海原 治
1917 | |
2006 | |
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来歴
[1946
1967
1972
エピソード
[高等官 は休職 期間 を2年 とされていたが、日 中 戦争 が逼迫 してくると陸軍 が事実 上 の兵役 の延長 を乱発 したため、2年 以上 連続 で兵役 についていた者 が免職 になってしまうことになった。これに気 づいた海原 が人事 課長 に談判 した結果 、休職 期間 が2年 に到達 した都度 形式 上 復職 したことにして一旦 白紙 にする措置 が取 られる様 になった。これにより、入省 同期 の官僚 が失職 しないで済 んだ[6]。戦前 、海原 は短期 現役 制度 を利用 して海軍 に志願 していたが、不 合格 にされている。後 に海軍 人事 局 の将校 が海原 のもとへ陳情 に来 た際 、たまたま短期 現役 の試験 の話題 となると「だいたいあんたのとこ、おかしい、なんの基準 で落第 だ採用 だと決 めるんですか、私 は落 とされた」と怒 り出 した[1]。高知 県 渉外 課長 時代 の1946年 8月 、県知事 が内務省 の任命 から選挙 に変 わる初 の県知事 選挙 が行 われたが、このときの選挙 に県 の営林局 や警察 の少壮 官僚 が候補者 として海原 を担 ぎ出 そうとした。本人 も大 いに乗 り気 であったが、被選挙権 である30歳 に5ヶ月 足 らないことが判明 、頓挫 した。本人 は「このときに資格 があれば当選 し、最年少 の県知事 になったと思 う」と話 している[注釈 2]。海原 によって、シビリアン・コントロールという大義名分 で押 さえこまれた制服 組 からは「暴力 一 課 の親分 」「海原 ではなく陸 原 だ」という造語 の批判 が庁 内 で出 ていた。これは、海原 が三 自衛隊 の中 で海 空 に冷 たく、陸 に「好意 的 」な態度 を皮肉 ったもので、他 にも「海 空 治 まらず」という迷句も流布 されたという。ただし、海原 は陸自 に大 きな期待 はかけておらず、「三 、四日 の戦闘 の後 には、組織 的 な抵抗 力 を失 うだろう」と評 していた。空自 に関 しては「十 分 前後 で壊滅 する」海自 に関 しては「二 、三日 の生命 」となどと評 している[7]。海原 の自衛隊 論 は、「自衛隊 はどうせ実戦 の役 にたぬのだから、同 じことならカネのかかる海 空 より、安 あがりの陸 に重点 を置 くべきだ」という「自衛隊 オモチャ論 」であり、自衛隊 にカネのかかる外征 的 装備 を一切 持 たせず、海自 には沿岸 防備 のみをやらせて、正面 装備 中心 から兵站 や弾薬 などの補給 備蓄 などに注力 し、国民 に一定 期間 の軍事 教練 を施 して編成 された民兵 組織 である「郷土 防衛 隊 」を作 って本土 に上陸 してきた敵 軍 に抗戦 するという「日本 列島 守備 隊 論 」であり、安上 がりな軍備 だけでいいと考 えていた。海原 から「日本 列島 守備 隊 論 」を聞 かされた制服 組 は「バカにしている」と憤慨 していたという[8]。- その
