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松原まつばらきゃくかん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

松原まつばらきゃくかん(まつばらきゃっかん)は、平安へいあん時代じだい前期ぜんき9世紀せいきころに、渤海使節しせつだん渤海使)をむかえるために越前えちぜんこく設置せっちされたとかんがえられる迎賓げいひん宿泊しゅくはく施設しせつ現在げんざい福井ふくいけん敦賀つるが松原まつばら近辺きんぺんにあったのではないかといわれているが、考古学こうこがくてき裏付うらづけはなく、所在地しょざいちあきらかでない。

概要がいよう

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渤海は現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく東北とうほく付近ふきんにあった国家こっかで、698ねん成立せいりつし、926ねん滅亡めつぼうした。渤海から日本にっぽん派遣はけんされた渤海使は、727ねんから919ねんのおよそ200年間ねんかんで34かいあり、日本にっぽんから渤海へ派遣はけんされた渤海使は13かい記録きろくのこ[1]。渤海使は、おもにふゆ北西ほくせい季節風きせつふう利用りよう[1]山陰さんいん北陸ほくりく東北とうほくときには北海道ほっかいどう[2])に来着らいちゃくし、南風みなみかぜく5月から6がつ帰港きこうすることがおおかった[3]。また、北陸ほくりく出羽でわこく来着らいちゃくした渤海使は、敦賀つるが経由けいゆしてはい[4]帰港きこうには敦賀つるがて、能登のとこく福良ふくら能登のときゃくいん比定ひていひとつ)を経由けいゆしてかえるルートをとった[3]。なお、渤海使目的もくてきは、当初とうしょ軍事ぐんじ同盟どうめいてき色彩しきさいいものであったが徐々じょじょ交易こうえき中心ちゅうしんへとわり、来着らいちゃく回数かいすうも1ねん~3ねんごとという時期じきられ、回数かいすう非常ひじょうおおくなっていった。また、使節しせつだん人員じんいんも、当初とうしょは20めい程度ていどであったものが、823ねんひろしひとし14ねん以降いこうは100めいえる規模きぼとなった[1]

松原まつばらきゃくかんえきかん)の名称めいしょうがはっきりとみえる史料しりょうつぎの2つである[5][6]

  • 延喜えんぎしき』(905ねん - 927ねん編纂へんさん)のざつしきに「およ越前えちぜん国松くにまつげんきゃくかん気比けひしん宮司ぐうじをして検校けんぎょうせしむ」と記載きさいされており、時期じき不明ふめいながら気比けひ神宮じんぐう宮司ぐうじきゃくかん管理かんりまかされていたことがかる。
  • 扶桑ふそう略記りゃっき』には、919ねん敦賀つるが半島はんとう丹生たんじょううらに渤海使来着らいちゃくしたさい記録きろくのこる。この最終さいしゅう34かいの渤海使105めいは、さだどおりに松原まつばらえきかん移送いそうされたものの、かんもんざされ、無人むじん状態じょうたいであり、たきぎすみたくわえもなく、非常ひじょう不備ふび状態じょうたいであったとある。

松原まつばらきゃくかん設立せつりつ直接ちょくせつ明記めいきした史料しりょう見当みあたらないが、以下いかのように関連かんれん示唆しさしているととらえられる史料しりょうもある。

  • ぞく日本にっぽん』には、766ねん天平てんぺい神護かんご2ねん2がつ20日はつかに、近江おうみこくから「松原まつばらくら」へいねこく5まんが貯倉されたとの記録きろくがある。この「松原まつばらくら」を敦賀つるが松原まつばら解釈かいしゃくし、みなと維持いじ管理かんりなどの財源ざいげんとするための官営かんえいくらがあり、そのきゃくかん設立せつりつにもつながっているのでないかとのせつがある[4]一方いっぽうで、この「松原まつばらくら」には越前えちぜんこくとの記載きさいはなく、松原まつばらきゃくかんとは無関係むかんけい平城京へいじょうきょう松林しょうりんみやくらとするせつもある[5]
  • 日本にっぽん』には、804ねんのべれき23ねん)6がつに「能登のとこくへの渤海使来着らいちゃくおおくなっており、とま宿やどのところは疎漏そろうなきよう、はやきゃくいんつくるように」との記載きさいえる。このときに能登のとだけでなく松原まつばらきゃくかん設置せっちされたのではないか、とかんがえるきもある[4]

松原まつばらきゃくかん古代こだいかんどう松原まつばらえきとの関係かんけいせいについては、おもに2つのせつがある。

  • 松原まつばらきゃくかん松原まつばらえき別々べつべつ場所ばしょとする。ただし「松原まつばら」のかんし、松原まつばらえきかん」ともしょうすることから、地理ちりてきにはちか場所ばしょにあったとする[6]
  • 松原まつばらきゃくかん松原まつばらえきおなじところにあり、松原まつばらえき家内かない建物たてものきゃくかんとして利用りようされたのではないかとする[2]

