『磔刑 たっけい 』(たっけい、伊 い : La Crocifissione , 英 えい : The Crucifixion )は、ルネサンス 期 き のイタリア のヴェネツィア派 は の巨匠 きょしょう ティントレット が1565年 ねん に制作 せいさく した絵画 かいが である。油彩 ゆさい 。『新約 しんやく 聖書 せいしょ 』の4つの福音 ふくいん 書 しょ で言及 げんきゅう されている十字架 じゅうじか 上 うえ でのイエス・キリスト の磔刑 たっけい を主題 しゅだい としている。高 たか さ536センチ、横 よこ 幅 はば 1224センチという、ティントレットの現存 げんそん する作品 さくひん の中 なか でも屈指 くっし の大 だい 画面 がめん を持 も ち、ゴルゴタの丘 おか で繰 く り広 ひろ げられる磔刑 たっけい の光景 こうけい が圧倒的 あっとうてき なスケールで描 えが かれている。ティントレットの最高 さいこう 傑作 けっさく であり、同 どう 主題 しゅだい を扱 あつか った西洋 せいよう 絵画 かいが の中 なか で最高 さいこう の表現 ひょうげん の1つであると同時 どうじ に[1] 、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ の『聖母 せいぼ 被 ひ 昇天 しょうてん 』(L'Assunta )に次 つ いで、ルネサンス期 き のヴェネツィア派 は 絵画 かいが の最高 さいこう 傑作 けっさく の1つとなっている[2] 。ヴェネツィア のサン・ロッコ大同 だいどう 信 しん 会 かい のアルベルゴの間 あいだ (Sala dell'Albergo )のために制作 せいさく され、現在 げんざい も同 どう 同 どう 信 しん 会 かい に所蔵 しょぞう されている[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 。また各地 かくち の美術館 びじゅつかん に本 ほん 作品 さくひん の準備 じゅんび 素描 そびょう が所蔵 しょぞう されているほか[2] [4] 、異 こと なるバージョンがヴェネツィアのアカデミア美術館 びじゅつかん に所蔵 しょぞう されている[6] [8] 。
イエス・キリストが十字架 じゅうじか 上 じょう で磔刑 たっけい に処 しょ されたことは「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 、「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 、「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 、「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」19章 しょう で言及 げんきゅう されている[9] [10] [11] [12] 。
捕 とら えられたイエスが十字架 じゅうじか を背負 せお ってゴルゴタの丘 おか に引 ひ かれていく間 あいだ 、大 おお ぜいの民衆 みんしゅう と、嘆 なげ き悲 かな しむ女 おんな たちがイエスに従 したが って行 い った。イエスのほかに2人 ふたり の罪人 ざいにん も引 ひ かれていった[13] 。ゴルゴタの丘 おか に着 つ くと、朝 あさ の9時 じ 頃 ごろ [14] 、イエスと2人 ふたり の罪人 ざいにん は十字架 じゅうじか に架 か けられた。人々 ひとびと は籤 くじ を引 ひ いてイエスの衣服 いふく を分 わ け合 あ った[15] [16] [17] [18] 。イエスの上 うえ には「ユダヤ人 じん の王 おう 」と罪状 ざいじょう 書 が きが掛 か けてあった。祭司 さいし 長 ちょう たちはピラト にユダヤ人 じん の王 おう ではなく、王 おう と自称 じしょう したと書 か き直 なお すよう求 もと めたが、ピラトは変更 へんこう しなかった[19] 。イエスの十字架 じゅうじか のそばには、聖母 せいぼ マリア と姉妹 しまい のエリサベト 、クロパの妻 つま マリア 、マグダラのマリア がたたずんでいた[20] 。役人 やくにん や兵士 へいし は嘲笑 ちょうしょう して言 い った。「本当 ほんとう に神 かみ の子 こ キリスト、選 えら ばれた者 もの 、あるいはユダヤ人 じん の王 おう であるなら、自分 じぶん 自身 じしん を救 すく うがいい」[21] 。祭司 さいし 長 ちょう たちも律 りつ 法学 ほうがく 者 しゃ や長老 ちょうろう たちと一緒 いっしょ になって同 おな じように嘲弄 ちょうろう した[22] 。