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尾澤おざわ虎雄とらお

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おざわ とらお

尾澤おざわ 虎雄とらお
生誕せいたん 1884ねん4がつ22にち
日本の旗 長野ながのけん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 長崎ながさき製糸せいし取締役とりしまりやく
おや 倉澤くらさわ淸人きよひとちち
尾澤おざわ福太郎ふくたろうもと岳父がくふ養父ようふ
親戚しんせき 尾澤おざわきむ左衛門さえもん元義もとよし祖父そふやしなえ祖父そふ
尾澤おざわ琢郎たくろう元義もとよし叔父おじやしなえ叔父おじ
尾澤おざわ晴海はるみやしなえけい
片倉かたくら直人なおとやしなえ義弟ぎてい
尾澤おざわ金藏きんぞう元義もとよし従弟じゅうていやしなえ従弟じゅうてい
尾澤おざわ金一きんいちげん継子けいこやしなえおい
尾澤おざわりくひらめげん継子けいこやしなえおい
代目だいめ池貝いけがい庄太郎しょうたろうやしなえおい
濱口はまぐち義郎よしおやしなえおい
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尾澤おざわ 虎雄とらお(おざわ とらお、1884ねん4がつ22にち[1] - ?)は、日本にっぽん実業じつぎょう旧姓きゅうせい倉澤くらさわ(くらさわ)。せいの「さわ」は「さわ」のきゅう字体じたいであるため、尾沢おざわ 虎雄とらお(おざわ とらお)とも表記ひょうきされる。

株式会社かぶしきがいしゃ尾澤おざわぐみ片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき株式会社かぶしきがいしゃ勤務きんむし、薩摩さつま製糸せいし株式会社かぶしきがいしゃ専務せんむ取締役とりしまりやく松江まつえ片倉かたくら製糸せいし株式会社かぶしきがいしゃ監査かんさやく尾澤おざわ組合くみあいめい会社かいしゃ社員しゃいん長崎ながさき製糸せいし株式会社かぶしきがいしゃ専務せんむ取締役とりしまりやく佐賀さがけん蚕業さんぎょう株式会社かぶしきがいしゃ専務せんむ取締役とりしまりやく株式会社かぶしきがいしゃ富岡とみおか製糸せいししょ工場こうじょうちょう片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき株式会社かぶしきがいしゃ片倉かたくら富岡とみおか製糸せいししょ工場こうじょうちょう朝鮮ちょうせん生糸きいと株式会社かぶしきがいしゃ取締役とりしまりやくなどを歴任れきにんした。

来歴らいれき

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尾澤おざわ寄贈きぞうした岡谷おかや市庁舎しちょうしゃ地域ちいきのためにと尾澤おざわ私財しざいとうじて建設けんせつした

1884ねん4がつ22にち倉澤くらさわ淸人きよひと二男じなんとして長野ながのけんまれた。実業じつぎょうである尾澤おざわ福太郞ふくたろう長女ちょうじょ結婚けっこんすることになり[2]、それにともな福太郞ふくたろう養子ようしとなった[2]。もともと福太郞ふくたろう長女ちょうじょ尾澤おざわはる結婚けっこんしており[3]福太郞ふくたろうはれ海を養嗣子ようししとしていた。しかし、はれ海はわかくしてくなったため[2]福太郞ふくたろう長女ちょうじょ虎雄とらお再婚さいこんすることとなったのである。なお、福太郞ふくたろう長女ちょうじょはれ海とのあいだには尾澤おざわ金一きんいちまれており、くなったはれ海にわって金一きんいち尾澤おざわ嫡子ちゃくしとなっていた[2]