年表ねんぴょう

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  • 698ねん - 渤海が成立せいりつする。
  • 727ねんかみひさし4ねん) - だい1かいの渤海使、渤海こくとの国交こっこう樹立じゅりつ
  • 766ねん天平てんぴょう神護かんご2ねん) - 近江おうみこくから「松原まつばらくら」へいねこく5万斛ばんこくを貯倉される。
  • 776ねんたからひさし7ねん) - 気比けひ神宮じんぐう宮司ぐうじく。
  • 804ねんのべれき23ねん) - 能登のとこくきゃくいん設置せっち指示しじされる。
  • 919ねん延喜えんぎ19ねん) - 最終さいしゅう34かいの渤海使105めいを「松原まつばらえきかん」に移送いそう
  • 926ねん - 渤海が滅亡めつぼうする。
  • 930ねん延長えんちょう7ねん) - ひがしこく(渤海の成立せいりつしたくに)の使節しせつ丹後たんごこく来着らいちゃく

渤海滅亡めつぼうも、以下いかのようにそう商人しょうにんかんじん敦賀つるが来訪らいほうした記録きろくがあり、迎賓げいひん宿泊しゅくはく施設しせつとしてきゃくかん機能きのうしていたとのせつもある[5][7]

所在地しょざいちをめぐる諸説しょせつ

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松原まつばらきゃくかん所在地しょざいちについては考古学こうこがくじょう決定的けっていてき物的ぶってき証拠しょうこつかっておらず、伝承でんしょう歴史れきし地理ちりがくてき見地けんちから、以下いかのようにいくつかのせつ提示ていじされている[7][8]

