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斎藤さいとう斐章

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斎藤さいとう 斐章
誕生たんじょう (1867-04-02) 1867ねん4がつ2にち慶応けいおう3ねん2がつ26にち
陸奥みちのくこく胆沢いさわぐん佐野さのむらげん岩手いわてけん奥州おうしゅう水沢みずさわ佐倉河さくらかわ
別名べつめい くらすすむ幼名ようみょう)、たけ
死没しぼつ (1944-05-27) 1944ねん5月27にち(77さいぼつ
東京とうきょう小石川こいしかわ白山はくさん御殿ごてんまちげん文京ぶんきょう
職業しょくぎょう 教育きょういくしゃ歴史れきし学者がくしゃ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう師範しはん学校がっこう文科ぶんか
代表だいひょうさく歴史れきし教授きょうじゅほう』(1902ねん
西洋せいよう文明ぶんめい史観しかん』(1917ねん
日本にっぽん国民こくみん』(1920ねん
配偶はいぐうしゃ フサノ
子供こども まこと長男ちょうなん)、丈夫じょうぶ次男じなん)、正路まさじ三男さんなん)、直路ちょくろ四男よつお)、やす五男いつお)、おおやけ六男むつお
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斎藤さいとう 斐章(さいとう ひしょう、慶應けいおう3ねん2がつ26にち[1]1867ねん4がつ2にち) - 昭和しょうわ19ねん1944ねん5月27にち[2])は、日本にっぽん教育きょういくしゃ歴史れきし学者がくしゃ

経歴けいれき

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岩手いわてけん出身しゅっしん1899ねん明治めいじ32ねん)、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう文科ぶんか卒業そつぎょうし、東京とうきょう師範しはん学校がっこう訓導くんどう教諭きょうゆとなる[3]1902ねん明治めいじ35ねん)、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう助教諭じょきょうゆとなり、1906ねん明治めいじ39ねん)に教諭きょうゆ1908ねん明治めいじ41ねん)に教授きょうじゅすすんだ[3]歴史れきしがく歴史れきし教育きょういくほう研究けんきゅうのため欧米おうべい留学りゅうがくし、1911ねん明治めいじ44ねん)に帰国きこくした[4][3]1920ねん大正たいしょう9ねん)からは附属ふぞく中学校ちゅうがっこう主事しゅじねた[3]1936ねん昭和しょうわ11ねん)、退官たいかん[3]

著作ちょさく

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著書ちょしょへんしょ
訳書やくしょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大衆たいしゅう人事じんじろく 1930.
  2. ^ 斎藤さいとう斐章」『読売よみうり報知ほうちだい24208ごう1944ねん5がつ30にち、3めん
  3. ^ a b c d e 人事じんじ興信録こうしんろく 1939.
  4. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1910ねん12月4にち別刷べつづり1ページ 中島なかじま半次郎はんじろうはくりん通信つうしんじゅうがつ3にちよるはくりん文教ぶんきょうかい来遊らいゆうちゅう谷本たにもと博士はかせ歓迎かんげいふくめFriedrichstrasse Keiserkellerでひらさるこう出席しゅっせきしゃ武内たけうち大造たいぞうつじだか衡,中島なかじま半次郎はんじろう山岸やまぎしひかりむべ阿部あべ秀助ひですけ坂口さかぐちのぼる斎藤さいとう斐章こう政幸まさゆきすけもりがい三郎さぶろうひとしきゅうくんに,賓客ひんきゃくあわせてじゅうにん旅行りょこうだんやら,故国ここく文学ぶんがく教育きょういくかんするはなしやらにて,じゅうちかくまでにぎわいさるこう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい12はんうえ)』人事じんじ興信所こうしんじょ、1939ねん 
  • 帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃへん大衆たいしゅう人事じんじろく だい3はん帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃ、1930ねん 

関連かんれん文献ぶんけん

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公職こうしょく
先代せんだい
稲葉いなば彦六
日本の旗 東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこう主事しゅじ
1920ねん - 1928ねん
次代じだい
田中たなか寛一かんいち