本城 和彦
略歴
[1979
2014
「本城 伝説 」
[高校 時代 に重量 フォワードを擁 したチームの司令塔 だったのに比 べて、進学 した早稲田 は軽量 フォワードだった。おまけにチームは1977年 の不祥事 発覚 によって一気 に低迷 期 に入 っていた。本城 の進学 は同期 の吉野 俊郎 ・津 布 久 誠 (つぶく まこと)の入学 とともに待望 のものであった。実際 、入学 早々 の部内 試合 で一軍 に抜擢 、そのプレーで周囲 の度肝 を抜 いて見 せた。以来 、4年間 の公式 戦 全 試合 にフル出場 、1981年 の招待 試合 ではダブリン大 を破 った。4年間 のプレースキックはすべて本城 が蹴 り、成功 率 は56.1%(トライ後 のコンバージョンに限 る。対抗 戦 のみ)。対抗 戦 通算 で24トライ、4ドロップゴール。- そのプレーは
華麗 の一言 に尽 きた。プレースキックだけでなくパントやロングキックも精確 、さらに軽量 フォワードのハンディを背負 いながら緩急 やパスワーク、ステップワークをフルに駆使 して絶妙 の間合 いで相手 ディフェンスを軽 やかに切 り裂 いてみせる。スリリングにして鮮 やかなゲームメイクで数々 のプレー・名 試合 を演出 、ラグビーセンスにあふれたそのプレーは来日 したフランス代表 の監督 をして「インテリジェンスを感 じた」と評価 されるほどだった。 - そうした
華麗 なプレースタイルに加 えて、甘 いマスク・華奢 な容姿 (決 してひ弱 ではないのだが)も相 まって、特 に女性 からの支持 を高 く集 めた。練習 場 である東伏見 グラウンドには「東伏見 族 」と呼 ばれる早大 ファン(主 に男性 )を押 しのけるように多数 の女性 たちが集 まって本城 の練習 を息 を潜 めて見守 り、秩父宮 や国立 競技 場 には満杯 のファンが詰 めかけた[3]。専門 誌 はもとよりスポーツ誌 や一般 誌 の表紙 を本城 が飾 るなど、まさにラグビー界 のアイドルだった。その加熱 ぶりはのちの平尾 誠二 や、新日鐵 釜石 ・神戸製鋼 などの人気 も及 ばなかった。 - その
象徴 的 な試合 が1981年 12月6日 の早 明 戦 。定員 を超 え今後 も破 られないと言 われる国立 競技 場 最多 の66,999人 を集 めた。試合 は明治 圧倒的 有利 の戦前 評 ・10kg以上 のFWの平均 体重 差 を覆 し、早稲田 が5年 ぶりの早 明 戦 勝利 を遂 げた。 - ラグビー
界 最大 のスターだった本城 だが、わずかにディフェンス、特 にタックルが甘 かったことから日本 代表 としての評価 は低 く、WTBでの獲得 と合 わせ代表 キャップ10に留 まった。丁度 その当時 、松尾 雄治 が日本 代表 不動 のスタンドオフとして君臨 していたという不運 もあった。
関連 項目
[- DAKARA - マーケッターとして
同 商品 の発売 や宣伝 に携 わった。
脚注
[- ^ JAPANサッカーを
支 える企業 - ここでは、富山 県 生 まれとなっている。また「北日本 新聞 」2019年 9月 19日 付 け「ひとズームアップとやま」では「父 が勤務 していた会社 のある魚津 市 で生 まれた。1歳 半 で東京 に移 ったが、小学生 時代 は夏休 みになれば母 の地元 でもある魚津 に行 き、いとこたちと遊 んでいた」と紹介 されている。 - ^
旧 国立 に6万 7000人 を呼 んだ男 、“貴公子 ”本城 和彦 は今 、テレビマンになっていた - 「THE ANSWER」2019年 7月 10日 配信 記事 - ^ 『ラグビー
戦後 70年 史 』(ベースボールマガジン社 、2016年 )p28