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文化ぶんか闘争とうそう

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対立たいりつする帝国ていこく宰相さいしょうビスマルク教皇きょうこうピウス9せいえがいた風刺ふうし1875ねん

文化ぶんか闘争とうそう(ぶんかとうそう、ドイツ: Kulturkampf)は、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウによってされた言葉ことばで、1871ねんから1878ねんにかけてドイツ帝国ていこく宰相さいしょうオットー・フォン・ビスマルクによっておこなわれた、ローマ・カトリック教会きょうかいかんする政策せいさくす。

概要がいよう

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19世紀せいきなかばまで、カトリック教会きょうかいはまた政治せいじ勢力せいりょくでもあった。イタリア半島はんとうローマ中心ちゅうしんのこされた教皇きょうこうりょうフランス援助えんじょけていたが、プロイセン王国おうこく盟主めいしゅとするドイツしょくにがフランスをやぶったひろしふつ戦争せんそうにより消滅しょうめつし、現代げんだいイタリア地域ちいきイタリア王国おうこくによってほぼ統一とういつされた。しかしプロテスタント支配しはいてきプロイセン王国おうこくにおいても、おもオーストリアなどみなみドイツで優勢ゆうせいなカトリック教会きょうかいは、人々ひとびと生活せいかつのあらゆるめんにおいてつよ影響えいきょうりょく保持ほじしていた。あたらしく成立せいりつしたドイツ帝国ていこくでは、この世俗せぞく主義しゅぎてき国家こっかちから支持しじすることをビスマルクは念頭ねんとうき、カトリック教かとりっくきょうかいたいする政治せいじてき制御せいぎょによって教会きょうかい政治せいじてき社会しゃかいてき影響えいきょうりょく低下ていかさせようとした。

1871ねんの「説教せっきょうだんほう(カンツェルパラグラフKanzelparagraf)」は、1875ねんにビスマルクが導入どうにゅうした数々かずかずたいカトリック制裁せいさい措置そちにつながった。病理びょうりがくものであり当時とうじリベラル政党せいとう進歩しんぽとうのドイツ帝国ていこく議会ぎかい議員ぎいんであったウィルヒョーは、カトリック教会きょうかい見地けんちからビスマルクの政策せいさく描写びょうしゃするため、1873ねん1がつ17にちのプロイセン王国おうこく議会ぎかいにおいて「文化ぶんか闘争とうそう(Kulturkampf)」という言葉ことばはじめて使つかった。この思想しそう対立たいりつ徐々じょじょにビスマルクの政治せいじてき敗北はいぼくまねくことになっていくが、それとともにカトリック教会きょうかいとの闘争とうそう状態じょうたい緩和かんわローマ教皇きょうこうピウス9せい死去しきょ即位そくいしたしん教皇きょうこうレオ13せいとの和解わかい説教せっきょうだんほう(1853ねんまでつづけられた)と届出とどけで結婚けっこんせいのぞいた社会しゃかいてき拘束こうそく解除かいじょおこなわれていった。

歴史れきしあいだでは一般いっぱんてきに、文化ぶんか闘争とうそう教皇きょうこうピウス9せいのカトリック教会きょうかい相手あいてとして、差別さべつてき社会しゃかいてき拘束こうそくけることであったとされる。そのには、やはりカトリックがマジョリティの位置いちめるたんポーランドてき要素ようそもその政策せいさくることができる。

経緯けいい

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ドイツ帝国ていこく1866ねん成立せいりつきたドイツ連邦れんぽういだものであるため、みなみドイツの国々くにぐにとくにカトリックのバイエルン)の帝国ていこくへの加盟かめいビスマルクにはドイツ帝国ていこく安定あんていたいする潜在せんざいてき脅威きょういうつった。1870ねんだい1かいバチカンこう会議かいぎ教皇きょうこう不可ふか謬性宣言せんげんされたことを契機けいきとして緊張きんちょうたかまった。ドイツ東部とうぶおもポーランドじん)、ラインラントアルザス=ロレーヌでもおおくのカトリック教徒きょうと存在そんざいした。ビスマルクはオーストリア帝国ていこく介入かいにゅう慎重しんちょうけながらドイツ帝国ていこく組織そしきしていった。オーストリア帝国ていこく上記じょうきのカトリックしょ地域ちいきよりさらに強力きょうりょくなカトリック国家こっかであったからである。カトリック教会きょうかい影響えいきょうおさえるためにられた手段しゅだんなかには、1871ねんドイツ刑法けいほう付加ふかされただい130じょうaがげられる。これは聖職せいしょくしゃ説教せっきょうにおいて政治せいじろんじた場合ばあいに2年間ねんかん禁固刑きんこけいすというものだった。この条項じょうこうは「説教せっきょうだんほう(カンツェルパラグラフKanzelparagraf)」とばれた。