しまいには、イエスの左右 さゆう で十字架 じゅうじか に架 か けられた罪人 ざいにん の1人 ひとり が同 おな じように悪口 わるぐち を言 い い続 つづ けた。もう1人 ひとり の罪人 ざいにん はそれをたしなめて「お前 まえ は同 おな じ刑 けい を受 う けていながら神 かみ を恐 おそ れないのか。罪 つみ の報 むく いを受 う けているのだからこうなったのは当然 とうぜん だが、この人 ひと は何 なに も悪 わる いことをしていない」と言 い い、さらにイエスに「あなたが御国 みくに の権威 けんい をもっておいでになるときは、わたしを思 おも い出 だ してください」と言 い った。イエスは応 こた えて言 い った、「よく言 い っておくが、あなたは今日 きょう 、わたしと一緒 いっしょ に天国 てんごく にいるであろう」[23] 。そのとき昼 ひる の12時 じ 頃 ごろ であったが、太陽 たいよう は光 ひかり を失 うしな って全 ぜん 地 ち は暗 くら くなり、それが3時 じ 頃 ごろ まで続 つづ いた[24] [25] [26] 。兵士 へいし は海綿 かいめん に酸 す っぱい葡萄酒 ぶどうしゅ を含 ふく ませて、棒 ぼう の先端 せんたん につけ、イエスの口元 くちもと に差 さ し出 だ して飲 の ませようとした[27] [28] [29] 。そのとき、イエスは声 こえ 高 たか く「父 ちち よ、わたしの霊 れい を御 ご 手 て にゆだねます!」と叫 さけ び、ついに息 いき を引 ひ きとった。すると聖 ひじり 所 しょ の幕 まく は真 ま っ二 ぷた つに裂 さ け[30] [31] [32] 、さらに地震 じしん が起 お きて岩 いわ が裂 さ けた。また墓 はか が開 ひら いて多 おお くの聖徒 せいと たちの遺体 いたい が生 い き返 かえ った[33] 。百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう はこの光景 こうけい を見 み て「本当 ほんとう に、この人 ひと は正 ただ しい人 ひと であった」と言 い った[34] [35] 。
アルベルゴの間 あいだ に設置 せっち された絵画 かいが 。
本 ほん 作品 さくひん は聖 せい ロクス を守護 しゅご 聖人 せいじん とするサン・ロッコ大同 だいどう 信 しん 会 かい および付属 ふぞく のサン・ロッコ教会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) の装飾 そうしょく 事業 じぎょう でもかなり初期 しょき の1565年 ねん に制作 せいさく された。その前年 ぜんねん の1564年 ねん 、サン・ロッコ同 どう 信 しん 会 かい は新 あたら しく完成 かんせい した同 どう 信 しん 会館 かいかん のアルベルゴの間 あいだ の天井 てんじょう 画 が を発注 はっちゅう する画家 がか を選考 せんこう するためのコンテストを開 ひら いた[5] 。アルベルゴの間 あいだ は同 どう 信 しん 会 かい を運営 うんえい する高位 こうい のメンバーが集 あつ まる広間 ひろま であり、重要 じゅうよう 文書 ぶんしょ や財産 ざいさん 、聖 せい 遺物 いぶつ などの貴重 きちょう 品 ひん を収 おさ めた重要 じゅうよう な場所 ばしょ であった[5] 。そのため同 どう 信 しん 会 かい は装飾 そうしょく 事業 じぎょう に着手 ちゃくしゅ する最初 さいしょ の場所 ばしょ として、アルベルゴの間 あいだ を選択 せんたく した。このコンテストには、ジュゼッペ・ポルタ (英語 えいご 版 ばん ) 、フェデリコ・ツッカリ 、パオロ・ヴェロネーゼ といった画家 がか が参加 さんか したが、ティントレットは審査 しんさ 前日 ぜんじつ に寄贈 きぞう と称 しょう して『聖 せい ロクスの栄光 えいこう 』(Gloria di san Rocco )を持 も ちこんだ。この行動 こうどう は同 どう 信 しん 会 かい の反発 はんぱつ を招 まね いたが、テントレットは最終 さいしゅう 的 てき に他 た の参加 さんか 者 しゃ たちに勝利 しょうり し、天井 てんじょう 画 が の装飾 そうしょく 全体 ぜんたい を1564年 ねん の夏 なつ から秋 あき にかけて無 む 報酬 ほうしゅう で制作 せいさく した[5] 。