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えきとみじょう

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えきとみ城址じょうしから転送てんそう
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えきとみじょう
福岡ふくおかけん
別名べつめい 大隈おおくましろ
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい
築城ちくじょうぬし 大内おおうち盛見もりみ
築城ちくじょうねん えいとおる年期ねんき1429ねん - 1441ねん
おも改修かいしゅうしゃ 秋月あきづき種実たねざね改築かいちく)、後藤ごとう基次もとつぐ改築かいちく
おも城主じょうしゅ 大内おおうちすぎ忠重ただしげ秋月あきづき早川はやかわ長政ながまさ後藤ごとう基次もとつぐ母里もり友信とものぶ
はいじょうねん 元和がんわ元年がんねん1615ねん
遺構いこう 搦手からめてもん移築いちく)、石垣いしがきほり曲輪くるわ
指定してい文化財ぶんかざい なし
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えきとみじょう(ますとみじょう)は、福岡ふくおかけんよしみ中益なかますにあった日本にっぽんしろ

歴史れきし

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えいとおる年代ねんだい九州きゅうしゅう征伐せいばつさい大内おおうち盛見もりみ築城ちくじょうしたといわれている。その日田ひた街道かいどう長崎ながさき街道かいどうむすまち交通こうつう要衝ようしょうである大隈おおくま築城ちくじょうされたとうしろ争奪そうだつせんまととなり、えいろく1560ねんころ)には毛利もうり元就もとなり領有りょうゆうし、しろばんすぎ忠重ただしげいた。戦国せんごく時代じだい末期まっきには、古処山こしょさんじょう本拠ほんきょとする秋月あきづきささえじょうひとつとなった。

安土あづち桃山ももやま時代じだい豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる九州きゅうしゅうやく天正てんしょう14ねん1586ねん)- 天正てんしょう15ねん1587ねん))で秋月あきづきやぶれたのち早川はやかわ長政ながまさしろばんとなったが、早川はやかわ関ヶ原せきがはらたたか西にしぐんについたため、領地りょうちげられた。その関ヶ原せきがはらたたかいの功績こうせきにより筑前ちくぜんこくいちこくあたえられた黒田くろだ筑前ちくぜんろくはしじょう(ちくぜんろくはじろ)のひとつとして位置いちづけ、家臣かしん居城きょじょうさせた。一時いちじ後藤ごとう基次もとつぐ城主じょうしゅつとめたが、慶長けいちょう11ねん1606ねん)に基次もとつぐ出奔しゅっぽんしたのちろくはしじょうひとつであった筑前ちくぜんこく鷹取たかとりじょうより母里もりたい兵衛ひょうえうつされたが、 元和がんわ元年がんねん1615ねん)に発布はっぷされた一国一城いっこくいちじょうれいにより、ろくはしじょうとともにはいじょうとされた。

エピソード

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豊臣とよとみぐん九州きゅうしゅう征伐せいばつ秋月あきづきまも岩石がんせきじょうをわずか1にち陥落かんらくさせたことにより、秋月あきづきとうしろやぶ却して本拠ほんきょ古処山こしょさんじょう退却たいきゃくした。が、翌日よくじつよる古処山こしょさんじょうから見下みおろした大隈おおくまうみであった。そのうえよるけるとえきとみじょう見事みごと修復しゅうふくされていた(一夜いちやしろともいう。岐阜ぎふけん美濃みのめの一夜いちやしろとはちがう)。実際じっさいうみにもなっておらず、村人むらびと一斉いっせい篝火かがりびかせたものであり、しろ村人むらびと障子しょうじなどをったものであった。さらに、えきとみじょう十分じゅうぶんみずまっているようにせかけるために白米はくまいたきごとながさせたというはなしのこっている。(ながしたあとのこっている)

これにだまされた秋月あきづき戦意せんい喪失そうしつし、降伏ごうぶくした。なお、この作戦さくせん協力きょうりょくした村人むらびと豊臣とよとみ秀吉ひでよし陣羽織じんばおりあたえ、永世えいせいみつぎぜい免除めんじょした。(はなぶんとげぬい陣羽織じんばおり昭和しょうわ35ねん1960ねん)にくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい上町うえまち五日町いつかまち三日みっかまち所有しょゆう保管ほかんよしみ嘉穂かほ庁舎ちょうしゃ

関連かんれん項目こうもく

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