1872ねん3がつには宗教しゅうきょう学校がっこう当局とうきょくから査察ささつけることになった。6がつには政府せいふけい学校がっこうから宗教しゅうきょう教師きょうし追放ついほうされた。くわえて、アダルベルト・ファルク導入どうにゅうした「がつほう」によって、国家こっか聖職せいしょくしゃ教育きょういくこまかく管理かんりするようになり、聖職せいしょくしゃからんだ事件じけん官吏かんりあつか教区きょうく裁判所さいばんしょ設置せっちし、すべての聖職せいしょくしゃ記載きさいされたとどけしょ提出ていしゅつもとめた。1872ねんにはイエズスかい活動かつどう禁止きんしされた。この禁止きんし措置そち1917ねんまでつづいた。1872ねん12月にはバチカン断交だんこうした。1874ねんになると、結婚けっこんはカトリック教会きょうかいからはなれて、教会きょうかい儀式ぎしきでなく世俗せぞくてき儀式ぎしきによっておこなわれても有効ゆうこうとなった。ベルリン動物どうぶつえんのライオンが毒殺どくさつされたことさえカトリック教会きょうかい陰謀いんぼうだと非難ひなんされた。1874ねん7がつ13にち、バド・キッシンゲンのまちでエドゥアルト・クルマンがビスマルクをピストルで暗殺あんさつしようとしたが、ビスマルクは負傷ふしょうしただけだった。クルマンはビスマルクを暗殺あんさつしようとした理由りゆうとしてはん教会きょうかいてき法律ほうりつげた。

カトリック教会きょうかい影響えいきょうりょくカトリック中央ちゅうおうとう代表だいひょうしたが、これを制限せいげんしようとしたビスマルクのこころみは成功せいこうわった。1874ねんのドイツ帝国ていこく議会ぎかい選挙せんきょでは、カトリック勢力せいりょく議席ぎせきは2ばいえることとなった。社会しゃかい民主党みんしゅとう対抗たいこうする必要ひつようからビスマルクははん教会きょうかいてき態度たいどをやわらげるようになった。とく1878ねん教皇きょうこうレオ13せい即位そくい、その傾向けいこう顕著けんちょとなった。ビスマルクはいまや多数たすうとなったカトリックけい議員ぎいんたいしてみずからの政策せいさく正当せいとうせいうったえるために、ドイツ国内こくないにおけるポーランドじん圧倒的あっとうてきにカトリック教徒きょうとおおかった)の存在そんざいいにすようになった。

文化ぶんか闘争とうそう」は当初とうしょ収穫しゅうかくがあったにせよ、大体だいたいにおいてビスマルク政権せいけん成功せいこうとはいえなかった。文化ぶんか闘争とうそう結果けっかとしてのちのこったものはドイツ帝国ていこく構成こうせい国家こっか主流しゅりゅうからのこされた人々ひとびと疎外そがい助長じょちょうであった。また、教皇きょうこう至上しじょうけんろんてきなカトリック教徒きょうとルーテル教会きょうかい信徒しんとあいだ断絶だんぜつ拡大かくだいさせた。

ポーゼン/ポズナン公国こうこくにおける文化ぶんか闘争とうそう

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文化ぶんか闘争とうそうとくプロイセンのうちのポーランドじん居住きょじゅう地域ちいきおおきな衝撃しょうげきをもたらした。この時期じきポーランドは国家こっかとして消滅しょうめつしており、オーストリア帝国ていこくプロイセン王国おうこく(プロイセン王国おうこくのちにドイツ帝国ていこく一部いちぶとなった)、ロシア帝国ていこくの3つによって分割ぶんかつされていた。かつてポーランド・リトアニア共和きょうわこくだった領域りょういきにおける広範こうはんドイツ運動うんどうは、カトリック教会きょうかいや(カトリックが主流しゅりゅうの)みなみドイツの国々くにぐにたいする闘争とうそう同時どうじはじまった。このためヨーロッパ修史しゅうし分野ぶんやでは、文化ぶんか闘争とうそうはんカトリックてき要素ようそ通常つうじょうドイツ帝国ていこくうちにおける(言語げんご文化ぶんかふくむ)ドイツ運動うんどう不可分ふかぶんとらえられる。