その後 ご 、アルベルゴの間 あいだ の壁面 へきめん 装飾 そうしょく を1565年 ねん から1567年 ねん にかけて行 おこな い、正面 しょうめん の壁 かべ 全体 ぜんたい を飾 かざ る大 だい キャンバス画 が として本 ほん 作品 さくひん が制作 せいさく された[3] 。ヴェネツィアの同 どう 信 しん 会 かい では、アルベルゴの間 あいだ の装飾 そうしょく は守護 しゅご 聖人 せいじん の生涯 しょうがい のエピソードが描 えが かれる傾向 けいこう にあったが、サン・ロッコ大同 だいどう 信 しん 会館 かいかん ではサン・ロッコ教会 きょうかい の装飾 そうしょく で聖 せい ロクスの生涯 しょうがい が絵画 かいが の主題 しゅだい となっていたため、慣例 かんれい 的 てき な主題 しゅだい を選択 せんたく する必要 ひつよう はなかった。そこでキリストの受難 じゅなん がアルベルゴの間 あいだ の壁面 へきめん を飾 かざ る連作 れんさく の主題 しゅだい として選 えら ばれた[5] 。最初 さいしょ の大作 たいさく 『磔刑 たっけい 』が制作 せいさく されたのち、『カルヴァリオへの道 みち 』(La Salita al Calvario )、『この人 ひと を見 み よ』(L'Ecce Homo )、『ピラトの前 まえ のキリスト』(Cristo davanti a Pilato )が制作 せいさく された。ティントレットはこれ以降 いこう から1587年 ねん まで同 どう 信 しん 会 かい の装飾 そうしょく に携 たずさ わり、イエス・キリストや聖母 せいぼ マリア の生涯 しょうがい 、『旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 』などを主題 しゅだい に総数 そうすう 68点 てん におよぶ作品 さくひん を制作 せいさく した[3] 。
ティントレットはゴルゴタの丘 おか の頂上 ちょうじょう で繰 く り広 ひろ げられる磔刑 たっけい の全 すべ ての情景 じょうけい をパノラマとして描 えが いている。画面 がめん の圧倒的 あっとうてき なスケールは画面 がめん の巨 きょ 大 たい さだけに由来 ゆらい するのではなく、悲劇 ひげき の情感 じょうかん を盛 も り上 あ げ、劇的 げきてき 雰囲気 ふんいき を見事 みごと に創 つく り出 だ したティントレットの構想 こうそう によってもたらされている[4] 。
十字架 じゅうじか を立 た てるためロープを引 ひ っ張 ぱ る人物 じんぶつ 。
画家 がか の自画像 じがぞう とされる沈思 ちんし 黙考 もっこう する人物 じんぶつ 。
人々 ひとびと は群像 ぐんぞう として見事 みごと に表現 ひょうげん され、それぞれが自 みずか らの役割 やくわり や行動 こうどう に没頭 ぼっとう している。しかし画面 がめん 全体 ぜんたい が活発 かっぱつ な動 うご きに満 み ちている中 なか で、画面 がめん 中央 ちゅうおう のキリストの周囲 しゅうい だけは苦悶 くもん と悲嘆 ひたん による静寂 しじま の空気 くうき に包 つつ まれている[4] 。空 そら が暗闇 くらやみ に包 つつ まれる中 なか 、キリストは輝 かがや きを放 はな っている。その下 もと では、人夫 にんぷ が十字架 じゅうじか に掛 か けられた梯子 はしご の上 うえ で片足 かたあし 立 だ ちをしながら身体 しんたい を下 した に曲 ま げ、別 べつ の人夫 にんぷ が持 も っている葡萄酒 ぶどうしゅ の入 はい った容器 ようき に海綿 かいめん を浸 ひた して、キリストに飲 の ませようとしている。十字架 じゅうじか の根元 ねもと では女 おんな たちが悲嘆 ひたん に暮 く れており、聖母 せいぼ マリアは気絶 きぜつ し、何人 なんにん かの女 おんな たちは十字架 じゅうじか 上 じょう を見上 みあ げている。
福音 ふくいん 書 しょ によるとキリストとともに2人 ふたり の罪人 ざいにん が磔刑 たっけい に処 しょ されたと語 かた られているが、彼 かれ らはいまだ磔刑 たっけい の準備 じゅんび が整 ととの っておらず、キリストの両側 りょうがわ に立 た てるべく準備 じゅんび が進 すす められている。画面 がめん 右 みぎ の後景 こうけい では、罪人 ざいにん の1人 ひとり が地面 じめん に置 お かれた十字架 じゅうじか の上 うえ に横 よこ たえられ、馬上 もうえ の男 おとこ を含 ふく む数 すう 人 にん がかりで十字架 じゅうじか に縛 しば りつけられている[4] 。
