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山本やまもとしゅん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本やまもと しゅん(やまもと としつぐ、1964ねん9月29にち - )は、日本にっぽんもとラグビー選手せんしゅ現役げんえき時代じだい体格たいかくは、身長しんちょう182cm、体重たいじゅう85kg。

プロフィール

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略歴りゃくれき

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志摩しま町立ちょうりつ引津小学校しょうがっこう時代じだいひまさえあれば校庭こうていにあったラグビーポストを使つかってキックの練習れんしゅうおこない、のち役立やくだつキックの技術ぎじゅつけた。小学しょうがく5ねんときに引津リトルラガーズでラグビーをはじめ、中学ちゅうがくではラグビーがなかったためバスケットボール入部にゅうぶしながらラグビースクールで楕円だえんだまった。福岡ふくおか県立けんりつ糸島いとしま高等こうとう学校がっこう進学しんがくしてスタンドオフとして活躍かつやくする。福岡ふくおかけん大会たいかい上位じょうい進出しんしゅつ常連じょうれんであったが、花園はなぞの出場しゅつじょうはならなかった。福岡大学ふくおかだいがく時代じだいは、ライバルこう福岡工業大学ふくおかこうぎょうだいがくどう学年がくねんおき土居どいみのるという才能さいのうゆたかな選手せんしゅがおり、くるしめられた。4年生ねんせいになって全国ぜんこく大学だいがく選手権せんしゅけん出場しゅつじょうたしたのは、そのエースが日本にっぽん代表だいひょう招集しょうしゅうされてチームを不在ふざいにしているときち、九州きゅうしゅう大学だいがくリーグをせいしたからであった(このとし大学だいがく選手権せんしゅけんでは1回戦かいせん敗退はいたいも、21-33と明治大学めいじだいがくきそった)。

目立めだ活躍かつやくとは無縁むえんであったが「九州きゅうしゅう協会きょうかい関係かんけいしゃ推薦すいせんもあって」4年生ねんせいころからなつ日本にっぽん代表だいひょう候補こうほ合宿がっしゅくおき土居といともばれた。サントリーに入社にゅうしゃしたのは、当時とうじチームの監督かんとくつとめ、日本にっぽんA代表だいひょう指導しどうなどをしていた山本やまもといわお監督かんとくさそってもらったからであった。さき入社にゅうしゃまっていたライバルのおき土居どいくちいてくれたのがえんになった。社会しゃかいじんになってからはフルバックに専念せんねんし、1988ねんあきにははつキャップ、1989ねんのスコットランドせんでは28-24で歴史れきしてき勝利しょうりおさめた。スコットランドせんかんしてはがいして「キックオフでボールのしんにキックがたらなかったが、相手あいて反則はんそくからペナルティーゴールをねらった」と自身じしんのプレイについて後年こうねん記事きじかえっている。

プレースタイル

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あしおそいと自認じにんしていたが、相手あいてキックにたいするフィールディングとタックルには定評ていひょうがあった。パワーのあるキックもたか評価ひょうかていた。とりわけキックにかんしてはスコットランドせん記事きじふともものふとさを指摘してきされるなどひかるものがあり、これについて本人ほんにんは「キックはきで、ちいさなころからよくっていたので」とった。おなじくスコットランドせん期待きたいされていたディフェンスめん結果けっかのこせたのは、サントリー入社にゅうしゃからかさねたフルバックのポジション練習れんしゅうがあったからであったとかしている。

参考さんこう文献ぶんけん

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『ラグビー 戦後せんご70ねん』(ベースボールマガジンしゃ、2015ねん)p22-25