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松平まつだいらきんせつ

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松平まつだいらきんせつ / 大給おぎゅうきんせつ
松平まつだいらきんせつ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文政ぶんせい11ねん12月5にち1829ねん1がつ10日とおか
死没しぼつ 明治めいじ19ねん1886ねん11月18にち
改名かいめい 松平まつだいらきんせつ大給おぎゅうきんせつ
戒名かいみょう こころひろしいん
墓所はかしょ 東京とうきょう文京ぶんきょう小石川こいしかわ伝通院でんづういん
官位かんい したがえ左衛門尉さえもんのじょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう若年寄わかどしより
主君しゅくん 徳川とくがわ家慶いえよし家定いえさだ家茂いえもち慶喜よしのぶ
はん 豊後ぶんご府内ふないはんあるじ
氏族しぞく 久松ひさまつ松平まつへい大給おぎゅう松平まつだいら大給おぎゅう
父母ちちはは ちち松平まつだいら定永さだながははしょう
養父ようふ松平まつだいら近信きんしん
兄弟きょうだい てい板倉いたくらかつしず土岐ときよりゆきこれきんせつ石川いしかわそうろく正室せいしつ
つま 松平まつだいらじょうあきらむすめ
太田おおたむすめ
養子ようし大給おぎゅう近道ちかみち
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松平まつだいら きんせつ(まつだいら ちかよし)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう豊後ぶんごこく府内ふないはんだい10代(最後さいご)の藩主はんしゅおや清流せいりゅう大給おぎゅう松平まつだいら14だい幕末ばくまつだいきゅう(おぎゅう)せい改名かいめいし、大給おぎゅうきんせつ名乗なのった。

生涯しょうがい

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伊勢いせこく桑名くわなはんおも松平まつだいら定永さだながじゅういちおとことして誕生たんじょうした。

天保てんぽう12ねん1841ねん)7がつ松平まつだいら近信きんしん死去しきょさいし、末期まっき養子ようしとして家督かとく相続そうぞくする。天保てんぽう13ねん1842ねん)5がつだい12だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよし目見まみする。同年どうねん10がつしたがえ左衛門尉さえもんのじょう叙任じょにんする。14さい急遽きゅうきょ藩主はんしゅとなったため、当初とうしょ先々さきざきだい藩主はんしゅきんくん後見こうけんやくとなった。その7ねんから政務せいむるようになり、藩校はんこうゆう焉館や医学いがくかん(稽全かん)を設置せっちするなど、とく学問がくもん奨励しょうれい尽力じんりょくした。

文久ぶんきゅう元年がんねん1860ねん)8がつ20日はつか奏者そうしゃばんとなる。もと元年がんねん1864ねん)11月1にち寺社じしゃ奉行ぶぎょう兼任けんにんとなる。同年どうねん12がつ27にち寺社じしゃ奉行ぶぎょう兼任けんにんかれる。慶応けいおう元年がんねん6がつ15にちふたた寺社じしゃ奉行ぶぎょう兼任けんにんとなる。同年どうねん11がつ12にち御用ごよう取次とりつぎやく兼任けんにんとなる。慶応けいおう3ねん(1867ねん)7がつ5にち若年寄わかどしよりとなる。同年どうねん9がつ1にち会計かいけい奉行ぶぎょう兼任けんにんとなる。同年どうねん12がつ3にち国内こくない事務じむ担当たんとうめいじられる。また、だい長州ちょうしゅう征討せいとうでは小倉おぐら出兵しゅっぺいしたものの、大政奉還たいせいほうかんのちには国元くにもと勤王きんのう増沢ますざわきんあつしとらすすむきんくん長男ちょうなん)が藩主はんしゅ代理だいりてられ、幕府ばくふ要職ようしょくにあったきんせつ裏切うらぎられるかたちとなった。

慶応けいおう4ねん1868ねん)2がつ6にち若年寄わかどしより辞職じしょくした。同年どうねん3がつ20日はつか松平まつだいらせい大給おぎゅうあらためた。同年どうねん3がつ25にち恭順きょうじゅん姿勢しせいしめすため上洛じょうらくしたものの、謹慎きんしんめいじられた。中川なかがわ久昭ひさあき仲立なかだちに謝罪しゃざいする。同年どうねん5がつ13にち謹慎きんしんかれる。同年どうねん7がつ10日とおか、ようやくはん許可きょかされる。明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ版籍はんせき奉還ほうかんにより府内ふないはん知事ちじ任命にんめいされた。明治めいじ4ねん(1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんにより知事ちじしょく解任かいにんされた。同年どうねん10がつ10日とおか養子ようし近道ちかみち(1854ねん - 1902ねん実父じっぷ府内ふない藩士はんしぞく増沢ますざわきんあつし[1]、8だい府内ふない藩主はんしゅ松平まつだいらきんくんまご)に家督かとくゆずって隠居いんきょした。明治めいじ19ねん(1886ねん死去しきょ享年きょうねん58。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

養子ようし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽん弘道こうどうかい評議ひょうぎいん 子爵ししゃく 大給おぎゅうきんこう大分おおいたけん人士じんしろく』(大分おおいたけん人士じんしろく発行はっこうしょ、1914ねん
  2. ^ 家督かとくいだ大給おぎゅう近道ちかみち明治維新めいじいしん子爵ししゃくとなり、近道ちかみち死後しご長男ちょうなん大給おぎゅうきんこう子爵ししゃく相続そうぞくした。

外部がいぶリンク

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当主とうしゅ
先代せんだい
松平まつだいら近信きんしん
府内ふないはんだいきゅう松平まつだいら
1841ねん - 1871ねん
次代じだい
大給おぎゅう近道ちかみち