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悪徳あくとくさか事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
最高裁判所さいこうさいばんしょ判例はんれい
事件じけんめい 猥褻わいせつ文書ぶんしょ販売はんばいどう所持しょじ
事件じけん番号ばんごう 昭和しょうわ39(あ)305
1969ねん昭和しょうわ44ねん)10がつ15にち
判例はんれいしゅう けいしゅう だい23かん10ごう1239ぺーじ
裁判さいばん要旨ようし
  1. 芸術げいじゅつてき思想しそうてき価値かちのある文書ぶんしょであつても、これを猥褻わいせつせいゆうするものとすることはさしつかえない。
  2. 文書ぶんしょ個々ここ章句しょうく部分ぶぶん猥褻わいせつせい有無うむは、文書ぶんしょ全体ぜんたいとの関連かんれんにおいて判断はんだんされなければならない。
  3. 憲法けんぽういちじょう表現ひょうげん自由じゆうどうほうさんじょう学問がくもん自由じゆうは、絶対ぜったい無制限むせいげんなものではなく、公共こうきょう福祉ふくし制限せいげんしたつものである。
  4. だいいちしん裁判所さいばんしょ法律ほうりつ判断はんだん対象たいしょうとなる事実じじつ認定にんていし、法律ほうりつ判断はんだんだけで無罪むざいをいいわたした場合ばあいには、控訴こうそ裁判所さいばんしょは、あらためて事実じじつ取調とりしらべをすることなく、刑訴法けいそほうよん〇〇じょう但書ただしがきによつて、みずから有罪ゆうざい判決はんけつをすることができる。
だい法廷ほうてい
裁判さいばんちょう 横田よこた正俊まさとし
陪席ばいせき裁判官さいばんかん 入江いりえ俊郎としお くさ鹿しかあさこれかい 城戸きど芳彦よしひこ 石田いしだかずがい 田中たなか二郎じろう 松田まつだ二郎じろう 岩田いわたまこと 下村しもむら三郎さぶろう 色川いろかわ幸太郎こうたろう 大隅おおすみ健一郎けんいちろう 松本まつもと正雄まさお 奥野おくの健一けんいち
意見いけん
多数たすう意見いけん 入江いりえ俊郎としお くさ鹿しかあさこれかい 城戸きど芳彦よしひこ 石田いしだかずがい 松田まつだ二郎じろう 下村しもむら三郎さぶろう 松本まつもと正雄まさお 
意見いけん 岩田いわたまこと
反対はんたい意見いけん 横田よこた正俊まさとし 大隅おおすみ健一郎けんいちろう 奥野おくの健一けんいち 田中たなか二郎じろう 色川いろかわ幸太郎こうたろう
参照さんしょう法条ほうじょう
刑法けいほう175じょう憲法けんぽう21じょう憲法けんぽう23じょう刑訴法けいそほう400じょう
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悪徳あくとくさか事件じけん(あくとくのさかえじけん)とは、1959ねん日本にっぽん翻訳ほんやく出版しゅっぱんされた書物しょもつわいせつ文書ぶんしょたるとして翻訳ほんやくしゃ出版しゅっぱんしゃ刑法けいほう175じょうにより起訴きそされ、有罪ゆうざいとされた刑事けいじ事件じけんである。

概要がいよう

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被告人ひこくにん澁澤しぶさわ龍雄たつお筆名ひつめい澁澤しぶさわ龍彦たつひこならびに現代げんだい思潮しちょうしゃ社長しゃちょう石井いしい恭二きょうじは、マルキ・ド・サドの『悪徳あくとくさか』を翻訳ほんやくし、出版しゅっぱんした。しかし、同書どうしょにはせい描写びょうしゃふくまれており、これがわいせつぶつ頒布はんぷとうつみわれたものである。

事件じけんなが

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だいいちしんチャタレー事件じけん審査しんさ基準きじゅん詳細しょうさいはチャタレー事件じけんこう参照さんしょう)を引用いんようし、3要件ようけんのうち1てん該当がいとうしないとして無罪むざいをいいわたした。検察けんさつがわ控訴こうそしたところ、だい2しんでは逆転ぎゃくてんして、石井いしい罰金ばっきん10まんえんに、澁澤しぶさわ罰金ばっきん7まんえんしょする有罪ゆうざい判決はんけつとなった。これに被告人ひこくにんたちが上告じょうこく

最高さいこう裁判所さいばんしょ判決はんけつ

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最高裁判所さいこうさいばんしょ昭和しょうわ44ねん10がつ15日大にちだい法廷ほうてい判決はんけつ以下いか趣旨しゅしにより、被告人ひこくにん上告じょうこく棄却ききゃくした。