当時とうじ尾澤おざわ家業かぎょう興隆こうりゅうきわめていた。もともと尾澤おざわ信濃しなのこく製糸せいしぎょういとなんでいたが[4]尾澤おざわ福太郞ふくたろう実父じっぷである尾澤おざわきむ左衛門さえもん初代しょだい片倉かたくら兼太郎かねたろうはやしくら太郎たろうとともにどう業者ぎょうしゃ糾合きゅうごうして結社けっしゃ開明かいめいしゃ」を創業そうぎょうし、尾澤おざわ片倉かたくら林家はやしや輪番りんばん社長しゃちょうつとめるようになった[5][6]開明かいめいしゃは「県下けんかだいいち結社けっしゃ」とたたえられるほどの成功せいこうおさめたが[6]、やがて長野ながのけん製糸せいしぎょう結社けっしゃでは加盟かめい業者ぎょうしゃ独立どくりつ相次あいつぐようになった[6]きむ左衛門さえもんより家督かとく相続そうぞくした福太郞ふくたろう[2]経営けいえいしていた「尾澤おざわぐみ」を開明かいめいしゃから独立どくりつさせることにした[6]加盟かめい業者ぎょうしゃ独立どくりつ相次あいついだ結果けっか長野ながのけんには器械きかい製糸せいし業者ぎょうしゃだけでも600しゃ以上いじょう乱立らんりつする事態じたいとなったが[7]、そのなかでも尾澤おざわぐみは「諏訪すわろくだい製糸せいし[7]ばれるほどに成長せいちょうした。1923ねん時点じてんでは長野ながのけんだけで1,075がま製糸せいししょ所有しょゆうしていたが[8]、そのほか埼玉さいたまけんに1,005がま[8]熊本くまもとけんに418がま[8]青森あおもりけんに348がまなど[8]けんがいにも多数たすう製糸せいししょ所有しょゆう[8]全国ぜんこく規模きぼ事業じぎょう展開てんかいした。こうしたなか、虎雄とらお福太郞ふくたろう婿養子むこようしとして家業かぎょうはげむことになる。

実業じつぎょうとして

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1923ねん尾澤おざわぐみ株式会社かぶしきがいしゃされ、初代しょだい社長しゃちょう尾澤おざわ福太郞ふくたろう就任しゅうにんしたが[9]、この時点じてんで2,700がまちょうようする巨大きょだい製糸せいし業者ぎょうしゃであった[9]。その初代しょだい片倉かたくら兼太郎かねたろう実弟じっていであり養嗣子ようししでもある代目だいめ片倉かたくら兼太郎かねたろう経営けいえいする片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせきと、尾澤おざわぐみとの合併がっぺい沙汰ざたされるようになった。片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせきは、尾澤おざわぐみ同様どうよう開明かいめいしゃから独立どくりつした初代しょだい兼太郎かねたろうの「片倉かたくらぐみ」を源流げんりゅうとしている。さらに、尾澤おざわ片倉かたくらはもともと縁戚えんせきであり良好りょうこう関係かんけいにあったことから[8]合併がっぺい協議きょうぎはスムーズにはこんだ[8]。その結果けっか、1923ねん片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき尾澤おざわぐみ合併がっぺい成立せいりつした[9]。この合併がっぺいにより、日本にっぽん国内こくない製糸せいししょのうち7わり以上いじょうめる巨大きょだい企業きぎょう誕生たんじょうすることになり、各地かくちでさらなる製糸せいししょ新設しんせつ買収ばいしゅう展開てんかいするとともに、日本にっぽん本土ほんどだけでなく朝鮮ちょうせん中華民国ちゅうかみんこくにも進出しんしゅつした[9]合併がっぺい片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせきにおいて、福太郞ふくたろう取締役とりしまりやくとしてむかえられ常務じょうむ就任しゅうにんした[10]虎雄とらお片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき幹部かんぶとしてむかえられることになった。なお、虎雄とらおつまくなると他家たけから後妻ごさいむかえることにした。また、妻子さいしともな福太郞ふくたろういえから分家ぶんけすることになった。ただ、福太郞ふくたろうとの養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょうせず、つづ福太郞ふくたろう養子ようしとして活動かつどうした。