一方 いっぽう の画面 がめん 左 ひだり では、もう1人 ひとり の罪人 ざいにん はすでに十字架 じゅうじか に縛 しば り終 お え、十字架 じゅうじか を立 た てる作業 さぎょう が進行 しんこう している。作業 さぎょう する人夫 にんぷ のうち数 すう 人 にん は十字架 じゅうじか の根元 ねもと を支 ささ えながら持 も ち上 あ げようとしており、別 べつ の人夫 にんぷ たちは一段 いちだん 高 たか い場所 ばしょ で十字架 じゅうじか を持 も ち上 あ げようとしている。さらに画面 がめん 左端 ひだりはし の前景 ぜんけい では別 べつ の人夫 にんぷ が十字架 じゅうじか の水平 すいへい 部分 ぶぶん に結 むす びつけられたロープで引 ひ っ張 ぱ り上 あ げようとしている。これらの作業 さぎょう により、罪人 ざいにん を縛 しば る十字架 じゅうじか は地面 じめん から浮 う き上 あ がり、今 いま まさにキリストの右 みぎ 隣 となり に立 た てられようとしている[4] 。
画面 がめん 右 みぎ の人物 じんぶつ 群 ぐん に紛 まぎ れて、前 まえ かがみになって沈黙 ちんもく している青 あお い衣 ころも を着 き た黒 くろ い髭 ひげ の男 おとこ はティントレットの自画像 じがぞう と考 かんが えられている[36] 。また画面 がめん 左端 ひだりはし の白馬 はくば に騎乗 きじょう したローマ の百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう は、絵画 かいが を委託 いたく した同 どう 信 しん 会 かい の最高 さいこう 幹部 かんぶ ジローラモ・ロタ(Girolamo Rota )の肖像 しょうぞう 画 が と考 かんが えられている[2] 。
1565年 ねん 3月 がつ 9日 にち 、ティントレットは『磔刑 たっけい 』の最終 さいしゅう 支払 しはら いとして250ドゥカート を受 う け取 と り、同年 どうねん に画面 がめん 左下 ひだりした の奉納 ほうのう 碑文 ひぶん に署名 しょめい した[2] [6] 。ラテン語 らてんご で記 しる された奉納 ほうのう 碑文 ひぶん は、この委託 いたく に際 さい してジローラモ・ロタが果 は たした重要 じゅうよう な役割 やくわり を強調 きょうちょう している。
1565
年 ねん 。その
年 とし に
素晴 すば らしいジローラモ・ロタと
兄弟 きょうだい 。ヤコポ・ティントレクトゥス
[2] 。
ティントレットが1554年 ねん にサン・セヴェロ教会 きょうかい のために制作 せいさく した『磔刑 たっけい 』。 アカデミア美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう 。
画面 がめん は中央 ちゅうおう に大 おお きくそびえる十字架 じゅうじか 上 じょう のキリストによって支配 しはい され、複雑 ふくざつ な構図 こうず の中心 ちゅうしん として機能 きのう している[5] 。多 おお くの群像 ぐんぞう の中 なか で画面 がめん 中央 ちゅうおう の磔刑 たっけい 図 ず だけが唯一 ゆいいつ の垂直 すいちょく 線 せん と水平 すいへい 線 せん で構成 こうせい されている。この中央 ちゅうおう の十字架 じゅうじか を基点 きてん に、2つの対角線 たいかくせん が交差 こうさ し、作業 さぎょう する人々 ひとびと の間 あいだ に統一 とういつ 感 かん をもたらしている[4] 。
ティントレットは10年 ねん 前 まえ の1554年 ねん にも、ヴェネツィアのサン・セヴェロ教会 きょうかい (Church of San Severo )の礼拝 れいはい 堂 どう のために同 どう 主題 しゅだい の絵画 かいが を制作 せいさく しており、劇的 げきてき かつ大胆 だいたん な表現 ひょうげん を用 もち いて制作 せいさく している。その迫力 はくりょく は本 ほん 作品 さくひん には及 およ ばないものの[4] 、ここで見 み られる要素 ようそ のいくつかは10年 ねん 後 ご の本 ほん 作品 さくひん の広大 こうだい な構図 こうず を整理 せいり するうえで確実 かくじつ に貢献 こうけん している。その影響 えいきょう は中央 ちゅうおう のキリスト、その下 した で悲嘆 ひたん する女性 じょせい たち、画面 がめん 右 みぎ 端 はし 下 か の賽子 さいころ でキリストの衣服 いふく の所有 しょゆう 者 しゃ を決 き めようとする兵士 へいし たち、画面 がめん 右 みぎ 端 はし の騎乗 きじょう した人物 じんぶつ 像 ぞう にはっきり窺 うかが える。