松原 客 館
概要
[渤海は
- 『
延喜 式 』(905年 - 927年 に編纂 )の雑 式 に「凡 そ越前 国松 原 客 館 は気比 神 宮司 をして検校 せしむ」と記載 されており、時期 は不明 ながら気比 神宮 の宮司 が客 館 の管理 を任 されていたことが分 かる。 - 『
扶桑 略記 』には、919年 に敦賀 半島 の丹生 浦 に渤海使 が来着 した際 の記録 が残 る。この最終 34回 目 の渤海使 105名 は、定 め通 りに松原 駅 館 に移送 されたものの、館 の門 は閉 ざされ、無人 状態 であり、薪 や炭 の蓄 えもなく、非常 に不備 な状態 であったとある。
- 『
続 日本 紀 』には、766年 (天平 神護 2年 )2月 20日 に、近江 国 から「松原 倉 」へ稲 穀 5万 斛が貯倉されたとの記録 がある。この「松原 倉 」を敦賀 の松原 と解釈 し、港 の維持 管理 などの財源 とするための官営 の倉 があり、その後 の客 館 の設立 にもつながっているのでないかとの説 がある[4]。一方 で、この「松原 倉 」には越前 国 との記載 はなく、松原 客 館 とは無関係 で平城京 の松林 宮 の倉 とする説 もある[5]。 - 『
日本 後 紀 』には、804年 (延 暦 23年 )6月 に「能登 国 への渤海使 の来着 が多 くなっており、停 宿 のところは疎漏 なきよう、早 く客 院 を造 るように」との記載 が見 える。このときに能登 だけでなく松原 客 館 も設置 されたのではないか、と考 える向 きもある[4]。
松原 客 館 と松原 駅 は別々 の場所 とする。ただし「松原 」の名 を冠 し、松原 「駅 館 」とも称 することから、地理 的 には近 い場所 にあったとする[6]。松原 客 館 と松原 駅 は同 じところにあり、松原 駅 家内 の建物 が客 館 として利用 されたのではないかとする[2]。
年表
[- 698
年 - 渤海が成立 する。 - 727
年 (神 亀 4年 ) -第 1回 目 の渤海使 、渤海国 との国交 樹立 。 - 766
年 (天平 神護 2年 ) -近江 国 から「松原 倉 」へ稲 穀 5万斛 を貯倉される。 - 776
年 (宝 亀 7年 ) -気比 神宮 に宮司 を置 く。 - 804
年 (延 暦 23年 ) -能登 国 に客 院 設置 の指示 が出 される。 - 919
年 (延喜 19年 ) -最終 34回 目 の渤海使 105名 を「松原 駅 館 」に移送 。 - 926
年 - 渤海が滅亡 する。 - 930
年 (延長 7年 ) -東 丹 国 (渤海の故 地 に成立 した国 )の使節 が丹後 国 に来着 。
渤海
- 995
年 (長 徳 元年 ) -宋 の商人 朱 仁 聡 らを定 め通 り越前 国 へ移 した。 - 1060
年 (康平 3年 ) -宋 の商人 が敦賀 津 に来着 。 - 1080
年 (承 暦 4年 ) -宋 の商人 が敦賀 津 に来着 。 - 1091
年 (寛治 5年 ) -加賀 守 藤原 為 房 が敦賀 の「官舎 」に宿泊 。
所在地 をめぐる諸説
[櫛川 遺跡 [9][10] -現在 の別宮 神社 付近 。神社 前 の発掘 調査 では平安 時代 の祭祀 遺跡 がみられ、異国 人 の入国 に際 し、祓 いの儀式 を行 なった跡 とも考 えられている。銅銭 、小 鏡 、銅 鈴 、須恵 器 などが出土 している。松原 遺跡 [10] -気比 の松原 一帯 。砂浜 は砂丘 の発達 に伴 い、古代 から現在 にかけて徐々 に北進 しており、3列 の浜 堤 を形成 している[9]。平安 時代 は南側 の1・2列 目 付近 の浜 堤 (現在 の県立 敦賀 高校 付近 )が海岸 線 であった。この付近 から製塩 土器 ・須恵 器 ・銅銭 が出土 している。神明 神社 [8] -現在地 の松島 町 ではなく、旧 所在地 の松栄 町 の福井 地方 法務局 敦賀 支局 の付近 。客 館 の跡地 であるという伝承 がある。