持論 から、シーレーン防衛 を重視 する海上 自衛隊 のヘリ空母 構想 や、洋上 防空 を目指 していた航空 自衛隊 の早期 警戒 機 ・空中 給油 機 導入 計画 に大 反対 し、強引 な手法 で何 度 も計画 を潰 していた。その結果 、「海原 ではなく陸 原 だ」という批判 をされるようになった。 海原 は、日本 は過去 の過 ちを反省 して、大 規模 な海軍 を持 ってはならないと考 えており、(日本 の海軍 は)ある枠 内 に閉 じこもった、小規模 な警備 部隊 にすべきだと唱 えていた。そのため、海原 は海上 自衛隊 の主力 部隊 である自衛 艦隊 を廃止 して、海上 自衛隊 と海上保安庁 を統合 し、外部 からの侵略 や侵入 への対処 、海上 救難 を主 任務 とする日本 海上 部隊 (警備 部隊 )を創設 すべきだとしていた。この新 たな日本 海上 部隊 の任務 からは、海上 自衛隊 が主 任務 としていた「海上 交通 路 の確保 」や「制海権 の確保 」は排除 され、装備 体系 も駆逐 艦 、掃海 艇 、潜水 艦 (訓練 標的 艦 )、沿岸 哨戒 救難 用 の艦艇 と航空機 に限定 されること、潜水 艦 は主 に「訓練 標的 艦 」として使用 すること、現在 、海上 自衛隊 が進 めている「大 海軍 の華麗 なる想定 」を支 えるような艦艇 や、一種 の道楽 ともいえるような兵器 の調達 を中止 すべきだとしていた[9]。海原 は、海上 自衛隊 が主 任務 とする「海上 交通 の確保 」を非 現実 的 な想定 であると批判 しており、ソ連 海軍 や中国 海軍 と思 われる国籍 不明 潜水 艦 から、日本 の海上 交通 路 を防衛 するといった任務 は海上 自衛隊 には認 められていないし、現実 的 でもなく、不可能 であるとしていた。これは海原 が自衛隊 の任務 である「直接 侵略 及 び間接 侵略 からの日本 の防衛 」の解釈 を狭義 に適用 しようとしているため、海上 輸送 確保 の任務 は正式 には承認 されていないとの立場 だからである[9]。国産 超 音速 高等 練習 機 T-2ならびにその改修 型 の支援 戦闘 機 F-1の開発 を巡 っては、コストの面 から国内 開発 の放棄 とF-5の導入 を強 く主張 した。- 61
式 戦車 の開発 においては重量 25トン以内 を主張 し、結果 として61式 戦車 が35トン級 として完成 した後 も自説 を曲 げなかった。1964年 、61式 戦車 の重 装甲 化 を主張 し実現 した曽根 正儀 が欧州 戦車 開発 事情 調査 に参加 する際 「25トン戦車 構想 が35トンの61式 戦車 に崩 れてしまったのは誠 に遺憾 であった」とし「次 の戦車 開発 (74式 戦車 )がそういう過誤 を冒 してはならない」と1時 間 に渡 って説教 したという(しかし結局 、74式 戦車 は38トンになっている)。 内局 の海原 派 と制服 組 の対立 が激化 していた昭和 42年 の春 から夏 にかけての防衛庁 参事官 会議 において、海原 は荒 れ狂 い、海外 の航空 専門 誌 の最新 号 を読 んでいるかどうかを空幕 長 と防衛 局長 に質問 し、相手 が読 んでいないと答 えると、「幕僚 長 も防衛 局長 もどっちもどっちだ。話 にならん」「ぼくは三 次 防 には責任 を負 わぬから、念 を押 しておきます」と発言 して会議 をお流 れにし、次回 は海原 が欠席 して承認 、というパターンが繰 り返 されたという。また、海原 は会議 中 にトイレにいくふりをして、自室 で整理 されたファイルから攻撃 材料 を仕入 れていた[10]。その後 、年度 予算 要求 の締 め切 りである8月 近 くになり、前年 に国防 会議 で正式 に決定 された三 次 防 の初年度 分 の予算 案 提出 の際 に、次期 戦闘 機 (FX)、次期 高等 練習 機 (TX)、次期 輸送 機 (CX)などの大物 が目白押 しにもかかわらず、海原 は判 を押 さぬ、と言 いだした。海原 は前年 にFXとして国防 会議 で決定 されたF-4の計上 に反対 だとして、アメリカが後進 国 用 に開発 したF-5でよろしい、と主張 し、国防 会議 の決定 を覆 そうとした。その後 、海原 の国防 会議 事務 局長 への抜 き打 ち人事 が発令 され、海原 は防衛庁 から去 ることになった。この時期 、防衛庁 では海原 の暴君 的 言動 が度 を越 し、庁 内 の人心 を失 っていたという[11]。