片倉かたくら財閥ざいばつにおいては要職ようしょく歴任れきにんした。片倉かたくら財閥ざいばつ中核ちゅうかく企業きぎょうである片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき勤務きんむし、片倉かたくら尾澤おざわ製糸せいししょ平野ひらの製糸せいししょなどで所長しょちょうつとめた[11]とく九州きゅうしゅう地方ちほうにおいて活躍かつやくし、鳥栖とす製糸せいししょ小城おぎぐん製糸せいししょにて所長しょちょうつとめた[11]。のちに片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき九州きゅうしゅう監督かんとく[11][12]九州きゅうしゅう幹事かんじ就任しゅうにんした[11][12]同時どうじ片倉かたくら財閥ざいばつ傘下さんか薩摩さつま製糸せいしでは取締役とりしまりやくとなり専務せんむ就任しゅうにん[12]松江まつえ片倉かたくら製糸せいしでは監査かんさやく就任しゅうにんした[12]長崎ながさき製糸せいしでも取締役とりしまりやくとなり専務せんむ就任しゅうにん[11]佐賀さがけん蚕業さんぎょうにおいても取締役とりしまりやくとなり専務せんむとしておくまれた[11]。こうした経歴けいれきから、やがて「企業きぎょう経営けいえいつうじた、経験けいけん豊富ほうふ片倉かたくら製糸せいし幹部かんぶ社員しゃいん[11]されるようになった。そのほか、尾澤おざわ福太郞ふくたろう合名ごうめい会社かいしゃとしてあらたに尾澤おざわぐみ設立せつりつすると、その社員しゃいんとなった。なお、尾澤おざわぐみ代表だいひょう社員しゃいん福太郞ふくたろうつと[13]福太郞ふくたろうくなると家督かとく相続そうぞくした尾澤おざわ金一きんいち代表だいひょう社員しゃいんとなった。

なお、世界せかい遺産いさんの「富岡とみおか製糸せいしじょうきぬ産業さんぎょう遺産いさんぐん」としてられる富岡とみおか製糸せいしじょう運営うんえいにもたずさわっていた。1900年代ねんだいより実業じつぎょうはら富太郎とみたろうひきいる「はら合名ごうめい会社かいしゃ」がはら富岡とみおか製糸せいししょ運営うんえいしてきたが、1938ねん6がつに「株式会社かぶしきがいしゃ富岡とみおか製糸せいししょ」が設立せつりつされ、べつ会社かいしゃとしてはらから分離ぶんり独立どくりつした。そのさい片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき富岡とみおか製糸せいししょ筆頭ひっとう株主かぶぬしとなったため、代表だいひょう取締役とりしまりやくにはげん出身しゅっしん西郷さいごう健雄たけおき、工場こうじょうちょうには片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき出身しゅっしん虎雄とらおくことになった。官営かんえい富岡とみおか製糸せいしじょう時代じだいからかぞえれば、通算つうさんで15にん工場こうじょうちょうとなる[14]同年どうねん7がつより工場こうじょうちょうつとめていたが[14]翌年よくねんには富岡とみおか製糸せいししょ片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき[吸収きゅうしゅう合併がっぺいされることになった。それを工場こうじょう名称めいしょう片倉かたくら富岡とみおか製糸せいししょあらためられたが、つづ工場こうじょうちょうつとめた。1940ねん8がつ退任たいにんすることになり[14]後任こうにん紺野こんの新一しんいちいだ[14]