「……芸術げいじゅつてき思想しそうてき価値かちのある文書ぶんしょであつても、これを猥褻わいせつせいゆうするものとすることはなんらさしつかえのないものとほぐせられる。もとより、文書ぶんしょがもつ芸術げいじゅつせい思想しそうせいが、文書ぶんしょ内容ないようである性的せいてき描写びょうしゃによる性的せいてき刺激しげき減少げんしょう緩和かんわさせて、刑法けいほう処罰しょばつ対象たいしょうとする程度ていど以下いか猥褻わいせつせい解消かいしょうさせる場合ばあいがあることはかんがえられるが、みぎのような程度ていど猥褻わいせつせい解消かいしょうされないかぎり、芸術げいじゅつてき思想しそうてき価値かちのある文書ぶんしょであつても、猥褻わいせつ文書ぶんしょとしての取扱とりあつかいをまぬかれることはできない」

この判決はんけつには1人ひとり補足ほそく意見いけん1人ひとり意見いけん、5にん反対はんたい意見いけんがついた。そのなか注目ちゅうもくされたのが裁判官さいばんかん田中たなか二郎じろう反対はんたい意見いけんである。田中たなかは、相対そうたいてきわいせつ概念がいねん観点かんてんから本書ほんしょがわいせつ文書ぶんしょにはたらないとの判断はんだんくだした。

「この作品さくひんりにいくらかの猥褻わいせつ要素ようそをもつているとしても、刑法けいほういちななじょうにいう猥褻わいせつ文書ぶんしょ該当がいとうするかどうかは、その作品さくひんのもつ芸術げいじゅつせい思想しそうせいおよびその作品さくひん社会しゃかいてき価値かちとの関連かんれんにおいて判断はんだんすべきものであるとするぜんじょわたしかんがかたからすれば、これを否定ひていてきかいしなければならない。すなわち、この作品さくひんは、芸術げいじゅつせい思想しそうせいをもつた社会しゃかいてき価値かちたか作品さくひんであることは、一般いっぱん承認しょうにんされるところであり、原著げんちょしゃについてはべるまでもないが、訳者やくしゃである被告人ひこくにん澁澤しぶさわ龍雄たつおは、マルキ・ド・サドの研究けんきゅうしゃとしてられ、その研究けんきゅうしゃとしての立場たちばで、本件ほんけん抄訳しょうやくをなしたものと推認され、そこに好色こうしょくしんをそそることに焦点しょうてんをあわせて抄訳しょうやくこころみたとみるべき証跡しょうせきはなく、また、販売はんばいとうにあたつた被告人ひこくにん石井いしい恭二きょうじにおいても、ほん訳書やくしょかんして、猥褻わいせつせいてんとく強調きょうちょうしてひろ一般いっぱん宣伝せんでん広告こうこくをしたものとはみとめられない」

また、裁判官さいばんかん色川いろかわ幸太郎こうたろう反対はんたい意見いけんは、権利けんりしたことで注目ちゅうもくされた。

憲法けんぽう21じょうにいう表現ひょうげん自由じゆうが、言論げんろん出版しゅっぱん自由じゆうのみならず、自由じゆうをもふくむことについてはおそらく異論いろんがないであろう。のみにそくしていえば、どうじょうは、人権じんけんかんする世界せかい宣言せんげんいちきゅうじょうやドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく基本きほんほうじょうなどとことなり、自由じゆうについてなんらふれるところがないのであるが、それであるからといつて、自由じゆう憲法けんぽうじょう保障ほしょうされていないとかいすべきでないことはもちろんである。けだし、表現ひょうげん自由じゆう他者たしゃへの伝達でんたつ前提ぜんていとするのであつて、み、きそして自由じゆうきにした表現ひょうげん自由じゆう無意味むいみとなるからである。情報じょうほうおよ思想しそうもとめ、これを入手にゅうしゅする自由じゆうは、出版しゅっぱん頒布はんぷとう自由じゆう表裏一体ひょうりいったい相互そうご補完ほかん関係かんけいにあるとかんがえなければならない。ひとり表現ひょうげん自由じゆう見地けんちからばかりでなく、国民こくみんゆうする幸福こうふく追求ついきゅう権利けんり憲法けんぽう13じょう)からいつてもそうであるが、ようするに文芸ぶんげい作品さくひん鑑賞かんしょうしその価値かち享受きょうじゅする自由じゆうは、出版しゅっぱん頒布はんぷとう自由じゆうともに、十分じゅうぶん尊重そんちょうされなければならない」

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 『サド裁判さいばんじょうした 現代げんだい思潮しちょうしゃ、1963ねん新版しんぱん2010ねんほか。どう編集へんしゅうへん
  • 石井いしい恭二きょうじはなにはかおほんにはどくを サド裁判さいばん埴谷はにやゆうだか澁澤しぶさわ龍彦たつひこ道元どうげんかたる』現代げんだい思潮しちょうしんしゃ、2002ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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