  1. 櫛川くしかわ遺跡いせき[9][10] - 現在げんざい別宮べつく神社じんじゃ付近ふきん神社じんじゃまえ発掘はっくつ調査ちょうさでは平安へいあん時代じだい祭祀さいし遺跡いせきがみられ、異国いこくじん入国にゅうこくさいし、はらいの儀式ぎしきおこなったあとともかんがえられている。銅銭どうせんしょうかがみどうすず須恵すえなどが出土しゅつどしている。
  2. 松原まつばら遺跡いせき[10] - 気比けひ松原まつばら一帯いったい砂浜すなはま砂丘さきゅう発達はったつともない、古代こだいから現在げんざいにかけて徐々じょじょ北進ほくしんしており、3れつはまつつみ形成けいせいしている[9]平安へいあん時代じだい南側みなみがわの1・2れつ付近ふきんはまつつみ現在げんざい県立けんりつ敦賀つるが高校こうこう付近ふきん)が海岸かいがんせんであった。この付近ふきんから製塩せいえん土器どき須恵すえ銅銭どうせん出土しゅつどしている。
  3. 神明しんめい神社じんじゃ[8] - 現在地げんざいち松島まつしままちではなく、きゅう所在地しょざいち松栄まつえまち福井ふくい地方ちほう法務局ほうむきょく敦賀つるが支局しきょく付近ふきんきゃくかん跡地あとちであるという伝承でんしょうがある。
  4. 来迎寺らいこうじえいけんてら付近ふきん[11][6] - 近世きんせいまつ中村なかむら付近ふきん現在げんざい松島まつしままち丁目ちょうめ付近ふきんにあたる。空中くうちゅう写真しゃしん標高ひょうこう検討けんとうから、古代こだいにはしょうかわ河口かこうおおきなとなっており、この付近ふきん入江いりえ西にしはまつつみみさきじょう相当そうとうすると推定すいていする。異国いこくからの使節しせつ隔離かくりし、入江いりえ東側ひがしがわ気比けひ神宮じんぐうからも見通みとおしがよく適地てきちとする。
  5. 気比けひ神宮じんぐうきた[8] - 神宮じんぐう北側きたがわ入江いりえがあった可能かのうせいがある。
  6. 気比けひ神宮じんぐう西にし[5] - 神宮じんぐう西にしに「館出たちいでこう」「かんこし」という小字こあざめいがあること、および神宮じんぐう宮司ぐうじきゃくかん管理かんりおこなったならば、すぐちかくにあったはずであるとの理由りゆう千田せんだみのるせつ)。
  7. ちゅう遺跡いせき[10] - 敦賀つるがインターチェンジ付近ふきん古墳こふんぐん弥生やよい時代じだい遺跡いせきからちかく、平安へいあん時代じだい遺物いぶつ多量たりょう出土しゅつどしている。
  8. 金ヶ崎かねがさき[5] - きゃくかん管理かんりになった気比けひ神宮じんぐうちかく、かつきゃくかん景勝けいしょうであるべきとの見地けんちから金ヶ崎かねがさき付近ふきんとする(あしじんせつ)。
  9. 西福寺さいふくじ[8] - 松原まつばら西端せいたん井ノ口いのくちがわ付近ふきんにも古代こだい入江いりえがあった可能かのうせい、そこからちかいことと、てらでんによればひらきそう和同開珎わどうかいちん133まい出土しゅつどした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c 酒寄さかより雅志まさし「渤海と古代こだい日本にっぽん (PDF)日本海にほんかいがく推進すいしん機構きこう 2017ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 松原まつばらきゃくかんなぞにせまる』だいいちこう
  3. ^ a b 松原まつばらきゃくかんなぞにせまる』だいこう
  4. ^ a b c 敦賀つるが 通史つうしへんうえ)』p224-228
  5. ^ a b c d e さん 松原まつばらきゃくかん実態じったいとその位置いち福井ふくい文書ぶんしょかん 2017ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c 北陸ほくりくどう景観けいかん変貌へんぼう』p52-56』
  7. ^ a b 川村かわむら俊彦としひこ古代こだい敦賀つるが松原まつばらきゃくかんについて」 (PDF)石川いしかわけん埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター 2017ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d 松原まつばらきゃくかんなぞにせまる』p14
  9. ^ a b 気比けひ史学しがく だいごう
  10. ^ a b c 松原まつばらきゃくかんなぞにせまる』だいこう
  11. ^ 松原まつばらきゃくかんなぞにせまる』だいさんこう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山口やまぐちたかし特別とくべつ寄稿きこう 松原まつばらきゃくかんについて」『気比けひ史学しがく だいごう』、気比けひ史学しがく刊行かんこう委員いいんかい、1980ねん10がつ24にち発行はっこう
  • 敦賀つるが教育きょういく委員いいんかいだいさんしょう 古代こだい敦賀つるがだいせつ 古代こだい敦賀つるが変貌へんぼういち 敦賀つるが対外たいがい関係かんけい緊張きんちょう」『敦賀つるが 通史つうしへんうえ)』p224-228、1985ねん
  • 松原まつばらきゃくかん実態じったいとその位置いち」『福井ふくいけん 通史つうしへん1 はらはじめ古代こだい』、1993ねん
  • 糀谷こうじやこうあきら 編集へんしゅう松原まつばらきゃくかんなぞにせまる 古代こだい敦賀つるがひがしアジア』気比けひ学会がっかい、1994ねん11がつ10日とおか初版しょはん発行はっこう
    • 1992年度ねんど敦賀つるが市民しみん歴史れきし講座こうざ松原まつばらきゃくかんなぞにせまる」におけるぜん6講座こうざをまとめたものである。かく講座こうざ講師こうし所属しょぞく当時とうじ)は以下いかのとおりである。
      • だいいちこう古代こだい敦賀つるがをめぐる対外たいがい関係かんけい國學院大學こくがくいんだいがく教授きょうじゅ 鈴木すずきやすしみん
      • だいこうしおみちふうみち石川いしかわ県立けんりつ埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター調査ちょうさ専門せんもんいん 小嶋こじま芳孝よしたか
      • だいさんこう歴史れきし地理ちりがくから古代こだい敦賀つるが復元ふくげんする」追手門学院大学おうてもんがくいんだいがく教授きょうじゅ 南出みなみでしんすけ
      • だいよんこううみひがしもりこく「渤海」の史的してき展開てんかい國學院大學栃木短期大学こくがくいんだいがくとちぎたんきだいがく助教授じょきょうじゅ 酒寄さかより雅志まさし
      • だいこう松原まつばら遺跡いせきる」敦賀つるが教育きょういく委員いいんかい文化財ぶんかざい調査ちょうさいん 川村かわむら俊彦としひこ
      • だいろくこう古代こだいたまき日本海にほんかい交流こうりゅう大阪女子大学おおさかじょしだいがく学長がくちょう京都きょうと大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ 上田うえだただしあきら
  • 藤岡ふじおか謙二郎けんじろう 監修かんしゅう北陸ほくりくどう景観けいかん変貌へんぼう』p52-56、古今ここん書院しょいん、1995ねん
  • 川村かわむら俊彦としひこ古代こだい敦賀つるが松原まつばらきゃくかんについて」『石川いしかわけん埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい情報じょうほう だい13ごう』p28-30、財団ざいだん法人ほうじん 石川いしかわけん埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター、2005ねん3がつ
  • 酒寄さかより雅志まさし「渤海と古代こだい日本にっぽん」『2010年度ねんどだい6かい日本海にほんかいがく講座こうざ』2011ねん2がつ11にち

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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