永原ながはら伊太いた

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永原ながはら 伊太いた(ながはら の こいたび、生年せいねん不明ふめい - うけたまわ2ねん5月13にち835ねん6月12にち〉)は、平安へいあん時代じだい初期しょき女官にょかん氏姓しせい藤原ふじわら朝臣あそんのち永原ながはら朝臣あそん官位かんい典侍てんじせいよん兄弟きょうだい永原ながはらさいおとうと麻呂まろがいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

平城ひらじろあさ大同だいどう3ねん808ねん)12月、したがえじょうとき姉妹しまいおもわれる恵子けいこ同時どうじ永原ながはら朝臣あそんたまものせいされている[1]。その翌年よくねん大同だいどう4ねん809ねん)には、東山ひがしやまみち観察かんさつ使せいよん兼行けんこうみぎ衛士えじとく陸奥みちのく出羽でわ按察使藤原ふじわらいとぐち辺境へんきょうにんにつくべく内裏だいり暇乞いとまごいをしたさいに、天皇てんのういとぐち嗣を昇殿しょうでんさせ、典侍てんじしたがえじょう伊太いた仲介ちゅうかいしてころも1かさね(かずき)などを下賜かししたとしるされている[2]。そのせい昇進しょうしんし、さらにくすりへん直後ちょくごひろしひとし元年がんねん810ねん)9がつしたがえよん昇叙しょうじょ[3]

うけたまわ2ねん835ねん)5がつせいよん卒去そっきょ[4]

かんれき[編集へんしゅう]

ろく国史こくし』による

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんまきだいじゅうなな平城ひらじろ天皇てんのう 大同だいどう3ねん12月9にちじょう
  2. ^ 日本にっぽんまきだいじゅうなな平城ひらじろ天皇てんのう 大同だいどう4ねん3がつ23にちじょう
  3. ^ 日本にっぽんまきだいじゅう嵯峨天皇さがてんのう ひろしじん元年がんねん9がつ25にちじょう
  4. ^ ぞく日本にっぽんまきよんうけたまわ2ねん5がつ13にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]