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直江なおえ景綱かげつな

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直江なおえ 景綱かげつな
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいただし6ねん1509ねん)?
死没しぼつ 天正てんしょう5ねん3月5にち1577ねん3月24にち
改名かいめい じつつな政綱せいこう景綱かげつな
別名べつめい 仮名かめいかみ五郎ごろう
ごうさけ椿つばきひとし?[1]
与兵衛よへえじょう
戒名かいみょう かただけどうかん
墓所はかしょ とくあきらてら新潟にいがたけん長岡ながおか与板よいたまち
官位かんい 大和やまとまもる
主君しゅくん 長尾ながお為景ためかげ長尾ながおはるけい上杉うえすぎ謙信けんしん
氏族しぞく 直江なおえ
父母ちちはは ちち直江なおえちかしつなはは不明ふめい
兄弟きょうだい 景綱かげつなじゅうつな篠井しのい正信まさのぶ
つま 正室せいしつ北条ほうじょう輔広むすめ 継室けいしつせいこくあま山吉やまよし政久まさひさむすめ山吉やまよしまさしおういもうと
継室けいしつ山吉やまよしまさしおうむすめ山吉やまよしゆたかもりあね
伊勢松いせまつ男子だんし女子じょし[2]ふね直江なおえ信綱のぶつなしつ直江なおえけんつづけしつ
養子ようし信綱のぶつなけんつづけ
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直江なおえ 景綱かげつな(なおえ かげつな)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう越後えちごこく守護しゅごだい戦国せんごく大名だいみょう長尾ながお上杉うえすぎ)の家臣かしん山東さんとうぐん三島みしまぐん与板よいたしろ城主じょうしゅ長尾ながお為景ためかげはれけい景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)の3だいにわたってつかえた宿老しゅくろうで、奉行ぶぎょうしょくつとぬし内政ないせい外交がいこうめん活躍かつやくした。またななぐみ大将たいしょう一人ひとりとして軍事ぐんじめん活躍かつやくすることもあった。

生涯しょうがい

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直江なおえちかしつなとしてまれる(生年せいねんえいただし6ねん1509ねん)か)。直江なおえもと越後えちご守護しゅご上杉うえすぎ家臣かしん飯沼いいぬま被官ひかんであったが、えいただし11ねん1514ねん)、守護しゅごだい長尾ながお為景ためかげによって飯沼いいぬまほろぼされると、その居城きょじょう本与板もとよいたじょうのち与板よいたしろ)の城主じょうしゅとなっていた。

仮名かめいかみ五郎ごろうはつじつつな名乗なのった。

天文てんもん8ねん1539ねん)からの守護しゅご上杉うえすぎ定実さだざね養子ようし問題もんだいめぐ天文てんもんらんでは、中条ちゅうじょうふじ平子ひらこらとともにゅう推進すいしん形成けいせいした。

養子ようし問題もんだいかんしては、直江なおえ長尾ながお立場たちば相反あいはんし、直江なおえ長尾ながおとは一線いっせんかくしてたものとおもわれる[3]

天文てんもん11ねん1542ねん)には伊達だて時宗じしゅうまる伊達だてみのるもと)のむかえの使者ししゃにあたっている。

天文てんもん12ねん(1543ねん)、長尾ながお景虎かげとらは、病弱びょうじゃくあにはれけい名代なだいとして栃尾とちおしろ長岡ながおかきゅう栃尾とちおいき)にはいった

天文てんもん15ねん(1546ねん)、景虎かげとらあにはれけい反抗はんこうしていた黒田くろだ一族いちぞく黒滝くろたきじょう弥彦やひこむら)にめた。この事件じけん契機けいきとして、病弱びょうじゃくはれけいわり景虎かげとら守護しゅごだい擁立ようりつしようとするうごきがてきた。このうごきをすすめた一人ひとりが、与板よいた直江なおえ景綱かげつなであった。景綱かげつな景虎かげとらとの関係かんけいは、景虎かげとら栃尾とちお周辺しゅうへん活躍かつやくしていたころきずかれたものとおもわれる[3]

