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山川やまかわ竜司りゅうじ

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山川やまかわ 竜司りゅうじ
Ryuji Yamakawa
山川 竜司 Ryuji Yamakawaの画像
プロフィール
リングネーム 山川やまかわ 竜司りゅうじ
竜司りゅうじ 山川やまかわ
山川やまかわ せい
本名ほんみょう 山川やまかわ せい
ニックネーム 自身じしん
ミスターだい日本にっぽん
身長しんちょう 176.5cm
体重たいじゅう 90kg
誕生たんじょう (1970-04-02) 1970ねん4がつ2にち(54さい
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう川上かわかみぐん弟子屈てしかがまち
所属しょぞく だい日本にっぽんプロレス
デビュー 1994ねん10月25にち
引退いんたい 2012ねん7がつ15にち
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山川やまかわ 竜司りゅうじ(やまかわ りゅうじ、1970ねん4がつ2にち - )は、日本にっぽんもとプロレスラー

本名ほんみょう山川やまかわ せい(やまかわ せいじ)。北海道ほっかいどう川上かわかみぐん弟子屈てしかがまち出身しゅっしん身長しんちょう176.5cm、体重たいじゅう90kg。だい日本にっぽんプロレス所属しょぞく

経歴けいれき

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1994ねん10がつ25にち神奈川かながわ南足柄みなみあしがら体育たいいくセンター、たいポイズン澤田さわだせんにてデビュー。

以後いごNOW(1994ねん)、東京とうきょうプロレス(1994ねん - 1995ねん)、だい日本にっぽんプロレス(1995ねん - )と、活躍かつやくうつしてきた。

リングネームの改名かいめいれきは、本名ほんみょうでデビューののち、1996ねん8がつに「竜司りゅうじ山川やまかわ」と改名かいめいしたがすぐに現在げんざいの「山川やまかわ竜司りゅうじ」へ改名かいめいした。

不死身ふじみ」という言葉ことばを「」と間違まちがえていてしまい、以降いこうかれとおとして定着ていちゃくしてしまった。

だい日本にっぽんでは、シャドウWX本間ほんまともあきらともに、「しん世代せだいデスマッチファイター」として活躍かつやく

1995ねんには総合そうごう格闘技かくとうぎ経験けいけん師匠ししょうかくケンドー・ナガサキがバーリトゥード修行しゅぎょうにブラジルにわたったさいには同行どうこうし、ともマルコ・フアス道場どうじょう修業しゅうぎょう滞在たいざいちゅうの10がつ22にちにはVALE TUDO BRAZIL OPENに出場しゅつじょう。ムエタイのブンシマ・ローンと対戦たいせん、ギロチンチョークで敗退はいたいする。

1999ねん5がつ30にち新川崎しんかわさき大会たいかいBJW認定にんていデスマッチヘビーきゅう王座おうざはつ戴冠たいかん

2000ねん2がつ22にち後楽園こうらくえん金村かなむらキンタローWEWハードコア王座おうざ挑戦ちょうせん勝利しょうり。そのとしの8がつ29にち後楽園こうらくえんでは、ザンディグ保持ほじしていたデスマッチヘビーきゅう王座おうざにも挑戦ちょうせんしたが、敗北はいぼくきっする。

事故じこから復帰ふっき休養きゅうよう

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2001ねん3がつ18にち博多はかたスターレーン大会たいかい試合しあいちゅうワイフビーターがエプロンから場外じょうがいへのネックハンギングボムをねらったさい距離きょりあやまりフロアに後頭部こうとうぶ強打きょうだ頭蓋骨ずがいこつ骨折こっせつにより、意識いしき不明ふめい重体じゅうたいにまでおちいった。

療養りょうよう期間きかんて、同年どうねん12がつ2にち横浜よこはまアリーナ大会たいかいWEWハードコアタッグ&BJWタッグりょう選手権せんしゅけん試合しあいMEN'Sテイオー関本せきもと大介だいすけ(BJWタッグ王者おうじゃぐみ)vs 山川やまかわ金村かなむら(WEWハードコアタッグ王者おうじゃぐみ))で復帰ふっきするも、後遺症こういしょうによるひだり半身はんしん麻痺まひ椎間板ついかんばんヘルニア併発へいはつで、おもうような試合しあい展開てんかいができないばかりか、日常にちじょう生活せいかつにも影響えいきょうおよぼしていた。とくに、椎間板ついかんばんヘルニアにいたっては、こしってMRI検査けんさ発見はっけんされるまで、一切いっさいづかなかったという始末しまつ医師いしからも「ナメたらエラいことになっていた」とまでわれた。

