日本 にっぽん 丸 まる (にっぽんまる、英語 えいご : Nippon Maru )は、日本 にっぽん の航海 こうかい 練習 れんしゅう 船 せん で4檣(しょう)バーク型 がた の大型 おおがた 練習 れんしゅう 帆船 はんせん 。
1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )1月 がつ 27日 にち 、兵庫 ひょうご 県 けん 神戸 こうべ 市 し の川崎 かわさき 造船 ぞうせん 所 しょ で進水 しんすい 。その美 うつく しい姿 すがた から、「太平洋 たいへいよう の白鳥 はくちょう 」や「海 うみ の貴婦人 きふじん 」などと呼 よ ばれていた。日本 にっぽん 丸 まる は約 やく 半 はん 世紀 せいき にわたり活躍 かつやく し、1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )に引退 いんたい 。航海 こうかい 練習 れんしゅう 船 せん としての役割 やくわり は日本 にっぽん 丸 まる II世 よ が引 ひ き継 つ いだ。姉妹 しまい 船 せん として海王 かいおう 丸 まる がある。2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )9月 がつ に国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい に指定 してい された[2] [3] [4] [5] 。
現在 げんざい 、横浜 よこはま 市 し 西 にし 区 く みなとみらい の「日本 にっぽん 丸 まる メモリアルパーク 」内 ない の展示 てんじ ドック(旧 きゅう 横浜 よこはま 船渠 せんきょ 第 だい 一 いち 号 ごう 船渠 せんきょ 〈ドック〉、国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい )で展示 てんじ ・公開 こうかい されている。
昭和 しょうわ 初期 しょき において日本 にっぽん の商船 しょうせん 教育 きょういく 機関 きかん には、官立 かんりつ 商船 しょうせん 学校 がっこう が2校 こう (東京 とうきょう 高等 こうとう 商船 しょうせん 学校 がっこう と神戸 こうべ 高等 こうとう 商船 しょうせん 学校 がっこう )、公立 こうりつ 商船 しょうせん 学校 がっこう が11校 こう あった[6] 。このうち公立 こうりつ 商船 しょうせん 学校 がっこう で練習 れんしゅう 船 せん を保有 ほゆう していたのは5校 こう のみで、しかも小型 こがた の木造 もくぞう 船 せん だったため練習 れんしゅう 船 せん の海難 かいなん 事故 じこ も多 おお かった[6] 。そのため、1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )から文部省 もんぶしょう 内 ない で大型 おおがた 練習 れんしゅう 船 せん の建造 けんぞう が検討 けんとう されたが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の不 ふ 況 きょう のため実現 じつげん に至 いた らなかった[7] 。
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )3月 がつ 9日 にち 、福岡 ふくおか からマーシャル諸島 しょとう に向 む かっていた鹿児島商 かごしましょう 船水 ふなみず 産 さん 学校 がっこう の練習 れんしゅう 船 せん 「霧島 きりしま 丸 まる 」が伊豆下田 いずしもだ 港 こう への寄港 きこう 後 ご 、千葉 ちば 県 けん 犬吠埼 いぬぼうさき 沖 おき で遭難 そうなん し、実習 じっしゅう 生 せい 30名 めい 、乗組 のりくみ 員 いん 23名 めい の合 あ わせて53名 めい 全員 ぜんいん が犠牲 ぎせい となり社会 しゃかい 問題 もんだい となった[6] [7] 。この事故 じこ が契機 けいき となり、1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )の第 だい 54回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい に2隻 せき の帆船 はんせん 練習 れんしゅう 船 せん 建造 けんぞう 費 ひ 1,874,600円 えん が計上 けいじょう され、解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ 後 ご 、1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )の第 だい 55帝国 ていこく 議会 ぎかい で予算 よさん が成立 せいりつ した[6] [7] 。
設計 せっけい は、当時 とうじ の日本 にっぽん に西洋 せいよう 式 しき 帆船 はんせん の技術 ぎじゅつ 的 てき な蓄積 ちくせき が無 な かったため、スコットランド のラメージ・エンド・ファーガソン (英語 えいご 版 ばん ) 、建造 けんぞう は神戸 こうべ の川崎 かわさき 造船 ぞうせん 所 しょ が担当 たんとう した[8] 。1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )1月 がつ 27日 にち に進水 しんすい した第 だい 1船 せん は「日本 にっぽん 丸 まる 」、同年 どうねん 2月 がつ 14日 にち に進水 しんすい した第 だい 2船 せん は「海王 かいおう 丸 まる 」と名付 なづ けられた。同年 どうねん 3月31日 にち には艤装 ぎそう を終 お え、文部省 もんぶしょう に引 ひ き渡 わた された。所管 しょかん は文部省 もんぶしょう 航海 こうかい 練習 れんしゅう 所 しょ [9] 。同年 どうねん にはミクロネシア のポナペ島 とう へ初 はつ の遠洋 えんよう 航海 こうかい を行 おこな った。