また、上諏訪かみすわえき周辺しゅうへん観光かんこうにも貢献こうけんしたことでもられている。1899ねん養父ようふ尾澤おざわ福太郞ふくたろうとその実弟じってい尾澤おざわ琢郞が、この地域ちいき土地とち共同きょうどう購入こうにゅうした[15]。この地域ちいきは、もともと諏訪湖すわこほとりから低湿ていしつひろがっており[16]住居じゅうきょ商店しょうてんなども存在そんざいしないたんなるづくぎなかった[16]。ただ、官設かんせつ中央東線ちゅうおうとうせんのべせん上諏訪かみすわえき設置せっち計画けいかくされていたことから[15]福太郞ふくたろうと琢郞はその将来しょうらいせいったものとされている[15]。のちに官設かんせつ中央東線ちゅうおうとうせんのべせん計画けいかく頓挫とんざしたさいには、琢郞が今井いまいかいらと45まんえんぶん政府せいふ公債こうさい購入こうにゅうするのでそれを原資げんし中央東線ちゅうおうとうせん延長えんちょうしてほしい[15]、とする請願せいがん運動うんどう展開てんかいした[15]。また、各地かくちにある尾澤おざわぐみ傘下さんか製糸せいし工場こうじょう排出はいしゅつされた石炭せきたんざん渣をふねはこ[17]、それをもちいて低湿ていしつ地帯ちたいてをすすめることで[17]湖畔こはん土地とち造成ぞうせいしていった[17]。琢郞がくなると、この土地とちは琢郞の長男ちょうなんである尾澤おざわ金藏きんぞう福太郞ふくたろう共同きょうどう所有しょゆうした[18]1925ねん、この土地とち所有しょゆうけんは、福太郞ふくたろう金藏きんぞう共同きょうどう名義めいぎから、法人ほうじんである尾澤おざわぐみ名義めいぎ変更へんこうされた[18]。この土地とちには尾澤おざわ別荘べっそう建設けんせつされたとみられるが[19]、それを虎雄とらおいで改装かいそう[19]1930ねんころに「湖畔こはんそう」を開業かいぎょうしたとされる[19]。ただし、尾澤おざわ虎雄とらお子孫しそんは「湖畔こはんそう」の営業えいぎょう開始かいしだい世界せかい大戦たいせんの1950ねん前後ぜんこうであり、その目的もくてき敗戦はいせんくるしい生活せいかつしにするためであったと証言しょうげんしている[20]。のちにこの地域ちいき首都しゅとけんからも観光かんこうきゃくおとずれる一大いちだい観光かんこうとなっていった。

家族かぞく親族しんぞく

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片倉かたくら財閥ざいばつおこした片倉かたくらとは姻戚いんせき関係かんけいにある。先妻せんさいちちであり養父ようふでもある尾澤おざわ福太郞ふくたろう二女じじょは、片倉かたくら俊太郎しゅんたろう片倉かたくら兼太郎かねたろうおい)の二男じなんである片倉かたくら直人なおととついでいる[2][8][21][22]直人ただびとは、片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせきなどの役員やくいんつとめた実業じつぎょうである[21][22][23]。また、福太郞ふくたろうおとうとである尾澤おざわ琢郞は、貴族きぞくいん議員ぎいんである今井いまいかい長女ちょうじょ結婚けっこんした[2][8]かい初代しょだい片倉かたくら兼太郎かねたろうおとうとであり、片倉かたくらから今井いまい養子ようしとなったのち、片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき役員やくいん国会こっかい議員ぎいんとなった。このように片倉かたくら尾澤おざわ関係かんけいふかく、片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき尾澤おざわぐみとの合併がっぺい話題わだいとなったさいには「片倉かたくら尾澤おざわ兩家りょうけ間柄あいだがらきりつてもれぬ親族しんぞく關係かんけいおな土地とちろくだい製糸せいしなどゝ對立たいりつしてゐたからとて、別段べつだん商賣敵しょうばいがたきとして啀みあいふこともなく、最近さいきん生糸きいとぎょう改善かいぜん先決せんけつ問題もんだいとして製糸せいしぎょう合同ごうどう機運きうん醸成じょうせいされらいつたのを動機どうきとして、スラ〳〵と合併がっぺいだんはかどつたのもむし當然とうぜんはなし[8][註釈ちゅうしゃく 1]ほうじられた。

系譜けいふ

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尾澤おざわはる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤おざわ金一きんいち
 
 
 
 
尾澤おざわきむ左衛門さえもん
 
尾澤おざわ福太郞ふくたろう
 
福太郞ふくたろう長女ちょうじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤おざわりくたいら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤おざわ虎雄とらお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福太郞ふくたろう二女じじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直人ただびと長女ちょうじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
片倉かたくら直人なおと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池貝いけがい庄太郎しょうたろう
 
 
 
 
 
