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廣島ひろしまおっと

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カルボネン(ひだり)とともに(1955ねん12月11にちだい9かい朝日あさひ国際こくさいマラソンにて)

廣島ひろしま おっと(ひろしま くらお、1928ねん12月5にち - 1996ねん5月11にち)は、日本にっぽん陸上りくじょう競技きょうぎ選手せんしゅ長距離ちょうきょり)。1950年代ねんだい日本にっぽん男子だんしマラソン中心ちゅうしん選手せんしゅ一人ひとりであった。おなじく長距離ちょうきょり選手せんしゅ陸上りくじょう競技きょうぎ指導しどうしゃ廣島ひろしま出国しゅっこくおいにあたる。

人物じんぶつ来歴らいれき

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宮崎みやざきけん東臼杵ひがしうすきぐん北郷きたごうむらげん美郷みさとまち出身しゅっしん[1]高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう、1944ねん山口やまぐちけん海軍かいぐん防府ほうふ通信つうしん学校がっこうすす[1]通信つうしん学校がっこう修了しゅうりょうフィリピンマニラ軍務ぐんむ従事じゅうじした[1]。1945ねんまつ復員ふくいん宮崎みやざき地元じもと大工だいく見習みならいとなる[1]。このころからはしることに興味きょうみしめし、仕事しごと合間あいま夜間やかん一人ひとり脚力きゃくりょくきたえるためのトレーニングをおこなっていた[1]

1949ねんには競技きょうぎ大会たいかい出場しゅつじょうして好成績こうせいせきをあげ、東京とうきょう開催かいさいされただい4かい国民こくみん体育たいいく大会たいかい5000mでは2入賞にゅうしょうする[1]。これを本格ほんかくてき陸上りくじょう競技きょうぎむこととなり、スカウトをけて同年どうねん12がつ旭化成あさひかせい陸上りくじょう入部にゅうぶする[1]。1952ねん12月、宇部うべ開催かいさいされた朝日あさひマラソン(げん福岡ふくおか国際こくさいマラソン)では、2あいだ32ふん41びょうで5入賞にゅうしょうする[1]よく1953ねん10がつ日本にっぽん選手権せんしゅけんマラソン(東京とうきょう)で優勝ゆうしょう以後いご毎日まいにちマラソン(びわ毎日まいにちマラソン前身ぜんしん当時とうじ大阪おおさか開催かいさい)で3かい(1955ねん・1957ねん・1959ねん)、朝日あさひ国際こくさいマラソンで2かい(1957ねん・1959ねん)、別府べっぷ大分おおいた毎日まいにちマラソンで2かい(1956ねん・1958ねん)の優勝ゆうしょうかざり、それ以外いがいにもなん上位じょうい入賞にゅうしょうたした。小柄こがらながら力強ちからづよいランニングフォームから「じゅう戦車せんしゃ」というニックネームがけられた[1][2]。1955ねん西日本にしにほん新聞しんぶんだい1かい西日本にしにほんスポーツしょう受賞じゅしょう

このころ日本にっぽんではボストンマラソンで1953ねん山田やまだ敬蔵けいぞうや1955ねん浜村はまむら秀雄ひでおが2あいだ18ふんだい記録きろくし、山田やまだ当時とうじ世界せかい最高さいこう記録きろく浜村はまむら世界せかい歴代れきだい2とアナウンスされていた。しかし、1957ねんになってかれらのはしったコースはやく835m距離きょり不足ふそくしていたことが判明はんめいし、記録きろくされた。その結果けっか、1955ねん5がつ毎日まいにちマラソン以降いこう廣島ひろしま日本にっぽん最高さいこう記録きろく保持ほじしゃであったことがあらためて確認かくにんされた。この毎日まいにちマラソンで記録きろくした2あいだ26ふん32びょうは、まごもとただし記録きろくした日本にっぽん記録きろくじつに20ねんぶりに更新こうしんするものであった。その広島ひろしまは2わたって記録きろく更新こうしんした。結果けっかてき最初さいしょ自己じこ記録きろく更新こうしんとなった1955ねん12月の朝日あさひ国際こくさいマラソンでは、フィンランドヴェイッコ・カルボネン英語えいごばんとの死闘しとうすえ、2だった[3]日本にっぽん記録きろく保持ほじしゃ認定にんていされてからはじめて自己じこ記録きろく更新こうしんした1957ねん12月の朝日あさひ国際こくさいマラソンでは2あいだ21ふん40びょう優勝ゆうしょう[4]、2あいだ20ふん突破とっぱ期待きたいいだかせた。