太平洋戦争 たいへいようせんそう 下 した 、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )に他 た の練習 れんしゅう 船 せん とともに京浜 けいひん 地区 ちく の造船 ぞうせん 所 しょ で帆 ほ 装 そう 艤装 ぎそう が撤去 てっきょ され、瀬戸内海 せとないかい 航路 こうろ の緊急 きんきゅう 物資 ぶっし 輸送 ゆそう (若松 わかまつ 港 こう から尼崎 あまがさき 港 こう への石炭 せきたん 輸送 ゆそう )に従事 じゅうじ し、一回 いっかい に650トン程度 ていど の石炭 せきたん を輸送 ゆそう した[7] 。
戦後 せんご は連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)の管理 かんり 下 か に置 お かれ、SCJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)ナンバーが付 ふ され、指令 しれい に基 もと づく航海 こうかい を通 とお して訓練 くんれん 航海 こうかい が実施 じっし されることになった[7] 。まず帰還 きかん 輸送 ゆそう 航海 こうかい (復員 ふくいん 船 せん )に実習 じっしゅう 生 せい も乗 の り込 こ む形 かたち で従事 じゅうじ することになり、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )12月の上海 しゃんはい からの帰還 きかん 輸送 ゆそう を皮切 かわき りに、1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )9月 がつ までに29航海 こうかい が行 おこな われ、帰還 きかん 輸送 ゆそう 者 しゃ 数 すう 25,423名 めい を輸送 ゆそう した[7] 。その後 ご 、1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )に勃発 ぼっぱつ した朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう では米 べい 軍人 ぐんじん や韓国 かんこく 人 じん 避難 ひなん 民 みん の輸送 ゆそう の航海 こうかい 指示 しじ を受 う け、実習 じっしゅう 生 せい を下船 げせん させた状態 じょうたい で特殊 とくしゅ 航海 こうかい が3回 かい 行 おこな われた[7] 。
この間 あいだ 、1947年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )2月 がつ に運輸省 うんゆしょう の船員 せんいん 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい で実習 じっしゅう 方針 ほうしん が示 しめ され、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )6月 がつ に帆 ほ 装 そう 艤装 ぎそう を復旧 ふっきゅう したが、この際 さい には奇跡 きせき 的 てき に残 のこ っていた鋼 はがね 製 せい ヤード等 とう の艤装 ぎそう 品 ひん を復元 ふくげん した[7] 。
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )のサンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく 後 ご 、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ にSCAJAP番号 ばんごう が廃止 はいし された[7] 。遠洋 えんよう 航海 こうかい を再開 さいかい するに当 あ たり、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )1月 がつ から南方 なんぽう 八 はち 島 とう への遺骨 いこつ 収集 しゅうしゅう 航海 こうかい を閣議 かくぎ 了解 りょうかい の下 した で実施 じっし した[7] [10] 。
1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )以降 いこう は船体 せんたい の老朽 ろうきゅう 化 か に伴 ともな い遠洋 えんよう 航海 こうかい の規模 きぼ を縮小 しゅくしょう したものの、1970年代 ねんだい 後半 こうはん に2度 ど の大 だい 規模 きぼ 航海 こうかい を行 おこな った[7] 。その一 ひと つが1976年 ねん (昭和 しょうわ 51年 ねん )の「アメリカ建国 けんこく 200年 ねん 祭 さい (まま)」への参加 さんか [7] [11] (記念 きねん 行事 ぎょうじ 「オペレーション・セール」に参加 さんか するため、同年 どうねん 4月 がつ 15日 にち に日本 にっぽん を出帆 しゅっぱん [12] [13] )。もう一 ひと つが1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )のカナダ・キャプテンクック 200年 ねん 祭 さい (太平洋 たいへいよう 横断 おうだん 最終 さいしゅう 航海 こうかい )への参加 さんか である[7] 。
