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ちょうがつきこり

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ちょう がつきこり(ちょう げっしょう、1765ねん明和めいわ5ねん[1]) - 1832ねん7がつ19にち天保てんぽう3ねん6月22にち))は江戸えど時代じだい後期こうき文人ぶんじん画家がかいみなこうさだもとけい通称つうしょうすすむくらしょう[2]のちかいすけあらためる、べつよいかすみどうごうす。近江おうみこく彦根城ひこねじょうしたまれ。

生涯しょうがい

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つききこりは1765ねん明和めいわ5ねん)、彦根ひこね城下じょうか表具ひょうぐそう兵衛ひょうえ息子むすことしてまれた。ながじてきょうのぼり、近江おうみ醒井さめがいげん米原まいばら出身しゅっしん絵師えし市川いちかわくんけい南画なんがならい、いで与謝よさ蕪村ぶそんとする松村まつむらがつけい師事しじし、つききこりごうあたえられた[2]蕪村ぶそん死去しきょであるつきけい円山まるやま応挙おうきょもんはいる(おうきょ入門にゅうもん後月しつきけいはるごうあらためる)と、つきけい画風がふう蕪村ぶそんふう精神せいしんせいゆたかな文人ぶんじんふう筆法ひっぽうおうきょ写生しゃせい追及ついきゅうした筆法ひっぽう融合ゆうごうし、平明へいめいだが感情かんじょうあふれる画風がふう確立かくりつした[2]

つききこりおうきょ門下もんか長沢ながさわあしゆきとくしたしく、おうきょぼつ1798ねん寛政かんせい10ねんごろあしせつとも美濃みのまでのたびた。帰途きとつききこりあしゆきわか尾張おわり名古屋なごやまり、名古屋なごやにおける南画なんが中興ちゅうこうわれる山田やまだみやつね画風がふう追求ついきゅうした[2]名古屋なごや菅原すがわらまちげん名古屋なごや西にし)のくもだけいん居住きょじゅうし、のち富士見ふじみはらげん名古屋なごやちゅう上前津かみまえづ)に寓居ぐうきょもとめた。1812ねん文化ぶんか9ねんつまめとり、翌年よくねんいち卯之助うのすけのちがつまたすすむときごう絵師えしとしてちちぐ)をもうけた[2]

つききこり尾張おわり徳川とくがわ御用ごよう絵師えしとして御用ごよう支配しはい役職やくしょくたまわり、名字みょうじ帯刀たいとうゆるされ、名古屋なごやじょううち杉戸すぎと屏風びょうぶふすま覇気はきがある花鳥かちょう山水さんすいおおえがいた。藩主はんしゅから将軍家しょうぐんけ献上けんじょうひんとして「孔雀くじゃくきく」をえがいたところ、江戸えど南画なんが大成たいせいしゃたにぶんあきらにとまり、激賞げきしょうけるととも江戸えどるように再三さいさん手紙てがみにてすすめられたが、名古屋なごやはなれることはなかった[2]。1832ねん7がつ19にち((旧暦きゅうれき天保てんぽう3ねん6がつ22にち名古屋なごやにてぼっし、長栄寺ちょうえいじ名古屋なごや千種ちくさ)にほうむられる。

活躍かつやくしたのがおも名古屋なごやということもあり、現代げんだい都心としんてき評価ひょうかられなかった絵師えしであるが、病床びょうしょう正岡子規まさおかしきは「つききこりほどのかきはあまるいがないのであるのに、なかひとられないのはきわめて不幸ふこうひとである。またなかひとすくないのにもおどろく。」(『病牀びょうしょうろくしゃく[3])とたか評価ひょうかしている。