山崎 豊子 の小説 『不毛 地帯 』に、防衛庁 で権勢 を揮 う内務 官僚 上 がりの“貝塚 官房 長 ”が登場 する。海原 がモデルとされるも、小説 内 での貝塚 の容姿 は「ヌルリとした禿頭 」であるが、実際 の海原 はロマンスグレーであった。
著書
[- 『
戦史 に学 ぶ――明日 の国防 を考 えるために』(朝 雲 新聞 社 、1970年 ) - 『
日本 列島 守備 隊 論 』(朝 雲 新聞 社 、1973年 ) - 『
私 の国防 白書 』(時事通信社 、1975年 ) - 『
日本 防衛 体制 の内幕 ――一 防衛 官僚 の独白 』(時事通信社 、1977年 ) - 『
現実 の防衛 論議 』(久保 卓也 と共著 、サンケイ出版 、1979年 ) - 『
誰 が日本 を守 るのか!――一 億 人 の国防 論 』(ビジネス社 、1980年 ) - 『
討論 自衛隊 は役 に立 つのか』(共著 、ビジネス社 、1981年 ) - 『
間違 いだらけの防衛 論 』(グリーンアロー出版 社 、1983年 ) - 『
日本 の国防 を考 える――このままでは日本 は亡 びる』(時事通信社 、1985年 ) - 『
日本人 的 「善意 」が世界中 で目 の敵 にされている!!』(講談社 、1987年 ) - 『
治 に居 て乱 を忘 れず――あいまいな日本 の悲劇 』(読売新聞社 、1996年 ) - 『
安全 保障 ・日本 の選択 ――日本人 は国 を守 れるのか』(時事通信社 、1996年 )
親族
[脚注
[注釈
[出典
[- ^ a b
後藤田 正晴 (1998).情 と理 <上 >.講談社 . p. 48 - ^
草柳 大蔵 『官僚 王国 論 』文藝春秋 250頁 - ^
第 63回 国会 衆議院 予算 委員 会 第 12号 昭和 45年 3月 7日 | テキスト表示 |国会 会議 録 検索 システム - ^ 『C.O.Eオーラル・
政策 研究 プロジェクト海原 治 (元 内閣 国防 会議 事務 局長 )オーラルヒストリー〈下巻 〉』〈政策 研究 大学院 大学 (政策 研究 院 )、2001年 〉 - ^
第 63回 国会 ・衆議院 ・予算 委員 会 第 12号 委員 会 (1970年 3月 7日 )会議 録 - ^
後藤田 正晴 (1991).支 える動 かす.日本経済新聞 . p. 40 - ^
秦 郁 彦『官僚 の研究 不滅 のパワー・1868‐1983』259〜260頁 - ^
秦 郁 彦『官僚 の研究 不滅 のパワー・1868‐1983』260頁 - ^ a b ジェームス・E・アワー (
著 ),妹尾 作 太 男 (翻訳 ) 『よみがえる日本 海軍 〈下 〉―海上 自衛隊 の創設 ・現状 ・問題 点 』時事通信社 p.13-29 - ^
秦 郁 彦『官僚 の研究 不滅 のパワー・1868‐1983』261頁 - ^
秦 郁 彦『官僚 の研究 不滅 のパワー・1868‐1983』262頁
関連 項目
[外部 リンク
[政策 研究 大学院 大学 『戦後 政治 ・現代 政治 に関 するオーラルヒストリー』 - ウェイバックマシン(2007年 3月 11日 アーカイブ分 )高知新聞 特集 『GHQの時代 』防衛 産業 についての私見