実際じっさい山川やまかわはそのような状態じょうたいにまでおちいっても、デスマッチ最後さいごまでやりこなしていたときもあったが、あまりにも試合しあい内容ないよう不甲斐ふがいなく、リングネームを本名ほんみょう強制きょうせい変更へんこうされたり、「友人ゆうじん」としょうするマスクマン「ミスターだい日本にっぽん」としてリングにがったりとしているうちに、次第しだい容態ようだい悪化あっか。2004ねん9がつ26にち後楽園こうらくえんホール大会たいかい最後さいごに 1年間ねんかん休養きゅうようることになった。

休養きゅうよう北海道ほっかいどうもどり、2004ねん12月1にち札幌さっぽろ薄野すすきのでスナック「薄野すすきのプロレスYAMARYU」を開店かいてん。そのかたわら、体調たいちょうもどすため、トレーニングにはげみ、だい日本にっぽん札幌さっぽろテイセンホール大会たいかい開催かいさいには、団体だんたいのPR活動かつどうおこなっていた。

1ねん経過けいかの2005ねん10がつ14にち後楽園こうらくえんホールをおとずれたが、気持きもちの整理せいりがつかないこと、万全ばんぜん体調たいちょうではないことなどを理由りゆうに、期限きげんへとえることを発表はっぴょうした。

2006ねん5がつ5にち横浜よこはまあかレンガ大会たいかいまえ。6がつ以降いこうかつらスタジオ大会たいかい実験じっけんてき大会たいかい位置付いちづけ、あらたにデスマッチファイターを公募こうぼする記者きしゃ会見かいけんで、盟友めいゆうシャドウWXから、「(山川やまかわが)かつらスタジオにてくるのもひとつのではないか」と発言はつげん

これに奮起ふんきした山川やまかわは7がつ札幌さっぽろみせ週末しゅうまつのみの営業えいぎょうとし、横浜よこはま鴨居かもい道場どうじょうまりんでの練習れんしゅう開始かいし

2006ねん9がつ23にち越谷こしがやかつらスタジオ大会たいかいにて、兄貴あにきぶんした金村かなむらキンタローをパートナーにむかえ、同期どうき黒田くろだあきらひろ・シャドウWXを相手あいて再起さいきせんおこない、復帰ふっき宣言せんげん。しかし、椎間板ついかんばんヘルニアはかんなおしていないため、実況じっきょうせきていた統括とうかつ部長ぶちょう当時とうじ)・登坂とさかさかえからは、「頂点ちょうてん目指めざすレスラーとしては『NO』だ」ときびしい評価ひょうかくだった。

10月の後楽園こうらくえんホール大会たいかいで、FMWぐんとして黒田くろだ田中たなかすすむんだ金村かなむらから、関本せきもといちかい田中たなかんでみるように提案ていあんしたさい、「ダッサダサで、もうどうしようもないけど山川やまかわもおる!」と参加さんかをほのめかし、これをけて10がつ29にち札幌さっぽろテイセンホールにて金村かなむら黒田くろだんで、関本せきもと佐々木ささき義人よしひと (プロレスラー)田中たなかとの6にんタッグマッチに出場しゅつじょう。このとき右肩みぎかた手術しゅじゅつのために長期ちょうき欠場けつじょうまっていた田中たなかから、「おまえ椎間板ついかんばんヘルニアをなおしてだい一線いっせんもどれ」と提案ていあんされた。

その北海道ほっかいどうもどり、だい日本にっぽんにはスポット参戦さんせん形態けいたいることとなる。2008ねんはるからアジアンプロレスプロモーションの興行こうぎょう参戦さんせん。9月、しん木場きば1stRING大会たいかい自身じしん4ねんぶりの東京とうきょうでの試合しあい)に、12月には横浜よこはま文化ぶんか体育館たいいくかん参戦さんせんしたが、どちらもデスマッチではなく、通常つうじょうルールでの試合しあいとなった。

2009ねん8がつ19にち新木場しんきば1stRING大会たいかい・8にんタッグトーナメントにおいて、7ねんりの蛍光けいこうとうデスマッチを2試合しあいおこなった。しかし、その試合しあい内容ないようわるさから、2010ねん5がつ4にち横浜よこはま文体ぶんたいだい日本にっぽん15周年しゅうねん記念きねん興行こうぎょう参戦さんせん最後さいごふたた休養きゅうようはいる。

引退いんたい

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2010ねん10がつ登坂とさかから引退いんたい勧告かんこくされ、引退いんたいけての練習れんしゅうおこなうことを決定けってい。2011ねんにはスナックを札幌さっぽろから横浜よこはま移転いてんし、横浜よこはま道場どうじょうでの練習れんしゅう開始かいし