天文てんもん16ねん1547ねん)、長尾ながおちゅうあにはれけいおとうと景虎かげとらとのあいだこうそうこったさいには、ふじ本庄ほんじょうみのるらととも景虎かげとら支援しえんした。

弘治こうじ2ねん1556ねん)、景虎かげとら出家しゅっけ騒動そうどうちゅうふじらが守護しゅご譜代ふだい大熊おおくまちょうしゅう追放ついほうしたのをに、じつ乃らととも奉行ぶぎょうしょくとして政務せいむおおくをまかされるようになる。えいろく2ねん1559ねん)の景虎かげとら2度目どめ上洛じょうらくさいには、神余かなまりおやつなとも朝廷ちょうていおよび幕府ばくふとの折衝せっしょうにあたり、よく3ねん1560ねん)、まえ関白かんぱく近衛このえぜんひさ当時とうじ前嗣さきつぐ)が越後えちご来訪らいほうしたときにはその饗応きょうおうやくつとめた。また同年どうねんからの相模さがみこく北条ほうじょう氏康うじやす討伐とうばつのために景虎かげとら関東かんとう出陣しゅつじんしているあいだ春日かすが山城やましろ留守居るすい吉江よしえけいともまかされている。えいろく4ねん1561ねん)、川中島かわなかじまたたかだいよん合戦かっせん)では、小荷駄こにだ奉行ぶぎょうとして出陣しゅつじん武田たけだ義信よしのぶぐん敗走はいそうさせるなどのこうてたという。えいろく5ねん1562ねん)、大和やまとまもる任官にんかんし、「政綱せいこう」と改名かいめいする。えいろく7ねん1564ねん)、謙信けんしんのかつてのいみなである「けいとら」からいち拝領はいりょうして「景綱かげつな」と名乗なのることになった。

天正てんしょう3ねん1575ねん)の「上杉うえすぎ軍役ぐんえきちょう」によると305にん軍役ぐんえきせられていたとあり、旗本はたもとしゅうなかでもとりわけおもきをしていたことがわかる。以後いごも、天正てんしょう4ねん1576ねん)からの能登のと遠征えんせいしたが石動山せきどうさんじょう石川いしかわけんちゅう能登のとまち)をまもるなど、謙信けんしんしたがって各地かくち従軍じゅうぐんしたが、天正てんしょう5ねん1577ねん)3がつ5にち病没びょうぼつした。享年きょうねんは69といわれている。墓所はかしょとくあきらてら新潟にいがたけん長岡ながおか与板よいたまち)。

景綱かげつなには男子だんしがなく、婿養子むこようしとなっていた直江なおえ信綱のぶつな長尾ながお出身しゅっしん)がこういだ。のち信綱のぶつな毛利もうり秀広ひでひろ殺害さつがいされると、大身たいしん直江すぐえさえようとした上杉うえすぎ景勝かげかついのちで、景勝けいしょう側近そっきん樋口ひぐちけんつづけ直江なおえけんつづけ)が信綱のぶつな未亡人みぼうじんめとり、直江なおえ相続そうぞくした。

系譜けいふ

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直江なおえかみ一族いちぞくあるいは藤原ふじわら麻呂まろ後裔こうえいともいわれるが、系譜けいふかんしては不明瞭ふめいりょう部分ぶぶんおおい。史料しりょう確認かくにんできるのは景綱かげつなちちしんつなからである。