がつほう」が成立せいりつすると、プロイセン王国おうこく当局とうきょくポーランドおしえる学校がっこう大半たいはん閉鎖へいさ開始かいしした。わりにドイツおしえる学校がっこう設置せっちすすめられた。1872ねん11月にファルクは布告ふこくし、翌年よくねんはるまでに学校がっこうにおけるすべての宗教しゅうきょう教育きょういくはドイツおこなわれるようにした。カトリック教徒きょうとのポーランドじん聖職せいしょくしゃからこった抵抗ていこう運動うんどう翌年よくねんまでにおさえられた。このときポズナングニェズノのカトリック神学校しんがっこう閉鎖へいさされた。国家こっか以前いぜん教会きょうかい後援こうえんしていた学校がっこうにおける教育きょういく監督かんとくけんげた。カトリック教会きょうかい財産ざいさん没収ぼっしゅうされ、かく修道しゅうどうかい解散かいさんさせられた。カトリック教会きょうかい自由じゆう保証ほしょうしていたプロイセン王国おうこく憲法けんぽう条項じょうこう削除さくじょされた。地域ちいき比較ひかくしてポーゼン地方ちほうげんヴィエルコポルスカ地方ちほう)における文化ぶんか闘争とうそうははるかにつよ民族みんぞく主義しゅぎてき性格せいかくびていた。

そのまもなく、プロイセン王国おうこく当局とうきょくはさらなる抑圧よくあつ政策せいさくおこなった。185にん司祭しさい拘留こうりゅうされ、すうひゃくにん国外こくがい亡命ぼうめい余儀よぎなくされた。ポーランド首座しゅざ大司教だいしきょうミェチスワフ・レドゥホフスキ拘留こうりゅうされた。のこりのカトリック司祭しさいたちのだい多数たすう当局とうきょくかくれて礼拝れいはいおこなわなければならなかった。拘留こうりゅうされた聖職せいしょくしゃのうちのほとんどは1870年代ねんだいわりごろまでに釈放しゃくほうされたが、そのうちの多数たすう国外こくがい亡命ぼうめいをさせられた。第三者だいさんしゃおおくはこういったはんカトリックてきはんポーランドてき政策せいさくはかえってポーランドの独立どくりつ運動うんどう助長じょちょうするものだとかんがえた。文化ぶんか闘争とうそう追求ついきゅうするビスマルクの動機どうきには、ポーランドじんたいする個人こじんてき反感はんかんがあったかもしれない。ドイツ帝国ていこくほか地域ちいきとは対照たいしょうてきに、ヴィエルコポルスカ地方ちほう当時とうじポーゼン地方ちほうばれていた)における文化ぶんか闘争とうそう1880年代ねんだいになってもわることがなかった。ビスマルクは社会しゃかい主義しゅぎしゃ対抗たいこうするためにカトリック教会きょうかいとの連携れんけい非公式ひこうしき署名しょめいをしたが、ドイツ帝国ていこくないにおけるポーランドじん居住きょじゅう地域ちいきではドイツ政策せいさくつづけられた。

