かつどう拠点きょてんとなり、すうおおくの負傷ふしょうしゃはこばれた。そこでいのちとしたものほねで、たにまるほどであったとわれる[よう出典しゅってん]

施設しせつ[編集へんしゅう]

アクセス[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ そう箇松物語ものがたり

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]