2011ねん11月22にち後楽園こうらくえん大会たいかい休憩きゅうけいけの挨拶あいさつにて、登坂とさか社長しゃちょうから最終さいしゅう期限きげんを「2012ねん7がつ15にち札幌さっぽろテイセンホール大会たいかいとする」と宣言せんげん

12月6にち新木場しんきば1stRING大会たいかいにて復帰ふっき。ここから引退いんたいロードとして、蛍光けいこうとうから有刺鉄線ゆうしてっせん、ファイヤーデスマッチや月光げっこうやみちデスマッチなどをこなし、2012ねん7がつ15にち札幌さっぽろテイセンホール大会たいかい蛍光けいこうとう+五寸釘ごすんくぎボードデスマッチ」をもって引退いんたいした。

引退いんたい

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引退いんたい健康けんこう運動うんどう指導しどう資格しかく所得しょとく目指めざし、スポーツをつうじた社会しゃかい貢献こうけん活動かつどうむことを表明ひょうめいだい日本にっぽんプロレスでもスタッフとして会場かいじょうない姿すがたせつつ横浜よこはまのスナックの営業えいぎょう継続けいぞくしている。

2013ねん3がつ2にちWrestling New Classic横浜よこはまラジアントホール大会たいかい特別とくべつレフェリーとして参加さんかした。

得意とくいわざ

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リバース・タイガー・ドライバー
山川やまかわ代表だいひょうてきフィニッシュ・ホールド。
トリプルHのペディグリーとおなじく、ダブルアームからフェイスバスターでとすわざであるが、かけるがわひらけあしして尻餅しりもちをつくてんことなる。
現在げんざいは、葛西かさいじゅんがこのわざをつなぎわざとしていでいるほか、女子じょしプロレスラーの松本まつもとも、山川やまかわ引退いんたい興行こうぎょうまえおこなわれたアイスリボン札幌さっぽろ大会たいかい披露ひろうしている。だい日本にっぽんプロレス所属しょぞく選手せんしゅとしては宇藤うとうじゅんひさ使用しようしている。
パワーボム
ラリアット
ギロチンドロップ

合体がったい攻撃こうげき

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摩周ましゅう
本間ほんまともあきらとのタッグターム「BJジャックス」でタイトル戦線せんせんひろげていたとき考案こうあんされた合体がったいわざ山川やまかわ地元じもと摩周湖ましゅうこにちなんで命名めいめいほんあいだ山川やまかわ肩車かたぐるまかつげ、山川やまかわがコーナーさい上段じょうだんすわらせた相手あいて雪崩なだれしきのブレーンバスターをめる。
摩周ましゅう2000
こちらも本間ほんまとの合体がったいわざほんあいだ山川やまかわ肩車かたぐるまかつげ、山川やまかわがコーナーさい上段じょうだんすわらせた相手あいて雪崩なだれしきのバックフリップをめる。
摩周ましゅうWX
シャドウWXとの合体がったいわざ。WXが山川やまかわ肩車かたぐるまかつげ、山川やまかわがコーナーさい上段じょうだんすわらせた相手あいて雪崩なだれしきのダブルアーム・スープレックスをめる。
うら摩周ましゅう

入場にゅうじょうきょく

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ジャーニー・Separate Ways (Worlds Apart)

横浜よこはまプロレス酒場さかばYAMARYU

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  • 休業きゅうぎょうの2004ねん12月1にち札幌さっぽろ薄野すすきの開店かいてんしていたが、引退いんたいけた練習れんしゅう横浜よこはまおこなうため、2011ねん横浜よこはま移転いてん
  • 所在地しょざいち横浜よこはまなか長者ちょうじゃまち8丁目ちょうめ136-8 横浜よこはまエイトセンタービル1F

タイトルれき

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だい日本にっぽんプロレス

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BJW認定にんていデスマッチヘビーきゅう王座おうざ
だい6だいだい8だい
BJW認定にんていタッグ王座おうざ
だい2だいだい4だいだい6だいだい8だいだい10代・だい13だいだい18だい(パートナーは田尻たじり義博よしひろちゅうまき昭二しょうじマイク・サンプラス本間ほんまともあきらシャドウWXMEN'Sテイオー
だい日本にっぽんさい侠タッグリーグせん
1999ねん・2000ねん優勝ゆうしょう(パートナーはとも本間ほんまともあきら
WEWハードコア王座おうざ
だい2だい
WEWハードコアタッグ王座おうざ
だい8だい(パートナーは金村かなむらキンタロー

外部がいぶリンク

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