東郷とうごうぴょう

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東郷とうごう ぴょう
とうごう ひょう
東郷とうごうぴょう(1910 - 1920ねんごろ
生年月日せいねんがっぴ 1885ねん2がつ28にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1969-06-05) 1969ねん6月5にち(84さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう高等こうとうのう学校がっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく みや内省ないせい内匠たくみりょう御用ごようかけ
所属しょぞく政党せいとう 火曜かようかい
称号しょうごう 侯爵こうしゃく

選挙せんきょ 侯爵こうしゃく議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1934ねん7がつ16にち[1] - 1947ねん5月2にち[2]
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東郷とうごう ぴょう(とうごう ひょう、1885ねん明治めいじ18ねん2がつ28にち - 1969ねん昭和しょうわ44ねん6月5にち[2])は、日本にっぽんのう商務しょうむ官僚かんりょう宮内みやうち官僚かんりょう政治せいじ爵位しゃくい侯爵こうしゃく東郷とうごう平八郎へいはちろうみや内省ないせい内匠たくみりょう御用ごようかけ貴族きぞくいん議員ぎいんなどを歴任れきにんした。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

東郷とうごう平八郎へいはちろう長男ちょうなんとして、1885ねん明治めいじ18ねん鹿児島かごしまけんまれた。学習がくしゅういんはいるがその中学ちゅうがく済々黌せいせいこうて、1911ねん明治めいじ44ねん)、東京とうきょう高等こうとうのう学校がっこうげん東京農業大学とうきょうのうぎょうだいがく)を卒業そつぎょうした。卒業そつぎょうは、のう商務省しょうむしょう農事のうじ試験場しけんじょう興津おきつ園芸えんげい試験場しけんじょう(現在げんざいのうけん機構きこう果樹かじゅ研究所けんきゅうじょ·カンキツ研究けんきゅう興津おきつ拠点きょてん)に勤務きんむした。そののち、イギリス留学りゅうがく大正たいしょうねんからねんまで)し、帰国きこくみや内省ないせい出仕しゅっし嘱託しょくたく新宿しんじゅく御苑ぎょえん勤務きんむ宮中きゅうちゅう観菊かんぎくかいようおおくのきく仕立したてていた御苑ぎょえんでのきくづくりを手掛てがけ、大正たいしょうはちねん式部しきぶかんけんしゅ猟官りょうかん内匠たくみりょう御用ごようかけとなる。どうきゅうねんからはきくかけ専任せんにんとなり、昭和しょうわねんには京都きょうとじょう離宮りきゅうにて大礼たいれいよう菊花きっか栽培さいばい昭和しょうわきゅうねんには式部しきぶかんけんしゅ猟官りょうかん退官たいかん昭和しょうわじゅうろくねんごろまで宮内くない省内しょうないたくみりょう御用ごようかけ同省どうしょう式部しきぶかんとしてきくづくり一筋ひとすじ専念せんねんした。

ちちである東郷とうごう平八郎へいはちろう死後しご襲爵しゅうしゃくする。侯爵こうしゃくとして貴族きぞくいん議員ぎいん就任しゅうにん[2]帝国ていこく議会ぎかいでは火曜かようかい所属しょぞくした[2]1947ねん昭和しょうわ22ねん)に貴族きぞくいん廃止はいしされるまで議員ぎいんとして活動かつどうした[2]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

近視きんしのために海軍かいぐんへのみちあきらめたとされている[3]温厚おんこう人柄ひとがらで、恬淡てんたんとした性格せいかくみちすすみ、新宿しんじゅく御苑ぎょえんきく栽培さいばいなどをがけ、きくづくりの拡充かくじゅう強化きょうかおおきく貢献こうけんした。 東郷とうごうぴょう新宿しんじゅく御苑ぎょえんきくづくりに従事じゅうじするようになったきっかけについて、数学すうがくしゃおかきよし随筆ずいひつしゅう春宵しゅんしょうじゅう」の『吉川よしかわ英治えいじさんのこと』のなかで、つぎのように紹介しょうかいされている。「授賞じゅしょうしき翌晩よくばん池田いけだ首相しゅしょう招待しょうたい晩餐ばんさんかいがあり、いそがしい池田いけださんのわりに荒木あらきさんが主人しゅじんやくをつとめてくれた。このせきでは吉川よしかわさんとむかしだれそれはえらかったというはなしになり、ひとあかりのあるひとがいたという実例じつれいとして、熊本くまもとのある中学ちゅうがく校長こうちょうされたりした。この校長こうちょう東郷とうごう元帥げんすい息子むすこさんのかおをじっとみつめて、「東郷とうごうさん、あなたのまえだが、息子むすこさんは百姓ひゃくしょうさせるのが一番いちばんよいなあ」と った。」とあり、「東郷とうごうさんもそれをれて」、新宿しんじゅく御苑ぎょえんきくづくりをさせたとしている。文中ぶんちゅう授賞じゅしょうしきとは、昭和しょうわ35ねん1960ねん11月3にち文化ぶんか勲章くんしょう授章じゅしょうしきであり、このとき受章じゅしょうしゃは、佐藤さとう春夫はるお田中たなかこう太郎たろう吉川よしかわ英治えいじおかよんめいで、荒木あらきさんとは当時とうじ文部もんぶ大臣だいじん(このはなし文脈ぶんみゃくからして東郷とうごうはなし吉川よしかわ英治えいじからされており、中学ちゅうがく校長こうちょうとは前出ぜんしゅつ濟々黌せいせいこう校長こうちょう井芹いせりけいひらたのこと)。