しかし、オリンピックでは好成績こうせいせきのこせなかった。1956ねんメルボルンオリンピックは3あいだだい記録きろくで341960ねんローマオリンピックは31結果けっかわる。ローマオリンピックの1960ねん10がつ13にち脊椎せきつい分離ぶんりしょう理由りゆう現役げんえき引退いんたい発表はっぴょうした[5]。1996ねん死去しきょ

廣島ひろしまたせなかった2あいだ20ふん突破とっぱは、かれ引退いんたいまもなく中京大学ちゅうきょうだいがく中尾なかお隆行たかゆき実現じつげん。それにつづいて寺沢てらさわとおるきみはら健二けんじ円谷つぶらや幸吉こうきちじゅう松森まつもりつよしらが活躍かつやくする戦後せんご最初さいしょ男子だんしマラソン黄金おうごん時代じだいむかえる。廣島ひろしま戦争せんそうによる断絶だんぜつのち日本にっぽん男子だんしマラソンがふたた世界せかいのレベルにたっするまでの橋渡はしわたしをした選手せんしゅであった。

なお、現役げんえき時代じだいおおくのマラソンにマラソン足袋たびいて出場しゅつじょうした。戦前せんぜんから日本にっぽんでは足袋たびもしくはマラソン足袋たびいてマラソンをはし選手せんしゅめずらしくなかったが、廣島ひろしま一線いっせんきゅう選手せんしゅとしてはおそくまでそれをつづけた一人ひとりである。ただし、最後さいごのレースとなったローマオリンピックでは、代表だいひょう2にん渡辺わたなべ和己かずみさだえい信義のぶよし)とともに、オニツカタイガー(げんアシックス)が提供ていきょうしたシューズをいている[6]

おも成績せいせき

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  • 1953ねん 日本にっぽん選手権せんしゅけん優勝ゆうしょう) 2あいだ39ふん23びょう
  • 1953ねん 朝日あさひマラソン(2)2あいだ28ふん97びょう
  • 1955ねん 毎日まいにちマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ26ふん32びょう日本にっぽん最高さいこう記録きろく
  • 1955ねん 朝日あさひ国際こくさいマラソン(2) 2あいだ23ふん51びょう日本にっぽん最高さいこう記録きろく
  • 1956ねん 別府べっぷ大分おおいた毎日まいにちマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ26ふん24びょう
  • 1956ねん メルボルンオリンピック(33) 3あいだ04ふん18びょう
  • 1957ねん 中日ちゅうにちマラソン(2) 2あいだ28ふん53びょう
  • 1957ねん 毎日まいにちマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ31ふん26びょう
  • 1957ねん 日本にっぽん選手権せんしゅけん(2) 2あいだ29ふん44びょう
  • 1957ねん 朝日あさひ国際こくさいマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ21ふん40びょう日本にっぽん最高さいこう記録きろく
  • 1958ねん 別府べっぷ大分おおいた毎日まいにちマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ25ふん16びょう
  • 1958ねん 毎日まいにちマラソン(3) 2あいだ33ふん01びょう
  • 1959ねん 別府べっぷ大分おおいた毎日まいにちマラソン(3) 2あいだ25ふん30びょう
  • 1959ねん 毎日まいにちマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ30ふん06びょう
  • 1959ねん 朝日あさひ国際こくさいマラソン(優勝ゆうしょう) 2あいだ29ふん34びょう
  • 1960ねん ローマオリンピック(31) 2あいだ29ふん40びょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i 廣島ひろしまおっと - みやざきの101にん宮崎みやざき県庁けんちょう廣島ひろしま出国しゅっこく執筆しっぴつ
  2. ^ 廣島ひろしまおっと - デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus(講談社こうだんしゃコトバンク
  3. ^ だい9かい大会たいかい - 福岡ふくおか国際こくさいマラソンプレーバック(マラソン公式こうしきサイト)
  4. ^ だい11かい大会たいかい - 福岡ふくおか国際こくさいマラソンプレーバック(マラソン公式こうしきサイト)
  5. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1960ねん10がつ14にち7ぺーじ
  6. ^ 折山おりやま淑美よしみ『オニツカの遺伝子いでんしスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ<ベースボール・マガジン新書しんしょ>、2008ねん、p.79

外部がいぶリンク

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