平山ひらやまたかし

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平山ひらやま たかし
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1903-02-15) 1903ねん2がつ15にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
死没しぼつ 1986ねん11月20にち(1986-11-20)(83さい
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくハーバード大学だいがくマサチュまさちゅセッツ工科大学せっつこうかだいがく
子供こども 平山ひらやまあつし(天文学てんもんがくしゃ)
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 建築けんちくがく
研究けんきゅう機関きかん 東京大学とうきょうだいがく東洋大学とうようだいがく
学位がくい 工学こうがく博士はかせ
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平山ひらやま たかし(ひらやま たかし、1903ねん2がつ15にち - 1986ねん11月20にち)は、日本にっぽん建築けんちく建築けんちく学者がくしゃせんもんは、建築けんちく環境かんきょう工学こうがく工学こうがく博士はかせ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1903ねん東京とうきょうげん東京とうきょう出身しゅっしん1926ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶ建築けんちく学科がっか卒業そつぎょう留学りゅうがくしてハーバード大学だいがく修了しゅうりょうのちマサチュまさちゅセッツ工科大学せっつこうかだいがく大学院だいがくいんすす修了しゅうりょうした。

帰国きこくしたのち大蔵省おおくらしょう営繕えいぜん管財かんざいきょくはいり、国会こっかい議事堂ぎじどう室内しつない意匠いしょう音響おんきょう設計せっけいとう従事じゅうじ1930ねん東京帝大とうきょうていだい工学部こうがくぶ講師こうしとなった。よく1931ねん東大とうだい助教授じょきょうじゅ昇格しょうかくし、助教授じょきょうじゅ時代じだい公衆こうしゅう衛生えいせいいん建築けんちく衛生えいせい部長ぶちょう兼任けんにんした。1940ねんより東大とうだい教授きょうじゅ1963ねん東京とうきょう大学だいがく定年ていねん退官たいかんし、名誉めいよ教授きょうじゅとなった。その東洋大学とうようだいがく工学部こうがくぶ教授きょうじゅとして後進こうしん指導しどうにあたった。1977ねん東洋大学とうようだいがく定年ていねん退任たいにんし、同年どうねん7がつ1にち東洋大とうようだい名誉めいよ教授きょうじゅとなった[1]学界がっかいでは、衛生えいせい工業こうぎょう協会きょうかいちょう日本にっぽん建築けんちく設備せつびセンター理事りじちょう日本にっぽん照明しょうめい学会がっかいちょうつとめ、また平山ひらやま建築けんちく研究所けんきゅうじょちょうもつとめた。

受賞じゅしょう栄典えいてん[編集へんしゅう]

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおける環境かんきょう工学こうがく基礎きそつくった人物じんぶつとしてられている[3]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

平山ひらやまたかし天文学てんもんがくしゃ平山ひらやましん次男じなんである[4]

建築けんちく作品さくひん[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 厚生こうせい住宅じゅうたく』(1948ねん
  • 標準ひょうじゅん住宅じゅうたくろん』(1948ねん
  • 建築けんちく設計せっけい理論りろん』(1948ねん
  • 建築けんちく計画けいかく汎論はんろん』(1950ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 東洋大学とうようだいがく 名誉めいよ教授きょうじゅ称号しょうごう授与じゅよしゃ (工学部こうがくぶ 昭和しょうわ52ねん7がつ1にち) - ウェイバックマシン(2004ねん11月3にちアーカイブぶん
  2. ^ a b c d e 『ジャパン WHO was WHO 物故ぶっこしゃ事典じてん 1983-1987』
  3. ^ a b c 講談社こうだんしゃ 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん
  4. ^ a b c d 昭和しょうわ人名じんめい辞典じてん だい1かん 東京とうきょうへん
  5. ^ 平賀ひらがゆずる略歴りゃくれき - ウェイバックマシン(2011ねん2がつ1にちアーカイブぶん
  6. ^ 佐治さじ敬三けいぞうは2かい結婚けっこんしている。先妻せんさい平賀ひらがゆずるさんじょで、先妻せんさい死後しごもと住友銀行すみともぎんこう頭取とうどり大平おおひら賢作けんさくむすめ再婚さいこんしている。
  7. ^ 科学かがく技術ぎじゅつかん概要がいよう