来迎寺 ・永 建 寺 付近 [11][6] -近世 の松 中村 付近 、現在 の松島 町 二 丁目 付近 にあたる。空中 写真 と標高 の検討 から、古代 には笙 の川 の河口 は大 きな入 り江 となっており、この付近 が入江 の西 の浜 堤 岬 上 に相当 すると推定 する。異国 からの使節 を隔離 し、入江 の東側 の気比 神宮 からも見通 しがよく適地 とする。気比 神宮 の北 [8] -神宮 の北側 に入江 があった可能 性 がある。気比 神宮 の西 [5] -神宮 の西 に「館出 口 」「館 ノ腰 」という小字 名 があること、および神宮 宮司 が客 館 の管理 を行 なったならば、すぐ近 くにあったはずであるとの理由 (千田 稔 の説 )。中 遺跡 [10] -敦賀 インターチェンジ付近 。古墳 群 、弥生 時代 の遺跡 から近 く、平安 時代 の遺物 も多量 に出土 している。金ヶ崎 [5] -客 館 管理 を担 った気比 神宮 に近 く、かつ客 館 は景勝 の地 であるべきとの見地 から金ヶ崎 付近 とする(蘆 田 伊 人 の説 )。西福寺 [8] -松原 の西端 の井ノ口 川 付近 にも古代 に入江 があった可能 性 、そこから近 いことと、寺 伝 によれば開 創 時 に和同開珎 133枚 が出土 した。
脚注
[注釈
[出典
[- ^ a b c
酒寄 雅志 「渤海と古代 の日本 」 (PDF) (日本海 学 推進 機構 2017年 1月 16日 閲覧 ) - ^ a b 『
松原 客 館 の謎 にせまる』第 一 講 - ^ a b 『
松原 客 館 の謎 にせまる』第 二 講 - ^ a b c 『
敦賀 市 史 通史 編 (上 )』p224-228 - ^ a b c d e 「
三 松原 客 館 の実態 とその位置 」(福井 文書 館 2017年 1月 16日 閲覧 ) - ^ a b c 『
北陸 道 の景観 と変貌 』p52-56』 - ^ a b
川村 俊彦 「古代 敦賀 津 と松原 客 館 について」 (PDF) (石川 県 埋蔵 文化財 センター 2017年 1月 16日 閲覧 ) - ^ a b c d 『
松原 客 館 の謎 にせまる』p14 - ^ a b 『
気比 史学 第 二 号 』 - ^ a b c 『
松原 客 館 の謎 にせまる』第 五 講 - ^ 『
松原 客 館 の謎 にせまる』第 三 講
参考 文献
[山口 充 「特別 寄稿 松原 客 館 について」『気比 史学 第 二 号 』、気比 史学 刊行 委員 会 、1980年 10月 24日 発行 敦賀 市 教育 委員 会 「第 三 章 古代 の敦賀 、第 五 節 古代 敦賀 の変貌 、一 敦賀 と対外 関係 の緊張 」『敦賀 市 史 通史 編 (上 )』p224-228、1985年 - 「
松原 客 館 の実態 とその位置 」『福井 県 史 通史 編 1原 始 ・古代 』、1993年 糀谷 好 晃 編集 『松原 客 館 の謎 にせまる古代 敦賀 と東 アジア』気比 史 学会 、1994年 11月 10日 初版 発行 藤岡 謙二郎 監修 『北陸 道 の景観 と変貌 』p52-56、古今 書院 、1995年 川村 俊彦 「古代 敦賀 津 と松原 客 館 について」『石川 県 埋蔵 文化財 情報 第 13号 』p28-30、財団 法人 石川 県 埋蔵 文化財 センター、2005年 3月 酒寄 雅志 「渤海と古代 の日本 」『2010年度 第 6回 日本海 学 講座 』2011年 2月 11日 。
関連 項目
[外部 リンク
[- 「
三 松原 客 館 の実態 とその位置 」『福井 県 史 』福井 文書 館 。 川村 俊彦 「古代 敦賀 津 と松原 客 館 について」『石川 県 埋蔵 文化財 情報 第 13号 』2005年 3月 (PDF)石川 県 埋蔵 文化財 センター。酒寄 雅志 「渤海と古代 の日本 」『2010年度 第 6回 日本海 学 講座 』2011年 2月 11日 (PDF)日本海 学 推進 機構 。