門弟もんてい

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おも作品さくひん

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絵画かいが
作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 款記・印章いんしょう 備考びこう
蔡文ひめかんまき 彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん 初期しょきさく 彦根ひこね藩儒はんじゅりゅうたまふちばつ
長春ちょうしゅん孔雀くじゃく 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 滋賀しが県立けんりつ琵琶湖びわこ文化ぶんかかん[4]
上方かみがた美人びじん押絵おしえ屏風びょうぶ 絹本けんぽんちょしょく ろくきょくいちせき 名古屋なごや美術館びじゅつかん はつ中期ちゅうきさく 款記/「げんあきら白文はくぶんかたしるし・「つききこり白文はくぶんかたしるし しょう屏風びょうぶ[5]
十六羅漢じゅうろくらかん 1ぶく 名古屋なごや博物館はくぶつかん 款記「つききこりはいしょ」/「くだりさだ」「もとけい白文はくぶんれんしるし
紅梅こうばいそうづる 1ぶく 名古屋なごや博物館はくぶつかん
とら屏風びょうぶ きょくいちせき 名古屋なごや博物館はくぶつかん 款記「つききこり」/「ちょうこうさだしるし白文はくぶんかたしるし・「いちがつじゅうきゅうにちよい白文はくぶん長方おさかたしるし
せきはね 1ぶく 名古屋なごや博物館はくぶつかん 1827ねん文政ぶんせい10ねん
ゆきちゅう花鳥かちょう屏風びょうぶ 徳川とくがわ美術館びじゅつかん 款記/しるし
あきけい山水さんすい衝立ついたて 真宗しんしゅう大谷おおや名古屋なごや別院べついん
三保さんぼう松原まつばらふすま ふすま4めん 個人こじん
若松わかまつふすま ふすま4めん 個人こじん
六歌仙ろっかせん 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 個人こじん
東照宮とうしょうぐうさい 京町きょうまちしょう鍛治かじしゃ 水引みずひきまく 下絵したえつききこりさくつたえられる[6]
尾張おわり西枇杷島にしびわしままつり 東六軒ひがしろっけんまちたいとおるしゃ だいまく 下絵したえつききこりさくつたえられる[7]
著作ちょさく
  • かたち」(1817ねん文化ぶんか14ねん)4がつ

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ せきはねちょう名古屋なごや博物館はくぶつかんぞう文政ぶんせい10ねん1827ねんさく落款らっかんに、「ろくじゅうゆうさん」とあることによる(吉田よしだ俊英としひで名古屋なごや浮世絵うきよえ作家さっかたち」『太田おおた記念きねん美術館びじゅつかん論集ろんしゅういち、2002ねん、註7)。
  2. ^ a b c d e f 石丸いしまるただしうんちょうがつきこり」『近江おうみじんたち』サンブライト出版しゅっぱん、1980ねん、p.62。
  3. ^ 正岡子規まさおかしき病牀びょうしょうろくしゃくじゅうさん - 青空あおぞら文庫ぶんこ
  4. ^ 滋賀しが県立けんりつ琵琶湖びわこ文化ぶんかかん. “淡海たんかいのたからもの - 絵画かいが長春ちょうしゅん孔雀くじゃく”. 2013ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  5. ^ 名古屋なごや美術館びじゅつかん 中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ文化ぶんか事業じぎょう編集へんしゅう郷土きょうど美人びじんこう江戸えどから現代げんだいまで─』 名古屋なごや美術館びじゅつかん 中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ 東海テレビ放送とうかいてれびほうそう、1997ねん、pp.32-33。
  6. ^ 名古屋なごや開府かいふ400ねんさいだい山車だしまつり』. “東照宮とうしょうぐうさい京町きょうまちしょう鍛治かじしゃ”. 2013ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  7. ^ 尾張おわり西枇杷島にしびわしままつり. “東六軒ひがしろっけんまちたいとおるしゃ”. 2013ねん1がつ8にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 吉田よしだ俊英としひで尾張おわり絵画かいが研究けんきゅう清文せいぶんどう、2008ねん11月、ISBN 978-4-7924-0663-9
  • 横尾よこおたくしん近世きんせい名古屋なごや画家がかちょうがつきこりについてー略歴りゃくれき画業がぎょう」『名古屋なごや博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きようだい40ごう』 2017ねん3がつ31にち、pp.13-24
  • 横尾よこおたくしん近世きんせい名古屋なごや画家がかちょうがつきこりについてー補遺ほい」『名古屋なごや博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きようだい41ごう』 2018ねん3がつ31にち、pp.17-24