尾澤おざわ琢郞
 
尾澤おざわ金藏きんぞう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直人ただびとさんじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
濱口はまぐち義郎よしお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  • 赤地あかじ太字ふとじ本人ほんにん緑地りょくち尾澤おざわ歴代れきだい当主とうしゅである。
  • 係累けいるい縁者えんじゃおおいため、尾澤おざわ虎雄とらお親族しんぞく該当がいとうする著名ちょめいじんのみ氏名しめい記載きさいした。
  • 尾澤おざわはる海は尾澤おざわ福太郞ふくたろう長女ちょうじょ結婚けっこん[3]福太郞ふくたろう養嗣子ようししとなったが早世そうせいしたため[2]家督かとくはれ海の長男ちょうなんである尾澤おざわ金一きんいち継承けいしょうした[2]
  • 尾澤おざわ虎雄とらお福太郞ふくたろう長女ちょうじょ結婚けっこん[2]福太郞ふくたろう養子ようしとなったが[2]、のちに他家たけから後妻ごさいめと[26]尾澤おざわから分家ぶんけした[27]
  • 尾澤おざわりくたいらはれ海の二男じなんであり[2]尾澤おざわから分家ぶんけした。
  • 尾澤おざわ琢郞は福太郞ふくたろうおとうとであり[2]尾澤おざわから分家ぶんけした[2]

脚注きゃくちゅう

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註釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 原文げんぶんたてであり、「スラ〳〵と」の「〳〵」はくのてんである。