1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )10月23日 にち の大阪 おおさか 帆船 はんせん まつりでホストシップを務 つと め有終 ゆうしゅう の美 び を飾 かざ った[7] 。
1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )9月16日 にち に日本 にっぽん 丸 まる II世 よ と交代 こうたい し、翌 よく 9月 がつ 17日 にち に船籍 せんせき 港 みなと を横浜 よこはま に移 うつ した[8] 。退役 たいえき までに約 やく 183万 まん kmを航海 こうかい し、約 やく 11,500名 めい の実習 じっしゅう 生 せい を育 そだ てた。海洋 かいよう 練習 れんしゅう 船 せん としての役割 やくわり は後継 こうけい の日本 にっぽん 丸 まる II世 よ (現 げん :日本 にっぽん 丸 まる )が受 う け継 つ いだ。1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん )から横浜 よこはま 市 し の所有 しょゆう となり[10] 、同市 どうし 西 にし 区 く みなとみらい の「日本 にっぽん 丸 まる メモリアルパーク 」内 ない の展示 てんじ ドックで展示 てんじ ・公開 こうかい が開始 かいし された。1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )に大 だい 規模 きぼ な修繕 しゅうぜん を受 う けているが、以後 いご は大掛 おおが かりな修繕 しゅうぜん は受 う けておらず老朽 ろうきゅう 化 か が問題 もんだい となっていた[10] 。2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )には国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい にも指定 してい されたが、今後 こんご も末永 すえなが く保存 ほぞん 活用 かつよう するため2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )度 ど より2年間 ねんかん 、大 だい 規模 きぼ 修繕 しゅうぜん が行 おこな われた[14] 。その際 さい には20年 ねん ぶりにドックの水 みず 抜 ぬ きも行 おこな われ、2019年 ねん (平成 へいせい 31年 ねん )1月 がつ に見 み 学会 がっかい も実施 じっし された[15] [16] [17] [18] [19] 。
日本 にっぽん 丸 まる 展示 てんじ ドックに係留 けいりゅう 保存 ほぞん された後 のち も、船舶 せんぱく 安全 あんぜん 法 ほう に基 もと づく定期 ていき 検査 けんさ を毎年 まいとし 受検 じゅけん しており、平水 へいすい 区域 くいき を航行 こうこう 区域 くいき とする船舶 せんぱく として船舶 せんぱく 検査 けんさ 証明 しょうめい 書 しょ が交付 こうふ されている[20] 。
以下 いか は「練習 れんしゅう 船 せん 計画 けいかく 要項 ようこう 及附帯 たい 事項 じこう 」等 とう の記載 きさい に基 もと づく[7] 。
日本 にっぽん 丸 まる の主要 しゅよう 目 め [7]
建造 けんぞう 時 じ
用途 ようと 廃止 はいし 時 じ
総トン数 そうとんすう
2,283 頓 ひたぶる 98
2257.72トン
排水 はいすい トン数 とんすう
4,043 頓 とみ
4043.00トン
全長 ぜんちょう
318 ft 41
97.05m
垂線 すいせん 間 あいだ 長 ちょう
260 ft 00
79.25m
幅 はば
42 ft 50
12.95m
深 ふか さ
25 ft 75
7.85m
帆 ほ 装 そう
4檣バーク 型 かた
機関 きかん
ディーゼル
出力 しゅつりょく
600×2HP
速力 そくりょく (機 き 走 はし )
11節 せつ 4
10.0ノット
定員 ていいん
186名 めい
196名 めい
橋本 はしもと 進 すすむ 「オペレーション・セール'76に参加 さんか して」『海洋 かいよう 』第 だい 698号 ごう 、海洋 かいよう 会 かい 、1977年 ねん 1月 がつ 、3 - 7頁 ぺーじ 、ISSN 0911-3193 、橋本 はしもと 進 すすむ は当時 とうじ 日本 にっぽん 丸 まる 船長 せんちょう であった。この号 ごう の表紙 ひょうし 写真 しゃしん はオペレーション・セールの呼 よ び物 もの 「マリンパレードでハドソン川 がわ を遡 さかのぼ る日本 にっぽん 丸 まる 」(バックはニューヨーク市 し )である。
萩原 はぎはら 秀樹 ひでき 「実習 じっしゅう 生 せい の見 み たオペレーション・セール'76」『海洋 かいよう 』第 だい 698号 ごう 、海洋 かいよう 会 かい 、1977年 ねん 1月 がつ 、7 - 10頁 ぺーじ 、ISSN 0911-3193