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渡辺わたなべ茂夫しげお

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渡辺わたなべ 茂夫しげお(わたなべ しげお、1941ねん6月26にち - 1999ねん8がつ13にち)は少年しょうねん時代じだい戦後せんご復興ふっこう日本にっぽん活躍かつやくしたヴァイオリニスト。いわゆる伝説でんせつてき音楽おんがくてき神童しんどうのひとり。

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東京とうきょうまれ。音楽家おんがくか一家いっかまれ、茂夫しげお生母せいぼ鈴木すずき満枝みつえはヴァイオリニストだった。4さいより、母方ははかた叔父おじ渡辺わたなべ(1909〜2012)が経営けいえいする音楽おんがく教室きょうしつ渡辺わたなべヴァイオリン・スタジオ)でヴァイオリンまなはじめる。その翌年よくねん両親りょうしん離婚りこんにともない、そのまま渡辺わたなべ養子ようしとなった。

天才てんさい少年しょうねん誕生たんじょう

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1948ねん(7さい)にしば白金はっきん小学校しょうがっこう入学にゅうがくするが、はやくもこのとしに、巖本いわもと真理まりより音楽おんがくてき才能さいのう絶賛ぜっさんされ、12月に最初さいしょのリサイタルを、翌年よくねん以降いこう毎年まいとし1かい定例ていれいコンサートをおこなう。また、1949ねんにはヴァイオリンを少年しょうねんやくとして映画えいが異国いこくおか」に出演しゅつえんしている。はやくも創作そうさくめんにも関心かんしんしめし、音楽おんがく理論りろんいしけたれいせい師事しじしながら作曲さっきょく活動かつどう詩作しさくにも着手ちゃくしゅし、小学校しょうがっこう最終さいしゅう年次ねんじヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくオペラヴァイオリン・ソナタ作曲さっきょく[1]。その作品さくひんクラウス・プリングスハイムによってたか評価ひょうかされた。

渡米とべい

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1954ねん(13さい)に暁星ぎょうせい中学校ちゅうがっこう進学しんがく同年どうねんイギリスめい指揮しきしゃマルコム・サージェント指揮しきにより、東京とうきょう交響こうきょう楽団がくだんチャイコフスキー協奏曲きょうそうきょく演奏えんそう来日らいにちしたダヴィッド・オイストラフたずねて演奏えんそうおこなう。5月、渡辺わたなべ彦の奔走ほんそうにより、帝国ていこくホテルにおいて、来日らいにちちゅうヤッシャ・ハイフェッツ面会めんかいし、演奏えんそう披露ひろう、ハイフェッツにふか感銘かんめいあたえ「ひゃくねん一人ひとり天才てんさい[よう検証けんしょう]」とひょうされる[1]6がつにハイフェッツからの招待しょうたいて、両親りょうしんうながされて渡米とべいまる。1955ねん3月、ジュリアード音楽おんがくいん院長いんちょうより、「ハイフェッツ熱心ねっしん推薦すいせんにより」無試験むしけん入学にゅうがく許可きょかされる。かく方面ほうめん支援しえんしゃ(アメリカ軍属ぐんぞく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、その個人こじん)から経済けいざいてき援助えんじょけ、期限きげんは2年間ねんかん演奏えんそう旅行りょこうにはさないとの条件じょうけんにより、7がつ飛行機ひこうき渡米とべい

かがやかしい未来みらい

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(14さいカリフォルニアしゅう語学ごがく研修けんしゅうけるかたわら、奨学しょうがくきん地元じもと夏季かき音楽おんがく講習こうしゅうかいにも参加さんかする。はやくも天才てんさいぶりとしなのよい物腰ものごしから脚光きゃっこうび、とりわけハンガリーじんピアニストのジェルジ・シャンドールをかけられた。8がつまつにはモーリス・アブラヴァネル指揮しきベートーヴェン協奏曲きょうそうきょく演奏えんそうして、サンタバーバラ地元じもと絶賛ぜっさんされる。講習こうしゅうかい告別こくべつ演奏えんそうかいにも出席しゅっせきして、自作じさくのヴァイオリン・ソナタを披露ひろうする。9月にニューヨーク到着とうちゃくし、ジュリアード音楽おんがくいんペルシャ出身しゅっしんのヴァイオリニストイワン・ガラミアン(アイヴァン・ガラミアン)に師事しじすることが決定けってい日系にっけいじん家庭かていにホームステイをはじめるが、のちにガラミアンたく同居どうきょする。

最後さいご栄光えいこう

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1956ねん(15さい)からニューリンカーンのハイスクールに通学つうがく。このころから日本にっぽんへの連絡れんらく途絶とだえがちになる(一説いっせつには、日本にっぽん日本語にほんごたいする嫌悪けんおかんがあらわれたとわれる)。職業しょくぎょう音楽家おんがくかあつめたプライベートの演奏えんそうかいにおいて、ハイフェッツの伴奏ばんそうしゃとしてられるエマヌエル・ベイのピアノにより、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャエフスキの≪協奏曲きょうそうきょく だい1ばん≫を演奏えんそう出席しゅっせきしゃには、レナード・バーンスタインピアティゴルスキーレナード・ローズらのかおぶれがあり、ハイフェッツのおりの指揮しきしゃアルフレッド・ウォーレンスタインからは、世界一せかいいち演奏えんそうになるとのお墨付すみつきをた。しん学期がっきの9がつには、ジュリアード音楽おんがくいん史上しじょう最年少さいねんしょう奨学生しょうがくせいえらばれ、さらに半額はんがく規定きていされていた奨学しょうがくきん全額ぜんがく支給しきゅうされる。あきにガラミアン教授きょうじゅたくて、ホームステイさき変更へんこう。すでにガラミアンとそりがわなくなっていた。

