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本城ほんじょう和彦かずひこ

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本城ほんじょう 和彦かずひこ(ほんじょう かずひこ、1960ねん7がつ12にち - )は、東京とうきょうまれ[1]もと早稲田大学わせだだいがくラグビー蹴球しゅうきゅうサントリー選手せんしゅもと日本にっぽん代表だいひょう

略歴りゃくれき

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中学ちゅうがく時代じだいはサッカースクールにかよいながらバレーボール所属しょぞく陸上りくじょうすけつとめた。しかし早大そうだい野球やきゅう在籍ざいせきした父親ちちおや影響えいきょうで、早稲田わせだすすんで「アカクロのジャージ」をるという決意けついがこのころからつよかった。國學院久我山こくがくいんくがやま高校こうこうすすみ、スタンドオフとして高校こうこう屈指くっし重量じゅうりょうフォワードをあやつだい58かい全国ぜんこく高校こうこうラグビー大会たいかい優勝ゆうしょうし、高校こうこう日本にっぽん代表だいひょうにもえらばれた。

1979ねん早大そうだい進学しんがく早々そうそうにスタンドオフのてい位置いち確保かくほ以来いらい不動ふどうのスタンドオフとして対抗たいこうせん32試合しあい・ポストシーズン11試合しあいぜん公式こうしきせん43試合しあいにフル出場しゅつじょう在学ざいがくちゅうから日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされた。卒業そつぎょうサントリーすすむ。引退いんたいはサントリーに勤務きんむしながらチームと早大そうだい日本にっぽん協会きょうかい要職ようしょく歴任れきにん7にんせい日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくつとめた。

2014ねん12月、出向しゅっこうさきティップネス日本にほんテレビホールディングス傘下さんかはいったことをに、ティップネスでの仕事しごとつづけるべく転籍てんせき。2017ねん6がつには日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもうスポーツきょくうつった[2]

本城ほんじょう伝説でんせつ

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  • 高校こうこう時代じだい重量じゅうりょうフォワードをようしたチームの司令塔しれいとうだったのにくらべて、進学しんがくした早稲田わせだ軽量けいりょうフォワードだった。おまけにチームは1977ねん不祥事ふしょうじ発覚はっかくによって一気いっき低迷ていめいはいっていた。本城ほんじょう進学しんがく同期どうき吉野よしの俊郎としおぬのひさまこと(つぶく まこと)の入学にゅうがくとともに待望たいぼうのものであった。実際じっさい入学にゅうがく早々そうそう部内ぶない試合しあい一軍いちぐん抜擢ばってき、そのプレーで周囲しゅうい度肝どぎもいてせた。
  • 以来いらい、4年間ねんかん公式こうしきせんぜん試合しあいにフル出場しゅつじょう、1981ねん招待しょうたい試合しあいではダブリンだいやぶった。4年間ねんかんのプレースキックはすべて本城ほんじょうり、成功せいこうりつは56.1%(トライのコンバージョンにかぎる。対抗たいこうせんのみ)。対抗たいこうせん通算つうさんで24トライ、4ドロップゴール
  • そのプレーは華麗かれい一言ひとこときた。プレースキックだけでなくパントやロングキックも精確せいかく、さらに軽量けいりょうフォワードのハンディを背負せおいながら緩急かんきゅうやパスワーク、ステップワークをフルに駆使くしして絶妙ぜつみょう間合まあいで相手あいてディフェンスをかろやかにいてみせる。スリリングにしてあざやかなゲームメイクで数々かずかずのプレー・めい試合しあい演出えんしゅつ、ラグビーセンスにあふれたそのプレーは来日らいにちしたフランス代表だいひょう監督かんとくをして「インテリジェンスをかんじた」と評価ひょうかされるほどだった。
  • そうした華麗かれいなプレースタイルにくわえて、あまいマスク・華奢きゃしゃ容姿ようしけっしてひよわではないのだが)もあいまって、とく女性じょせいからの支持しじたかあつめた。練習れんしゅうじょうである東伏見ひがしふしみグラウンドには「東伏見ひがしふしみぞく」とばれる早大そうだいファン(おも男性だんせい)をしのけるように多数たすう女性じょせいたちがあつまって本城ほんじょう練習れんしゅういきひそめて見守みまもり、秩父宮ちちぶのみや国立こくりつ競技きょうぎじょうには満杯まんぱいのファンがめかけた[3]専門せんもんはもとよりスポーツ一般いっぱん表紙ひょうし本城ほんじょうかざるなど、まさにラグビーかいのアイドルだった。その加熱かねつぶりはのちの平尾ひらお誠二せいじや、新日鐵しんにってつ釜石かまいし神戸製鋼こうべせいこうなどの人気にんきおよばなかった。
  • その象徴しょうちょうてき試合しあい1981ねん12月6にちあかりせん定員ていいん今後こんごやぶられないとわれる国立こくりつ競技きょうぎじょう最多さいたの66,999にんあつめた。試合しあい明治めいじ圧倒的あっとうてき有利ゆうり戦前せんぜんひょう・10kg以上いじょうのFWの平均へいきん体重たいじゅうくつがえし、早稲田わせだが5ねんぶりのあかりせん勝利しょうりげた。
  • ラグビーかい最大さいだいのスターだった本城ほんじょうだが、わずかにディフェンス、とくにタックルがうまかったことから日本にっぽん代表だいひょうとしての評価ひょうかひくく、WTBでの獲得かくとくわせ代表だいひょうキャップ10にとどまった。丁度ちょうどその当時とうじ松尾まつお雄治ゆうじ日本にっぽん代表だいひょう不動ふどうのスタンドオフとして君臨くんりんしていたという不運ふうんもあった。

関連かんれん項目こうもく

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  • DAKARA - マーケッターとしてどう商品しょうひん発売はつばい宣伝せんでんたずさわった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ JAPANサッカーをささえる企業きぎょう - ここでは、富山とやまけんまれとなっている。また「北日本きたにっぽん新聞しんぶん」2019ねん9がつ19にちけ「ひとズームアップとやま」では「ちち勤務きんむしていた会社かいしゃのある魚津うおづまれた。1さいはん東京とうきょううつったが、小学生しょうがくせい時代じだい夏休なつやすみになればはは地元じもとでもある魚津うおづき、いとこたちとあそんでいた」と紹介しょうかいされている。
  2. ^ きゅう国立こくりつに6まん7000にんんだおとこ、“貴公子きこうし本城ほんじょう和彦かずひこいま、テレビマンになっていた - 「THE ANSWER」2019ねん7がつ10日とおか配信はいしん記事きじ
  3. ^ 『ラグビー 戦後せんご70ねん』(ベースボールマガジンしゃ、2016ねん)p28

外部がいぶリンク

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