しかし、以前 いぜん の作品 さくひん がやや混雑 こんざつ していたのに対 たい して、本 ほん 作品 さくひん はキリストを画面 がめん 上端 じょうたん に配置 はいち して構図 こうず の緒 いとぐち 要素 ようそ から距離 きょり を取 と り、前景 ぜんけい の異時同図 いじどうず 的 てき な多 おお くの物語 ものがたり 的 てき 要素 ようそ を空間 くうかん 的 てき な間隔 かんかく によって慎重 しんちょう に配置 はいち を決 き め、整理 せいり することで、構図 こうず の混乱 こんらん を緩和 かんわ することに成功 せいこう している[2] 。
ティントレットは構図 こうず のために何 なん 十 じゅう もの人物 じんぶつ 像 ぞう の習作 しゅうさく を制作 せいさく したと考 かんが えられている。いくつかの素描 そびょう が現存 げんそん しており、ロンドン のヴィクトリア&アルバート博物館 はくぶつかん には画面 がめん 右 みぎ の後景 こうけい の馬上 もうえ の人物 じんぶつ の素描 そびょう が[4] 、フィレンツェ のウフィツィ美術館 びじゅつかん には十字架 じゅうじか の根元 ねもと で悲嘆 ひたん している女性 じょせい の1人 ひとり が、ロッテルダム のボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館 びじゅつかん にはキリストの下 した で海綿 かいめん を葡萄酒 ぶどうしゅ に浸 ひた している人物 じんぶつ が素描 そびょう されている。これらのうち、ウフィツィ美術館 びじゅつかん の素描 そびょう では衣 ころも 文 ぶん とその下 もと のねじれた身体 しんたい の構造 こうぞう にも焦点 しょうてん を当 あ てている[2] 。
研究 けんきゅう 者 しゃ たちは、最後 さいご の審判 しんぱん において善人 ぜんにん と悪人 あくにん の魂 たましい がキリストの左右 さゆう に分 わ けられ、善人 ぜんにん の魂 たましい がキリストのいる天国 てんごく に入 はい り、悪人 あくにん の魂 たましい が地獄 じごく に送 おく られて永遠 えいえん の刑罰 けいばつ を受 う けるように、ティントレットがキリストを中心 ちゅうしん として画面 がめん を善人 ぜんにん のいる画面 がめん 左 ひだり と悪人 あくにん のいる画面 がめん 右 みぎ の2つの領域 りょういき に分 わ けたことを示唆 しさ している[2] 。この点 てん が明確 めいかく に表 あらわ れていると考 かんが えられるのは2人 ふたり の罪人 ざいにん である。画面 がめん 右 みぎ の邪悪 じゃあく な罪人 ざいにん がいまだ地面 じめん に横 よこ たわっているのに対 たい し、画面 がめん 左 ひだり の悔 く い改 あらた めた罪人 ざいにん はキリストのほうを見 み つめながら、十字架 じゅうじか とともに上昇 じょうしょう している[2] 。この表現 ひょうげん は「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」の一節 いっせつ 「今 いま はこの世 よ が裁 さば かれる時 とき である。今 いま こそこの世 よ の君 きみ は追 お い出 だ されるであろう。そして、わたしがこの地 ち から上 あ げられるとき、すべての人 ひと をわたしのもとに引 ひ き寄 よ せるであろう」[37] を思 おも い出 だ させる[2] 。
『磔刑 たっけい 』はすぐに賞賛 しょうさん された。エングレーヴィング も多 おお く制作 せいさく されたが、その最初 さいしょ のものは1582年 ねん に第 だい 3代 だい トスカーナ大公 たいこう フェルディナンド1世 せい ・デ・メディチ のためにアゴスティーノ・カラッチ によって制作 せいさく された。カルロ・リドルフィ によると、アゴスティーノ・カラッチがティントレットに制作 せいさく した版画 はんが を見 み せたとき、ティントレットはその出来栄 できば えに多 おお いに喜 よろこ び、アゴスティーノ・カラッチを賞賛 しょうさん した。その銅版 どうはん はその後 ご 、美術 びじゅつ 商 しょう のダニエル・ナイス (英語 えいご 版 ばん ) が入手 にゅうしゅ して、フランドル に持 も ち込 こ み、劣化 れっか を防 ふせ ぐために金 かね で鍍金 めっき したという[6] 。