東郷とうごう英国えいこく留学りゅうがくさいゴルフおぼえたとおもわれ、「昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろく」の大正たいしょう末期まっきから昭和しょうわ初期しょき記録きろくると、西園寺さいおんじ西園寺さいおんじ八郎はちろうか)や甘露かんろてら甘露かんろてら受長か)らとともに昭和しょうわ天皇てんのうのゴルフのお相手あいてつとめていることがかる。ちちゆずりで運動うんどう神経しんけいかったとえ、みや内省ないせいのゴルフコンペなどで、よく入賞にゅうしょうしている。

東郷とうごうぴょう東京とうきょう高等こうとうのう学校がっこう卒業そつぎょう学校がっこう法人ほうじん東京農業大学とうきょうのうぎょうだいがく監事かんじをしばらくつとめたこともあり、どう大学だいがくとはえんふかく、同窓会どうそうかい農大のうだいがくほう」のなか東郷とうごう父子ふし関連かんれんすることがかれている。司馬しばりょう太郎たろうの「さかうえくも」に、にち戦争せんそう死命しめいけっした日本海にほんかい海戦かいせん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん人選じんせんさいし、東郷とうごう平八へいはちぐんつようん考慮こうりょして山本やまもと権兵衛ごんべえ海軍かいぐん大臣だいじんめたというはなしがあるが、同学どうがくほうには「大正たいしょうろくななねんごろ二番にばんまちから六番ろくばんまちかく東郷とうごう平八郎へいはちろう邸宅ていたくがあったが、東郷とうごうかれた表札ひょうさつはいつてもあたらしかった。その理由りゆうは、受験生じゅけんせいあいだに、東郷とうごうてい表札ひょうさつって試験場しけんじょうのぞめば,かなら合格ごうかくするという風説ふうせつてき信奉しんぽうがあり、たびたびあたらしくつくってえていたからである」とある。

きく栽培さいばいなどのくろねこ置物おきもの収集しゅうしゅう趣味しゅみとしていた東郷とうごうは、東京とうきょう高等こうとうのう学校がっこう卒業そつぎょう以来いらいこうじまちちち平八郎へいはちろうてい敷地しきち一角いっかくにある別棟べつむね居住きょじゅうしていた。このころからくろねこぞう蒐集しゅうしゅうする趣味しゅみつ、わばくろねこグッズの蒐集しゅうしゅうマニアであった。その所有しょゆうする内外ないがいの3000たいなかには、国宝こくほうきゅうひだり甚五郎じんごろうさくもあったとされているが、さだかではない。こののち東郷とうごうぴょうてい目黒めぐろから国分寺こくぶんじへとうつり、3000たいくろねこは「くろねこあいだ」におさめられていたが、こうじまち時代じだい別棟べつむねは「東郷とうごうちん」として母校ぼこう寄付きふされ、用賀ようがから厚木あつぎ農場のうじょう移転いてんした昭和しょうわさんじゅうはちねんごろに、きゅうやしき母校ぼこうである東京農業大学とうきょうのうぎょうだいがく厚木あつぎ農場のうじょうない移築いちくされ、本人ほんにん要請ようせい東郷とうごう平八郎へいはちろうふでによる「くろねこそう」(こくびょうそう)のがくかかげられたということである。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、44ぺーじ
  2. ^ a b c d e 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』19ぺーじ
  3. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、580ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  4. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]


日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
東郷とうごう平八郎へいはちろう
侯爵こうしゃく
東郷とうごうだい2だい
1934ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし