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ドイツがく

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ドイツがく(ドイツがく、独逸どいつがくきゅう字体じたい獨逸どいつ󠄁まなぶ)とは、日本にっぽんにおけるドイツおよドイツ語どいつごけん諸国しょこく中心ちゅうしんとしたドイツ主体しゅたい学問がくもんどく文学ぶんがくなど)のことをす。また、ドイツの「Germanistik(ゲルマニスティク)」という表現ひょうげんもちいる場合ばあいもある。

日本にっぽんにおけるドイツがく

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江戸えど時代じだい

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ドイツはオランダ隣国りんごくであり、オランダやくされたほん日本にっぽんはいってくることおおかったことさんじゅうねん戦争せんそう以後いご強力きょうりょく統一とういつ国家こっかあらわれなかったことから、江戸えど時代じだいつうじてドイツへの関心かんしんたかくなかった。1771ねん明和めいわ8ねん)に長崎ながさき通詞つうじ今村いまむら源右衛門げんえもんオランダ商館しょうかんちょうおくられてきたドイツ手紙てがみ翻訳ほんやくしたのが最古さいこれいわれており[だれによって?]水戸みとはんでも寛政かんせい年間ねんかん兵学へいがく研究けんきゅうのためにドイツ研究けんきゅうがされたとわれているが[だれによって?]散発さんぱつてきなものである。また、オランダ商館しょうかんいんとしてドイツじんであるケンペルシーボルト来日らいにちしたことられているが、かれらはオランダじんとして振舞ふるまっていたために、ドイツにかんして限定げんていすればおおきな影響えいきょうあたえなかった。また、宇田川うだがわようが『うえがくけいばら』をいたさいにシーボルトからもらったドイツのクルト・シュプレンゲル(Kurt Sprengel)のしるから引用いんようしたとされ、かれがドイツかいしたとするせつもあるが真偽しんぎさだかではない。

ドイツがく起源きげんとして適切てきせつなのは、万延まんえん元年がんねん1860ねん)にプロシアフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク(Friedrich Albrecht zu Eulenburg、ビスマルク内閣ないかく内相ないしょう)が同国どうこく使者ししゃとして来日らいにちしたさいに、加藤かとう弘之ひろゆき市川いちかわ斎宮いつきのみやけんじ上品じょうひんであった電信でんしん使用しようほうまなぶためにドイツまなんだとされるもので、ついで同年どうねん12月14にち1861ねん1がつ24にち)ににち修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつされたためにドイツ学習がくしゅう必要ひつようせいしょうじ、1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)に洋書ようしょ調ちょうしょで『官版かんぱん独逸どいつ単語たんごへん』が刊行かんこうされた。

戦前せんぜん

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明治維新めいじいしんにより近代きんだい時代じだいはいると、大学南だいがくみなみこうヤーコプ・カデルリー(Jakob Kaderly・スイス)が着任ちゃくにんして日本にっぽんにおける本格ほんかくてきドイツ語どいつご教育きょういく基礎きそきずいた。その、ドイツ辞典じてんブームが到来とうらいするが、もっとおおきな影響えいきょうあたえたのは、明治めいじ5ねん1872ねん)に司馬しばりょううみらが作成さくせいした『和訳わやく独逸どいつ辞書じしょ』と明治めいじ10ねん1877ねん)に大吉だいきちらが作成さくせいした『かずどく対訳たいやくりん』であった。いずれもルドルフ・レーマン監修かんしゅうしたとされる。

1880年代ねんだいはいると、日本にっぽん立憲りっけん制度せいどなど国家こっか基盤きばんにドイツの方針ほうしんれようとする主張しゅちょう明治めいじ政府せいふ内部ないぶからがった。その主唱しゅしょうしゃ井上いのうえあつしであった。のち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう起草きそうしゃ1人ひとりとなる井上いのうえは、ドイツ帝国ていこくくにせいこそが、天皇てんのう中心ちゅうしんとする日本にっぽん国体こくたい擁護ようごのための制度せいどづくりにかせないととなえた。だが、実際じっさいのところ当時とうじイギリスフランスたいする関心かんしんたいしてドイツのそれがひくかったのも事実じじつであり、むしろ明治めいじ政府せいふ主流しゅりゅうはドイツ帝国ていこく隆盛りゅうせい政治せいじ軍事ぐんじをドイツしきにしようとかんがえたのが実情じつじょうであった。これにたいして井上いのうえはイギリス・フランスの影響えいきょうつよ福澤ふくさわ諭吉ゆきち慶應義塾けいおうぎじゅく対抗たいこうできる学校がっこう創設そうせつする構想こうそうてた。この提案ていあんはドイツへの留学りゅうがく経験けいけんのあるかつら太郎たろう青木あおき周蔵しゅうぞう品川しながわ弥二郎やじろうらの支持しじけて具体ぐたいし、1883ねん独逸どいつがく協会きょうかい学校がっこうどくきょう学園がくえん)が設立せつりつされた。この学校がっこうはドイツ啓蒙けいもう主義しゅぎもとづいた教育きょういくおこなって官界かんかい法曹界ほうそうかいへの人材じんざい供給きょうきゅう目的もくてきとし、みや内省ないせいのち文部省もんぶしょう司法省しほうしょう)から補助ほじょきんされ、上級じょうきゅう学校がっこうとしてドイツほうまなぶための専修せんしゅう1884ねん1895ねん)が設置せっちされて一時いちじ九大きゅうだい法律ほうりつ学校がっこうの1つにかぞえられたが、財政難ざいせいなんによる補助ほじょきんりと帝国ていこく大学だいがくにおけるドイツがく充実じゅうじつへの政策せいさく転換てんかん設置せっち当初とうしょ約束やくそくされていた専修せんしゅう卒業そつぎょうしゃ高等こうとう文官ぶんかん試験しけんにおいて帝国ていこく大学だいがく同等どうとうあつかうという約束やくそく実施じっしされなかったために経営けいえい急速きゅうそく悪化あっかして、専修せんしゅう廃止はいしして中学校ちゅうがっこうのみとなった(同校どうこう独協大どっきょうだいがく設置せっちするのは専修せんしゅう廃止はいしから69ねんのことである)。一方いっぽう国立こくりつ官立かんりつ学校がっこうにおいては、1887ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく独逸どいつ文学ぶんがく設置せっちされて、カール・フローレンツ(Karl Florenz)が1889ねんより1914ねんの25ねんにわたり教壇きょうだんにたって日本にっぽんにおけるドイツ語学ごがく・ドイツ文学ぶんがく研究けんきゅういしずえきずいた(後任こうにん上田うえだせい[1])。また、1895ねんには前述ぜんじゅつ独逸どいつがく協会きょうかい学校がっこう維持いじできなくなった同校どうこう専修せんしゅう組織そしき独逸どいつほう学科がっか吸収きゅうしゅうしてその充実じゅうじつはかった。また1899ねんには、1885ねん廃止はいしされた東京とうきょう外国がいこく学校がっこう1873ねん創立そうりつ)が再興さいこうされてドイツ学科がっか設置せっちされた。さら法律ほうりつ軍事ぐんじ医学いがく分野ぶんやにおけるドイツへの留学りゅうがくしゃ増加ぞうかするなど、ドイツがく受容じゅようすすんだ。もっとも、すべてのドイツの学術がくじゅつ歓迎かんげいされたわけではない。マルクスエンゲルスなどの社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎ弾圧だんあつ対象たいしょうとなったし、1906ねんにはニーチェ超人ちょうじん思想しそう紹介しょうかいした登張とばり信一郎しんいちろうたけふう当時とうじ東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう教授きょうじゅ)が「国体こくたい破壊はかい」の非難ひなんによって教壇きょうだんわれる事件じけんきている。

1905ねんにはにち戦争せんそう勝利しょうりし、1911ねんには不平等ふびょうどう条約じょうやく完全かんぜん撤廃てっぱいされたことにより、日本にっぽん列強れっきょうする国力こくりょくって富国強兵ふこくきょうへい時代じだいわると、「ドイツがく」はしゅとしてドイツ語学ごがくどく文学ぶんがく中心ちゅうしんとする内容ないようまなばれるようになった。また、帝国ていこく大学だいがくおよ有力ゆうりょく私立しりつ大学だいがくでは、ドイツ語学ごがくどく文学ぶんがくのみならず、ドイツほう学科がっか略称りゃくしょうどくほう)をもうけたところもあった。富国強兵ふこくきょうへい時代じだいわったのちも、ドイツの制度せいど摂取せっしゅ主張しゅちょうする政治せいじ随時ずいじられた。

1930年代ねんだいになり、ドイツにアドルフ・ヒトラーひきいる国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)が台頭たいとうし、政権せいけん掌握しょうあくすると、日本にっぽんでは、ナチス・ドイツ政治せいじ経済けいざい軍事ぐんじなどへの関心かんしんたかまった。

戦後せんご

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日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくし、戦後せんご改革かいかくこると、全国ぜんこく各地かくち新制しんせい大学だいがく設立せつりつされ、各地かくち大学だいがくにてドイツがく講義こうぎされるようになった。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 斎藤さいとうしん独逸どいつがく」:『国史こくしだい辞典じてん 10』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん 1989ねん ISBN 978-4-642-00510-4
  • 新宮しんぐう譲治じょうじ獨逸どいつがく協会きょうかい学校がっこう研究けんきゅう』、校倉あぜくら書房しょぼう 2007ねん ISBN 978-4-7517-3840-5

関連かんれん項目こうもく

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