出典しゅってん

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  1. ^ 武井たけいまき太郎たろう尾沢おざわ琢郎たくろうでん自彊じきょうかい、1928ねん、p.8。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 内尾うちお直二なおじ編輯へんしゅう人事じんじ興信録こうしんろく』4はん人事じんじ興信所こうしんじょ人事じんじ興信所こうしんじょ大阪おおさか支局しきょく1915ねん、を28ぺーじ
  3. ^ a b 内尾うちお直二なおじ編輯へんしゅう人事じんじ興信録こうしんろく』7はん人事じんじ興信所こうしんじょ人事じんじ興信所こうしんじょ大阪おおさか支局しきょく1925ねん、を40ぺーじ
  4. ^ 岩崎いわさき徂堂『成功せいこう経歴けいれき日本にっぽん製絲せいしぎょう大勢おおぜい博學はくがくかん1906ねん、6ぺーじ
  5. ^ 岩崎いわさき徂堂『成功せいこう経歴けいれき日本にっぽん製絲せいしぎょう大勢おおぜい博學はくがくかん1906ねん、154ぺーじ
  6. ^ a b c d 片倉かたくら草創そうそう」『車山くるまやまレア・メモリーがかた片倉工業かたくらこうぎょう』レア・メモリー。
  7. ^ a b 關東かんとう關西かんさい財閥ざいばつ鳥瞰ちょうかん――製糸せいしぎょうゆう網羅もうらする信州しんしゅうけい」『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん1923ねん7がつ6にち
  8. ^ a b c d e f g h i j k 關東かんとう關西かんさい財閥ざいばつ鳥瞰ちょうかん――製糸せいしぎょうゆう網羅もうらする信州しんしゅうけい」『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん1923ねん7がつ11にち
  9. ^ a b c d 「2代目だいめ兼太郎かねたろう」『車山くるまやまレア・メモリーがかた片倉工業かたくらこうぎょう』レア・メモリー。
  10. ^ きゅう岡谷おかや市役所しやくしょ庁舎ちょうしゃ」『きゅう岡谷おかや市役所しやくしょ庁舎ちょうしゃ | 信州しんしゅう岡谷おかや観光かんこうサイト たびたびおかや岡谷おかや観光かんこう協会きょうかい
  11. ^ a b c d e f g 髙梨健司けんじ片倉かたくら製糸せいし九州きゅうしゅう地方ちほうにおける蚕種さんしゅ製造せいぞう配給はいきゅう体制たいせい――佐賀さがけん蚕業さんぎょう株式会社かぶしきがいしゃ事例じれいに」『専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく年報ねんぽう』49ごう専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ2015ねん、161ぺーじ
  12. ^ a b c d 髙梨健司けんじ片倉かたくら製糸せいし九州きゅうしゅう地方ちほうにおける蚕種さんしゅ製造せいぞう配給はいきゅう体制たいせい――佐賀さがけん蚕業さんぎょう株式会社かぶしきがいしゃ事例じれいに」『専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく年報ねんぽう』49ごう専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ2015ねん、158ぺーじ
  13. ^ 松本まつもとじゅん編輯へんしゅう人事じんじ興信録こうしんろく』9はん人事じんじ興信所こうしんじょ人事じんじ興信所こうしんじょ大阪おおさか支局しきょく1931ねん、オ57ぺーじ
  14. ^ a b c d 経営けいえい」『富岡とみおか工場こうじょう沿革えんかく――片倉工業かたくらこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ富岡とみおか商工しょうこう会議かいぎしょ
  15. ^ a b c d e 佐藤さとうだいゆう近代きんだい上諏訪かみすわにおける温泉おんせん・スポーツふくごうがた観光かんこう形成けいせい湖畔こはん利用りよう」『立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ紀要きよう』15かん立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ2013ねん3がつ、33ぺーじ
  16. ^ a b 佐藤さとうだいゆう近代きんだい上諏訪かみすわにおける温泉おんせん・スポーツふくごうがた観光かんこう形成けいせい湖畔こはん利用りよう」『立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ紀要きよう』15かん立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ2013ねん3がつ、32ぺーじ
  17. ^ a b c 佐藤さとうだいゆう近代きんだい上諏訪かみすわにおける温泉おんせん・スポーツふくごうがた観光かんこう形成けいせい湖畔こはん利用りよう」『立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ紀要きよう』15かん立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ2013ねん3がつ、33ぺーじ
  18. ^ a b 佐藤さとうだいゆう近代きんだい上諏訪かみすわにおける温泉おんせん・スポーツふくごうがた観光かんこう形成けいせい湖畔こはん利用りよう」『立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ紀要きよう』15かん立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ2013ねん3がつ、44ぺーじ
  19. ^ a b c 佐藤さとうだいゆう近代きんだい上諏訪かみすわにおける温泉おんせん・スポーツふくごうがた観光かんこう形成けいせい湖畔こはん利用りよう」『立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ紀要きよう』15かん立教大学りっきょうだいがく観光かんこう学部がくぶ2013ねん3がつ、37ぺーじ
  20. ^ 坂本さかもと純子じゅんこ大学だいがく図書館としょかんより」『成城せいじょう教育きょういく』194ごう、p.27-29, 成城学園せいじょうがくえん教育きょういく研究所けんきゅうじょ、2022ねん3がつ
  21. ^ a b 關東かんとう關西かんさい財閥ざいばつ鳥瞰ちょうかん――製糸せいしぎょうゆう網羅もうらする信州しんしゅうけい」『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん1923ねん7がつ10日とおか
  22. ^ a b c 内尾うちお直二なおじ編輯へんしゅう人事じんじ興信録こうしんろく』7はん人事じんじ興信所こうしんじょ人事じんじ興信所こうしんじょ大阪おおさか支局しきょく1925ねん、か99ぺーじ
  23. ^ 關東かんとう關西かんさい財閥ざいばつ鳥瞰ちょうかん――製糸せいしぎょうゆう網羅もうらする信州しんしゅうけい」『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん1923ねん7がつ7にち
  24. ^ 時事新報じじしんぽうしゃだい三回調査全國五拾萬圓以上資産家」『時事新報じじしんぽう1916ねん3月29にち-1916ねん10月6にち
  25. ^ 内尾うちおただしあきら編輯へんしゅう人事じんじ興信録こうしんろく』10はん人事じんじ興信所こうしんじょ1934ねん、カ77ぺーじ
  26. ^ 内尾うちお直二なおじ編輯へんしゅう人事じんじ興信録こうしんろく』5はん人事じんじ興信所こうしんじょ人事じんじ興信所こうしんじょ大阪おおさか支局しきょく1918ねん、を41ぺーじ
  27. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく』8はん人事じんじ興信所こうしんじょ人事じんじ興信所こうしんじょ大阪おおさか支局しきょく1928ねん、オ52ぺーじ

関連かんれん人物じんぶつ

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関連かんれん項目こうもく

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ビジネス
先代せんだい
新設しんせつ
片倉かたくら製糸せいし紡績ぼうせき
片倉かたくら富岡とみおか製糸せいししょ工場こうじょうちょう

1939ねん - 1940ねん
次代じだい
紺野こんの新一しんいち
先代せんだい
横山よこやま秀昭ひであき
富岡とみおか製糸せいししょ工場こうじょうちょう
1938ねん - 1939ねん
次代じだい
廃止はいし