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平 維幹(たいら の これもと)は、平安時代中期の武将。常陸国筑波郡多気を拠点とした。名は惟基とも表記される[2]。
下総を本拠とする平将門が反乱を起こした承平天慶の乱の後、平貞盛は、その報償として常陸に多数の所領を得た。貞盛は一族から多数の養子を迎えており、この内、弟である繁盛の子・維幹を常陸に赴任させた。維幹は同国筑波郡多気に因んで多気権大夫と号し、多気を拠点にして勢力を拡大させた。
『今昔物語集』巻二五第九源頼信朝臣、平忠恒を責むる語」によれば、長和5年(1016年)以前から、維幹は平忠常と利権をめぐって抗争しており、忠常は惟基のことを「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べている。そして、平忠常の乱の際には、三千騎を率いて源頼信に従っている。
なお、京都においては、平維敏や平維叙らとともに藤原実資に臣従していたという[2]。
『宇治拾遺物語』巻三「伯の母の事」には、訴訟のために上洛していた維幹が、高階成順(高階成忠の孫)の長女・大姫御前を盗み、出し常陸国に連れ帰った逸話が記されている。大姫御前は、連れ去られた後に、妹の康資王母に「吹き返すこちのかへしは身にしみき都の花のしるべと思ふに」という歌を送った。後に康資王母が夫の常陸守・藤原基房と共に常陸国に降った際に、大姫御前は亡くなっていたが、彼女の娘2人と面会することができ、康資王母はその振る舞いの上品さに、娘2人は康資王母が亡き母に似ていることに泣いたという。
- ^ 維将の子、直方の父。祖父の養子となる。
- ^ 維叙の子。祖父の養子となる。
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佐々木紀一「『常陸大掾系図』諸本考察[1]」
- ^ a b 鈴木哲雄『平将門と東国武士団』(吉川弘文館、2015年)