武内たけうち大造たいぞう

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武内たけうち 大造たいぞう
(たけうち たいぞう)
だい礼服れいふく姿すがた武内たけうち大造たいぞう
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1873-02-03) 1873ねん2がつ3にち
日本の旗 日本にっぽん埼玉さいたまけん
死没しぼつ (1946-03-23) 1946ねん3月23にち(73さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
配偶はいぐうしゃ 順子じゅんこ (寺野てらの精一せいいちいもうと)
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや ドイツ語学ごがく
研究けんきゅう機関きかん 東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく
称号しょうごう 東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
おも受賞じゅしょうれき したがえよんくんよんとう[1]
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Takeuchi Taizo (武内たけうち 大造たいぞう, February 3, 1873 – March 23, 1946) was a Japanese Germanist. 武内たけうち 大造たいぞう(たけうち たいぞう, 1873ねん2がつ3にち - 1946ねん3月23にち)は、日本にっぽんドイツがくもの。20世紀せいき前半ぜんはんにおける日本にっぽんのドイツ教育きょういく貢献こうけんした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

埼玉さいたまけん草加そうかまち(現在げんざい草加そうか)に薬種やくしゅしょういとな武内たけうち作蔵さくぞうつまなみの次男じなんとしてまれる[2]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく独逸どいつ文学ぶんがくを1900ねん卒業そつぎょう同年どうねん東京とうきょう外国がいこく学校がっこう旧制きゅうせい現在げんざい東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく教授きょうじゅにんぜられた。1907ねんにはだいなな高等こうとう学校がっこうづくりかん教授きょうじゅてんじ、1914ねんふたた東京とうきょう外国がいこく学校がっこう(旧制きゅうせい)教授きょうじゅにんじられた。1932ねん退官たいかん名誉めいよ教授きょうじゅ講師こうしとして1939ねんまで同校どうこう教壇きょうだんった[3]東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう(現在げんざい一橋大学ひとつばしだいがく),どくきょう学園がくえんにおいても兼任けんにん講師こうしつとめた[4][5]

1909-11ねんには、文部省もんぶしょう留学生りゅうがくせいとしてドイツ(フンボルト大学だいがくベルリン)に留学りゅうがくした[6]日本にっぽん最初さいしょのラジオドイツ講座こうざ講師こうしつとめた[7][8]. 1918ねん高等こうとう試験しけん臨時りんじ委員いいん任命にんめいされている[9]

墓所はかしょ雑司ヶ谷ぞうしがや墓地ぼち

家族かぞく[編集へんしゅう]

つま順子じゅんこ(1883-1972)の長兄ちょうけい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶ教授きょうじゅ(造船ぞうせん工学こうがく)をつとめた工学こうがく博士はかせ寺野てらの精一せいいちどう次兄じけい九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶ教授きょうじゅ応用おうよう化学かがく)をつとめた工学こうがく博士はかせ寺野てらのひろし[10]子供こどもは5じょなん[11].

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 獨逸どいつ散文さんぶん鈔 Deutscher Lesestoff 武内たけうち大造たいぞう へん. 精華せいか書院しょいん, 1916.5
  • 近代きんだい散文さんぶんいきせん 武内たけうち大造たいぞう へん. 南山みなみやまどう書店しょてん, 1917.3
  • Für japanische Musensöhne にちどく書院しょいん, 1924
  • 新編しんぺん獨逸どいつ讀本とくほん 武内たけうち大造たいぞう へん. にちどく書院しょいん, 1930.1
  • 和文わぶんどくやくれい = Übungsbeispiele zur Übersetzung aus dem Japanischen 武内たけうち大造たいぞう へん. 南江堂なんこうどう書店しょてん, 1931.2
  • 近代きんだいじゅういえぶん 武内たけうち大造たいぞう へん. 南江堂なんこうどう書店しょてん, 1931.2

ギャラリー[編集へんしゅう]


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 武内たけうち大造たいぞう (だい8はん) - 『人事じんじ興信録こうしんろく』データベース”. 名古屋大学なごやだいがく法学ほうがく研究けんきゅう. 2023ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
  2. ^ 埼玉さいたま苗字みょうじ辞典じてん(2024ねん3がつ26にち閲覧えつらん) に「足立あだちぐん草加そうか宿やど 草加そうか神社じんじゃひろさん(1848)ねん玉垣たまがき薬種やくしゅしょう大坂おおさか武内たけうち庄蔵しょうぞう.」とある
  3. ^ 東京とうきょう外国がいこく学校がっこう時代じだい 1873-1944ねん”. 東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく. 2023ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
  4. ^ 宮野みやの, えつよし ドイツ : ドイツひゃくねん素描そびょう一橋大学ひとつばしだいがく1986-03-01 一橋大学ひとつばしだいがく学問がくもん : 一橋大学ひとつばしだいがく創立そうりつひゃくねん記念きねんp.1125-1134
  5. ^ どくきょう同窓会どうそうかい|page6 大村おおむら仁太郎にたろう活躍かつやく (2)”. 2024ねん3がつ23にち閲覧えつらん
  6. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1910ねん12月4にち別刷べつづり1ページ 中島なかじま半次郎はんじろうはくりん通信つうしんじゅうがつ3にちよるはくりん文教ぶんきょうかい来遊らいゆうちゅう谷本たにもと博士はかせ歓迎かんげいふくめFriedrichstrasse Keiserkellerでひらさるこう出席しゅっせきしゃ武内たけうち大造たいぞうつじだか中島なかじま半次郎はんじろう山岸やまぎしひかりむべ阿部あべ秀助ひですけ坂口さかぐちのぼる斎藤さいとう斐章こう政幸まさゆきすけもりがい三郎さぶろうひとしきゅうくんに,賓客ひんきゃくあわせてじゅうにん旅行りょこうだんやら,故国ここく文学ぶんがく教育きょういくかんするはなしやらにて,じゅうちかくまでにぎわいさるこう
  7. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1928ねん7がつ23にち朝刊ちょうかん.「愈々いよいよけふからはじまる外國がいこく夏期かき講座こうざ はちがつさんじゅういちにちまで毎朝まいあさななから佛語ふつご丸山まるやま独語どくご武内たけうち教授きょうじゅ講師こうしりょう顔写真かおじゃしん掲載けいさい
  8. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1929ねん7がつ22にち朝刊ちょうかん4ページ,「夏期かき講座こうざはじまる」とあり講師こうし紹介しょうかいに「ドイツ武内たけうち大造たいぞうもかゆいところへとどよう懇切こんせつ講義こうぎぶりで初学しょがくしゃにもよく理解りかいができると,こうしゃから好評こうひょうけた外国がいこく学校がっこう教授きょうじゅである.」とある.
  9. ^ 高等こうとう試験しけん臨時りんじ委員いいん任命にんめい”. 中央ちゅうおう大学だいがく. 2023ねん12月22にち閲覧えつらん
  10. ^ JINJIKOSHINROKU (who's who)”. Nagoya University Graduate School of Law. 2024ねん3がつ19にち閲覧えつらん
  11. ^ 寿ことぶきよし(長女ちょうじょ1904せい),ことぶき(二女じじょ1907せい),けい(長男ちょうなん1909せい),駒子こまこ(さんじょ1911せい),房子ふさこ(よんじょ1915せい),直子なおこ(じょ1917せい),篤信とくしん(次男じなん1919せい).直子なおこ岳父がくふ建築けんちく中村なかむらきょうひらた篤信とくしん岳父がくふ砂防さぼう協会きょうかい設立せつりつした赤木あかぎ正雄まさお