ヴィクトリア朝 あさ の美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か ジョン・ラスキン は、本 ほん 作品 さくひん を見 み るといつもの雄弁 ゆうべん さを失 うしな い、ただ次 つぎ のように述 の べた。
私 わたし はこの
絵画 かいが が
鑑賞 かんしょう 者 しゃ に
働 はたら きかけるがままに
任 まか せなければならない。なぜなら、それはいかなる
分析 ぶんせき も、とりわけ
賞賛 しょうさん など
凌駕 りょうが しているからだ
[1] 。
またニューヨーク 出身 しゅっしん の作家 さっか ・小説 しょうせつ 家 か ヘンリー・ジェイムズ は次 つぎ のように述 の べた。
・・・いかなる
絵画 かいが といえども・・・
人 じん の
命 いのち について、これ
以上 いじょう を
内包 ないほう する
作品 さくひん はない
[4] 。
サン・ロッコ大同 だいどう 信 しん 会 かい の『磔刑 たっけい 』は、2023年 ねん から同 どう 信 しん 会館 かいかん のアルベルゴの間 あいだ でセーブ・ヴェネツィア (英語 えいご 版 ばん ) によって修復 しゅうふく が行 おこな われている[2] [38] 。ヴェネツィア保護 ほご 国際 こくさい 民間 みんかん 委員 いいん 会 かい 連盟 れんめい (The International Private Committees for the Safeguarding of Venice )は、すでに2018年 ねん にティントレットの生誕 せいたん 500年 ねん を記念 きねん して絵画 かいが 19点 てん と墓 はか の修復 しゅうふく を援助 えんじょ していた[38] 。2023年 ねん の最初 さいしょ の数 すう か月 げつ 間 あいだ は科学 かがく 技術 ぎじゅつ を用 もち いた画面 がめん の損傷 そんしょう 度合 どあい の調査 ちょうさ に充 あ てられ、その後 ご 、2023年 ねん 春 はる から汚 よご れ、古 ふる いワニス 、古 ふる い修復 しゅうふく による塗 ぬ り直 なお しなどの、オリジナル以外 いがい の部分 ぶぶん が慎重 しんちょう に除去 じょきょ されている。この修復 しゅうふく は2年間 ねんかん 行 おこな われる予定 よてい である[2] [6] [38] 。
画面 がめん 左側 ひだりがわ 。罪人 ざいにん を縛 しば りつけた十字架 じゅうじか が立 た てられようとしている。
画面 がめん 中央 ちゅうおう 。十字架 じゅうじか 上 じょう のイエス・キリスト。
画面 がめん 中央 ちゅうおう 下 か 。悲嘆 ひたん に暮 く れる女 おんな たち。聖母 せいぼ マリアは気絶 きぜつ している。
画面 がめん 右 みぎ 前景 ぜんけい 。賽子 さいころ でキリストの衣服 いふく の所有 しょゆう を決 き める兵士 へいし たち。
画面 がめん 右 みぎ 後景 こうけい 。罪人 ざいにん の1人 ひとり が十字架 じゅうじか に縛 しば りつけられようとしている。
画面 がめん 右 みぎ 後景 こうけい 。罪人 ざいにん を十字架 じゅうじか に縛 しば るのを手伝 てつだ おうとしている。
^ a b c 『グレート・アーティスト56 ティントレット』p.18-19。
^ a b c d e f g h i j k l m “Jacopo Tintoretto’s Crucifixion in the Scuola Grande di San Rocco ”. セーブ・ヴェネツィア (英語 えいご 版 ばん ) 公式 こうしき サイト. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c 『西洋 せいよう 絵画 かいが 作品 さくひん 名 めい 辞典 じてん 』p.402-403。
^ a b c d e f g h i j 『グレート・アーティスト56 ティントレット』p.14-15。
^ a b c d e f “Sala dell'Albergo ”. サン・ロッコ大同 だいどう 信 しん 会 かい 公式 こうしき サイト. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e “Tintoretto ”. Cavallini to Veronese. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Crucifixion ”. Web Gallery of Art. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Crucifixion ”. アカデミア美術館 びじゅつかん 公式 こうしき サイト. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 32節 せつ -52節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 20節 せつ ⁻41節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 26節 せつ -48節 せつ 。
^ 「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」19章 しょう 17節 せつ -30節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 32節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 25節 せつ 。
^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 35節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 24節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 34節 せつ 。
^ 「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」19章 しょう 24節 せつ 。
^ 「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」19章 しょう 19節 せつ -22節 せつ 。
^ 「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」19章 しょう 25節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 35節 せつ -36節 せつ 。
^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 41節 せつ 。
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^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 45節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 33節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 44節 せつ 。
^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 48節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 36節 せつ 。
^ 「ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 」19章 しょう 29節 せつ 。
^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 51節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 38節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 45節 せつ 。
^ 「マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 」27章 しょう 51節 せつ -52節 せつ 。
^ 「マルコによる福音 ふくいん 書 しょ 」15章 しょう 39節 せつ 。
^ 「ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 」23章 しょう 47節 せつ 。
^ “Life ”. サン・ロッコ大同 だいどう 信 しん 会 かい 公式 こうしき サイト. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ a b c “Dollari per la «Crocifissione» di Tintoretto ”. Il Giornale dell'Arte. 2023年 ねん 12月1日 にち 閲覧 えつらん 。
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