  • 正室せいしつ北条ほうじょう輔広大澤おおさわ)のむすめなま没年ぼつねんしょう
    長男ちょうなん伊勢松いせまつなま没年ぼつねんしょう
  • 継室けいしつせいこくあま山吉やまよし政久まさひさむすめ山吉やまよしまさしおういもうと生年せいねんしょう - もとかめ元年がんねん4がつ20日はつか1570ねん6月3にち))
    実子じっしがなく、巨躯きょく悪相あくそうであったために景綱かげつなからはとおざけられていたという。景綱かげつなめいあいだ男子だんし誕生たんじょうするとそのうばい、めい正室せいしつゆずって剃髪ていはつ隠居いんきょしたという(「山吉やまよし伝記でんきうつし」)。
  • 継室けいしつ しょう山吉やまよしまさしおうむすめ山吉やまよしゆたかもりあねなま没年ぼつねんしょう
    せいこくあまめいで、せいこくあま隠居いんきょ正室せいしつとなる。景綱かげつな死後しご上杉うえすぎ謙信けんしん近侍きんじし、謙信けんしん臨終りんじゅうさいには上杉うえすぎ景勝かげかつ継嗣けいしとするなどの遺言ゆいごんをききとどけたという。
    • 男子だんしなま没年ぼつねんしょう
      次男じなん誕生たんじょうあいだもなくせいこくあまによってられてしまったという。(「山吉やまよし伝記でんきうつし」)
    • ふね弘治こうじ3ねん1557ねん) - 寛永かんえい14ねん1がつ4にち1637ねん1がつ29にち))
      おんな景綱かげつなには家督かとく男子だんしがなく、景綱かげつな存命ぞんめいちゅう総社そうじゃ長尾ながおからふじ九郎くろう信綱のぶつな)を婿むこむかえる。のち信綱のぶつな殺害さつがいされると、景勝けいしょう命令めいれい樋口ひぐちけんつづけ再婚さいこんさせられた。
    • 幼女ようじょ養女ようじょ?)
      景綱かげつな後妻ごさい三条さんじょう山吉やまよしからむかえられ、子供こどもむすめおせんいちにんのみであったようで、幼女ようじょ養女ようじょ?)がいたことが「こころざし系図けいず」によりうかがうことができる。夏戸なつどじょう寺泊てらどまりまち)のこころざし義秀よしひで結婚けっこんする。[3]
  • ははしょう
    • 女子じょし?(なま没年ぼつねんしょう[2]
  • 養子ようし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 直江すぐえ由緒ゆいしょ』ではさけ椿つばきとき景綱かげつなちちとし、『御家おいえちゅうしょりゃく系譜けいふ』では景綱かげつな本人ほんにんとするが、どう時代じだい史料しりょう景綱かげつなさけ椿つばきしょうしたれいはないため、今日きょう研究けんきゅうしゃ景綱かげつなごうとはていない(前島まえじまさとし直江なおえみのるつなさけ椿つばき長尾ながお景虎かげとら政権せいけん-『越後えちご過去かこ名簿めいぼ』の検討けんとう中心ちゅうしんに」『新潟にいがた史学しがく』60・2008)。さけ椿つばきさけむら景綱かげつな花押かおうについての検討けんとうからも、「直江なおえ系譜けいふ」などにられる入道にゅうどうしゅ椿つばきひとし景綱かげつな本人ほんにんとする記述きじゅつあやまりであることがかんがえられる。(木村きむら康裕やすひろ与板よいたまち通史つうしへん上巻じょうかん』P191-192 1999)
  2. ^ a b 越後えちご軍記ぐんき』(虚構きょこうせいつよ軍記ぐんきぶつ)などの江戸えど時代じだい以降いこう著作ちょさくでは、上杉うえすぎ謙信けんしん侍女じじょとしてえがかれている。そのため、謙信けんしん登場とうじょうするドラマとうでは「なみ」(『風林火山ふうりんかざん』)、「ゆう」(『天地人てんちじん』)、「ふえ」(『武神ぶしんかい津本つもと)などのがつけられているが、いずれも創作そうさくである。
  3. ^ a b c 与板よいたまち 通史つうしへん 上巻じょうかん』「戦国せんごくゆたか時代じだい与板よいた木村きむら康裕やすひろ 1999

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 三条さんじょう編集へんしゅう委員いいんかい三条さんじょう

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
漫画まんが

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
直江なおえちかしつな
直江なおえ当主とうしゅ
? - 1577
次代じだい
直江なおえ信綱のぶつな