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すな

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すな
沙摩柯(三国志演義)
すな柯(三国志さんごくし演義えんぎ
しょく
えびすおう
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
荊州たけりょうぐん
死去しきょ あきらたけ2ねん222ねん
荊州むべみやこぐんえびすりょう
拼音 Shāmókē
主君しゅくん りゅう
テンプレートを表示ひょうじ

すな(しゃまか、さまか)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい武将ぶしょう民族みんぞくえびす)のおう

正史せいし事跡じせき

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正史せいし三国志さんごくし』では、しょりくへりくだつてにしか記述きじゅつられない。しょくかん味方みかたした中国ちゅうごく周辺しゅうへん民族みんぞくおう[1]あきらたけ2ねん222ねん)、りゅう随従ずいじゅう討伐とうばつ参加さんかしている。しかし、りくへりくだ火攻ひぜめのためしょくぐん大敗たいはいし、すな柯も斬首ざんしゅされた(えびすりょうたたか)。

物語ものがたりちゅうすな

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、そそいだようにかおするどかがや碧眼へきがんち、てつ蒺藜こつ[2]にし、左右さゆうこしゆみをつけた「蛮王」として登場とうじょうし、史実しじつ同様どうよう討伐とうばつ参加さんかする。猇亭(おうてい)のたたかいではあまやすしあたまて、これを活躍かつやくせる[3]。しかしりくへりくだ火攻ひぜめでしょくぐんだい打撃だげきけると単騎たんき敗走はいそう。その最中さいちゅう追撃ついげきしてきたしゅうやすしくわし、20ごうあまったすえられる。

その

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現代げんだいでは、書籍しょせき以外いがい創作そうさくぶつなどにおいて「すな」と表記ひょうきしている著作ちょさくぶつ存在そんざいしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ りくへりくだつてでは、「えびすおう」との記載きさいがあるのみで、具体ぐたいてきにいかなる民族みんぞく出身しゅっしんかは不明ふめい。ただし「えびす」は、一般いっぱんてきには北方ほっぽう民族みんぞくす。
  2. ^ 「てつしつれいこつだ」とむ。てつもしくはつくられた武器ぶき一方いっぽう楕円だえんがたで、そこにてつとげえてある。西洋せいようモーニングスター相当そうとうする。立間たちまさちかい三国志さんごくし演義えんぎ 』。
  3. ^ えき伝承でんしょうによれば、うまりょう帰順きじゅんした民族みんぞくひきいて主戦しゅせんじょうかう途中とちゅうえきけんじょう付近ふきんあまやすしぐん遭遇そうぐうし、民族みんぞくぐんくれぐん勝利しょうりしたものの、うまりょうりゅう備・りくへりくだたちの本戦ほんせんることなく死亡しぼうしたとされる。えきに「うまりょうむら」「うまりょううまりょうむら土地とちわんぐみ)」など地名ちめいうまりょうのこっている。あまやすしもこのたたかいできずて、それが原因げんいん死去しきょしたとされている。この伝承でんしょうもとあまやすし射殺しゃさつのシーンがまれたのか、ぎゃくに『三国志さんごくし演義えんぎ』がさき成立せいりつしてこの伝承でんしょうまれたのかは不明ふめいである。

参考さんこう文献ぶんけん

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