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有末ありすえ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
有末ありすえ
生誕せいたん 1897ねん2がつ7にち
日本の旗 日本にっぽん 北海道ほっかいどう
死没しぼつ (1943-08-28) 1943ねん8がつ28にち(46さいぼつ
ビスマルク諸島しょとう付近ふきん
所属しょぞく組織そしき 日本にっぽん陸軍りくぐん
ぐんれき 1919 - 1943
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
墓所はかしょ 多磨たま霊園れいえん
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有末ありすえ (ありすえ やどる、1897ねん明治めいじ30ねん2がつ7にち[1][2] - 1943ねん昭和しょうわ18ねん8がつ28にち[1][2])は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう

経歴けいれき

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北海道ほっかいどう出身しゅっしん[1]有末ありすえ孫太郎まごたろう村長そんちょう京極きょうごく農場のうじょう支配人しはいにん屯田とんでん工兵こうへい大尉たいい)の息子むすことしてまれる[1]上川かみかわ中学ちゅうがくて、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(31)、陸軍りくぐんだい学校がっこう(41)を卒業そつぎょう[1][3]

参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん班長はんちょう教育きょういく課長かちょうなどをて、1940ねん関東軍かんとうぐん作戦さくせん課長かちょうとなり、ノモンハン事件じけん関東軍かんとうぐんなおしにたった。日米にちべい開戦かいせんには反対はんたい立場たちばをとり、1941ねん大本営だいほんえい陸軍りくぐん参謀さんぼうだい20班長はんちょうとして戦争せんそう回避かいひとなえたが阻止そしできなかった[2]

太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんだい17ぐん高級こうきゅう参謀さんぼうなどをて、1942ねんだい8方面ほうめんぐん作戦さくせん課長かちょうとしてラバウル赴任ふにんし、よく1943ねんには陸軍りくぐん少将しょうしょうどう方面ほうめんぐん参謀さんぼう副長ふくちょうとなり今村いまむらひとし大将たいしょう補佐ほさする[2]同年どうねん8がつ要務ようむわせのためいち帰国きこくし、ラバウルへ飛行機ひこうきもど途中とちゅう戦死せんし陸軍りくぐん中将ちゅうじょう進級しんきゅう[2][3]

年譜ねんぷ

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出典しゅってん:『日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、10-11ぺーじ

親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、10-11ぺーじ
  2. ^ a b c d e 日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん』40ぺーじ
  3. ^ a b 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』430ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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