1886ねんになると、エドゥアルト・フォン・ハルトマンつくった標語ひょうご「ドイツの土地とちのスラヴじん根絶こんぜつ」に沿って、プロイセン王国おうこく政府せいふ当局とうきょく領内りょうないポーランドにおけるあたらしいドイツ政策せいさく準備じゅんびした。この政策せいさく立案りつあんしゃであったハインリヒ・ティーデマンによると、以前いぜんおこなわれていたポーゼン地方ちほうへのドイツじん移住いじゅうこころみが失敗しっぱいした理由りゆうは、それらのドイツじんが「移住いじゅうたいする正当せいとうせい確信かくしんてず、移住いじゅうさきみずからを異邦いほうじんかんがえた」からであるとされた。ティーデマンによる解決かいけつほうは、行政ぎょうせい手段しゅだんによって土地とち取得しゅとく促進そくしんすることと同時どうじに、移住いじゅうするドイツじんたいして移住いじゅうさき社会しゃかい生活せいかつ土地とちからポーランドじんすことはただしいことなのだと納得なっとくさせることであった。国家こっか管理かんりにあった「定住ていじゅう委員いいんかい (Ansiedlungskommission)」はポーランドじんから土地とち財産ざいさん強制きょうせいてきげ、ドイツじんやすはらげた。この政策せいさくによって22,000家族かぞくがポーランドに移住いじゅうしたが、住民じゅうみん全体ぜんたいにおけるポーランドじんめる割合わりあい変化へんかしなかった。「ドイツ東部とうぶ委員いいんかい」(Deutscher Ostmarkenverein) も同様どうよう活動かつどうをしたがほとんど成功せいこうしなかった。それにたいして、文化ぶんか闘争とうそうおこなわれたドイツじんしょ活動かつどうはポーランドじん民族みんぞく意識いしきこし、ドイツじんがポーランドの文化ぶんか経済けいざい対抗たいこうするために創設そうせつしたかく組織そしき酷似こくじした対抗たいこうてき民族みんぞく主義しゅぎ組織そしきがポーランドじんによって創設そうせつされることになった。1904ねんまでポーランドじん農家のうかあたらしくいえてることを禁止きんしした法律ほうりつ施行しこうされていたが、ポーランドじん民族みんぞく意識いしき非常ひじょうつよかったため国内こくない不穏ふおん状態じょうたいつづくことになった。フジェシニァ学校がっこう児童じどうによる抗議こうぎ行動こうどうミハウ・ドゥジマワによる闘争とうそう象徴しょうちょうてき出来事できごとである。ドゥジマワはいえてるわりにサーカスだん使つかうような荷馬にうましゃむことで法律ほうりつ規制きせいをうまく回避かいひしてみずからの抗議こうぎ行動こうどう衆目しゅうもくあつめるようにはかった(ドゥジマワのバン)。

大体だいたいにおいてポーゼン地方ちほうにおけるドイツ政策せいさく失敗しっぱいした。ポーランドじんはんすることをねらった行政ぎょうせい手段しゅだんはそのおおくが1918ねんまでられていたが、1912ねんから1914ねんまでのあいだではポーランドじん所有しょゆう土地とちはたった4つしか収用しゅうようされなかった。一方いっぽうこの時期じきにはポーランドじん社会しゃかい組織そしきはドイツじん商業しょうぎょう組織そしきにうまく対抗たいこうし、ドイツじんから土地とちげるまでになった。この地域ちいきにおけるポーランドじんとドイツじんとのあいだながこうそうは、すべてのポーランドでの民族みんぞく意識いしき発展はってんさせた。これはポーランドのほかの地域ちいきにおける自己じこ意識いしきとはことなっており、社会しゃかい主義しゅぎてきでなくおも民族みんぞく主義しゅぎてき概念がいねん関連かんれんしていた。この民族みんぞく意識いしき20世紀せいきになってポーランドのほか地域ちいきにもひろがっていった。

文化ぶんか闘争とうそう

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文化ぶんか闘争とうそう (Kulturkampf) というかたりは、時代じだいほか場所ばしょにおけるドイツ帝国ていこくれい文化ぶんかてきこうそう場合ばあいにも使つかわれている。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは、「文化ぶんか戦争せんそう」という言葉ことばとくパトリック・ブキャナンによって使つかわれている。これは宗教しゅうきょうてき保守ほしゅ主義しゅぎしゃ (social conservatives) と世俗せぞくてき自由じゆう主義しゅぎしゃ (social liberals) とのあいだで、1960年代ねんだいはじまり現在げんざいまでつづいている文化ぶんかこうそう描写びょうしゃするためにつくられた。ブキャナンの文脈ぶんみゃくでは、伝統でんとうてき道徳どうとく前衛ぜんえいてき自由じゆう主義しゅぎとのあいだ戦争せんそうあらわ言葉ことばとして使つかわれているが、これはあきらかにむかしのドイツのれい喚起かんきさせるものである。この「文化ぶんか戦争せんそう」の主題しゅだいはブキャナンが1992ねん共和党きょうわとう全国ぜんこく大会たいかいおこなったはげしい基調きちょう演説えんぜつ基本きほん思想しそうとなった。政治せいじ評論ひょうろんたちはこれを、共和党きょうわとうない社会しゃかいてき穏健おんけんおおくを疎外そがいしたと、これによって民主党みんしゅとう対立たいりつ候補こうほビル・クリントン勝利しょうりすることになったとかんがえている。「文化ぶんか戦争せんそう」という言葉ことば2004ねんまでアメリカの自由じゆう主義しゅぎしゃ保守ほしゅ主義しゅぎしゃ両方りょうほうひろ使つかわれていた。

関連かんれん項目こうもく

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ドイツ帝国ていこく
カトリック主義しゅぎ
ポーランド
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

外部がいぶリンク

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