青春せいしゅんわり・悲劇ひげき幕切まくぎ

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1957ねん2がつ情緒じょうちょ不安定ふあんていうった精神せいしん通院つういんはるにふたたびホームステイさき変更へんこうする。4月より助手じょしゅとしてジュリアード音楽おんがくいんのこり、研究けんきゅうのかたわら治療ちりょうつづける。なつのヴァカンスでカリフォルニアしゅうき、恩人おんじんハイフェッツをたずね、激賞げきしょうされた。9月にジュリアード音楽おんがくいんさい入学にゅうがくするが、とぼしい報酬ほうしゅうこころもとない支援しえんきんにより耐久たいきゅう生活せいかつ余儀よぎなくされており、劣悪れつあく住環境じゅうかんきょうしかつからなかった(身元みもと引受ひきうけさきジャパン・ソサエティーによる配給はいきゅうがく適切てきせつでなかったためとされる)。

異国いこく人間にんげんぎらいと疎外そがいかんがつのるようになり、自殺じさつ願望がんぼうをほのめかすようにもなると、両親りょうしん茂夫しげお急変きゅうへん察知さっち。ジャパン・ソサエティに緊急きんきゅう帰国きこく要請ようせいするも、どう協会きょうかい茂夫しげお治療ちりょう優先ゆうせん方針ほうしんくずさなかった。ついに11月2にち茂夫しげお未成年みせいねん購入こうにゅう禁止きんしとされているはずの睡眠薬すいみんやく大量たいりょう服用ふくようする。11月5にち日本にっぽん家族かぞく危篤きとくげる電報でんぽうとどいた。一命いちめいはとりとめたものの、不幸ふこうにものう障害しょうがいのこり、回復かいふくする見込みこみはなかった。翌年よくねん1がつ家族かぞく要請ようせいにより日本にっぽん送還そうかんされ、そのよんじゅうねん以上いじょうわたって在宅ざいたく療養りょうようつづけた。

さい評価ひょうか

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1988ねんちち彦の門下生もんかせいなど関係かんけいしゃ尽力じんりょくによって、かつての茂夫しげお演奏えんそう肉声にくせい収録しゅうろくしたCD3まいぐみ自主じしゅ制作せいさく頒布はんぷされた。そして1996ねん前述ぜんじゅつのCDを2まいぐみにまとめた「神童しんどう <まぼろしのヴァイオリニスト>」が東芝とうしばEMIから発売はつばいされた。これがおおきな反響はんきょうび、「おどろきももの20世紀せいき」など複数ふくすうのドキュメンタリー番組ばんぐみ制作せいさくされ、その悲劇ひげきてき人生じんせいと(放送ほうそう当時とうじの)なか植物しょくぶつ状態じょうたい姿すがた紹介しょうかいされた。同年どうねんにはCDだいだん発売はつばいされている。

1999ねん8がつ13にち急性きゅうせい呼吸こきゅう不全ふぜんにより58さい永眠えいみんした。死後しご茂夫しげお関係かんけいするCDがいくつか発売はつばいされている。

2009ねん茂夫しげお遺品いひんバイオリン2ちょう楽譜がくふなどやく300てん日本にっぽん近代きんだい音楽おんがくかんちち彦から寄贈きぞうされた[1]

演奏えんそう特徴とくちょう

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茂夫しげお演奏えんそうは、ガラミアンにつくまえにすでにある程度ていど完成かんせいいきはいっていた、と養父ようふ彦はいう。アウアー奏法そうほう基本きほんとして技術ぎじゅつてきにもすぐれたざいしめしていたにもかかわらず、ガラミアンがそれに理解りかいしめさず、独自どくじきびしい指導しどうでもって自身じしん奏法そうほう転換てんかんさせようとした重圧じゅうあつ茂夫しげおくるしみつづけたといえる。 茂夫しげお養父ようふ渡辺わたなべ (1909ねん - 2012ねん6がつ10日とおか[2]) はヴァイオリン教師きょうしであり、門下生もんかせいおおくが国内こくない各地かくち海外かいがいで、ソリストや楽団がくだんいんとして活動かつどうしている。ちかごろ話題わだいんだ「もうひとりの渡辺わたなべ茂夫しげお」こと栗原くりはら幸信ゆきのぶ少年しょうねんも、渡辺わたなべ彦の門下生もんかせいである。渡辺わたなべ彦は、カール・フレッシュ理論りろんしょレオポルト・アウアー著作ちょさくをひもきながら、独自どくじのメソッドをしており、小野おのアンナ同様どうよう早期そうき教育きょういく重要じゅうようせいいていた。

ディスコグラフィ

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渡辺わたなべ茂夫しげお演奏えんそうは2きょくの「ヴァイオリン協奏曲きょうそうきょく長調ちょうちょう op.35」のみ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 「『ひゃくねん一人ひとり』バイオリニスト・渡辺わたなべ茂夫しげおさん:悲劇ひげき神童しんどう永遠えいえんに」『毎日新聞まいにちしんぶん』、2009ねん12月16にち、13はん、27めん
  2. ^ 訃報ふほう:渡辺わたなべ彦さん103さい=バイオリン教師きょうし 毎日新聞まいにちしんぶん 2012ねん6がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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