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斎藤さいとう二郎じろう

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斎藤さいとう二郎じろう

斎藤さいとう 二郎じろう(さいとう じろう、明治めいじ元年がんねん11月10にち[1]1868ねん12月23にち) - 大正たいしょう6ねん1917ねん7がつ22にち[2])は、日本にっぽん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん立憲りっけん政友せいゆうかい)。弁護士べんごし

経歴けいれき

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片倉かたくら家臣かしん斎藤さいとう良知よしとも二男じなんとして白石しらいししろした現在げんざい宮城みやぎけん白石しらいし)にまれる[3]1886ねん明治めいじ19ねん)、上京じょうきょうしてえい吉利よしとし法律ほうりつ学校がっこう現在げんざい中央大学ちゅうおうだいがく)に入学にゅうがくし、1889ねん明治めいじ22ねん)に卒業そつぎょうした[3]翌年よくねん代言だいげんじん試験しけん合格ごうかくし、ほしとおる法律ほうりつ事務所じむしょ訴訟そしょう事務じむあつかった[4]1895ねん明治めいじ28ねん)、ほし朝鮮ちょうせん法律ほうりつ顧問こもんかん就任しゅうにんすると、ほう補佐ほさかん法官ほうかん養成ようせいしょ教授きょうじゅとしてまねかれた[3]翌年よくねん帰国きこくしてからはふたた弁護士べんごし業務ぎょうむ従事じゅうじし、ほし駐米ちゅうべい公使こうしつとめているあいだはその事務所じむしょあずかり、のちにみずからの事務所じむしょ開業かいぎょうした[3]1900ねん明治めいじ33ねん)、ほしだい4伊藤いとう内閣ないかく逓信ていしん大臣だいじん就任しゅうにんすると、秘書官ひしょかん任命にんめいされた[4]

1908ねん明治めいじ41ねん)、だい10かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ出馬しゅつばし、当選とうせんだい13かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでも再選さいせんたした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 衆議院しゅうぎいんだい28かい帝国ていこく議会ぎかい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名簿めいぼ』、1912ねん
  2. ^ 官報かんぽうだい1494ごう大正たいしょう6ねん7がつ24にち
  3. ^ a b c d 明治めいじ弁護士べんごし列伝れつでん』pp.183-184
  4. ^ a b だいじゅうはち議会ぎかい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん写真しゃしん列伝れつでん』p.98

参考さんこう文献ぶんけん

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  • あずまめぐみじんへん明治めいじ弁護士べんごし列伝れつでんしゅうひろししゃ、1898ねん 
  • 鷹居たかいただしだいじゅうはち議会ぎかい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん写真しゃしん列伝れつでん経済けいざい時報じほうしゃ、1912ねん