(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ピラト - Wikipedia コンテンツにスキップ

ピラト

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
このひと (Ecce Homo) 」エルサレム人々ひとびとにイエスをしめすピラト(アントニオ・チゼリ

ポンテオ・ピラト古典こてんラテン語らてんご: Pontius Pilatusポンティウス・ピーラートゥスなま没年ぼつねんしょう)は、マ帝国まていこくだい5だいユダヤぞくしゅう総督そうとくタキトゥスによれば皇帝こうてい属領ぞくりょう長官ちょうかん在任ざいにん26ねん - 36ねん)。新約しんやく聖書せいしょで、イエス処刑しょけい関与かんよした総督そうとくとして登場とうじょうすることで有名ゆうめい新約しんやく聖書せいしょ福音ふくいんしょ登場とうじょうのほか、すこ時代じだいのユダヤじん歴史れきしであるフィロンフラウィウス・ヨセフスなどの歴史れきししょにおいては、アグリッパ1せい以前いぜんのユダヤ総督そうとく唯一ゆいいつくわしい説明せつめい存在そんざいする[1]

概説がいせつ

[編集へんしゅう]

なま没年ぼつねん出身しゅっしんなどはしょう。ピラトはローマの騎士きし階級かいきゅうエクィテス)にぞくし、ティベリウスみかど治下ちか総督そうとくつとめた。シリア総督そうとくしたでは代官だいかん任期にんき前半ぜんはんにおいてははんユダヤてき思想しそうっていた親衛隊しんえいたい長官ちょうかんセイヤヌス影響えいきょうりょくおおきかったため、ピラトの統治とうちにもその影響えいきょうている。

ヨセフスの『ユダヤ古代こだい』(だいXVIIIまき3しょうと4しょう)では、かれについての記述きじゅつ以下いかのようなものがある。

  • それまでのユダヤ総督そうとく自重じちょうしていた皇帝こうてい胸像きょうぞういた軍旗ぐんき夜間やかんカエサリアからエルサレムにみ、人目ひとめくところにかかげておいたが、人々ひとびと嘆願たんがん態度たいどれて撤去てっきょした。
  • エルサレムにみずくための水道すいどう工事こうじ神殿しんでん人々ひとびとおさめていたかね一部いちぶ使用しようし、工事こうじ中止ちゅうしうったえた人々ひとびとちからずくで解散かいさんさせたことで死傷ししょうしゃた。
  • ユダヤじん指導しどうしゃ告発こくはつされたイエスに十字架じゅうじかけい判決はんけつくだした。
  • ゲリジムさん集結しゅうけつした(ヨセフスによると詐欺さぎの「モーセの什器じゅうきられる」という情報じょうほうしんじてあつまったという)サマリアじんを、ローマじんからの離反りはん未遂みすいおもんで兵士へいしたちに攻撃こうげきさせ死傷ししょうしゃした。

(なお『ユダヤ戦記せんきだいIIまきにもイエスの処刑しょけいくだりがない以外いがいはほぼどう内容ないよう記述きじゅつがある。)

この最後さいごサマリアじんいたる殺傷さっしょう事件じけんのち、サマリアじん評議ひょうぎかいシリア総督そうとくウィテリウス(ピラトの上司じょうしたる)に使者ししゃし、ピラトの非道ひどううったえた(マ帝国まていこくでは支配しはい住民じゅうみん総督そうとくのリコールけんがあった)[2]ところ、ウィテリウスは友人ゆうじんのマルケルスをユダヤ総督そうとくとして派遣はけんし、ピラトに「ローマにかえってサマリアじんから告発こくはつされていることを皇帝こうてい釈明しゃくめいせよ」とめいじた。こうしてピラトは10年間ねんかんのユダヤ総督そうとく生活せいかつえ、ローマへかったが、到着とうちゃくまえ皇帝こうていティベリウスは死亡しぼうしていたという[3]

フィロンのほう(Filo,Leg.38 (299-306) )は、アグリッパ1せいからカリグラにおくられた手紙てがみなかはなしとしてかれている記述きじゅつで、ヨセフスの最初さいしょはなしているが内容ないよう微妙びみょうことなる。エルサレムに皇帝こうていぞうてることは不可能ふかのうかんがえたピラトが「ぞうはないが皇帝こうていがついたかざよう金箔きんぱくられたたてをエルサレムにある総督そうとく邸宅ていたくもとヘロデの宮殿きゅうでん)にかかげる」という行為こういおこない、これをったエルサレム貴族きぞくとヘロデの4にん息子むすこたち[4]たてのぞくように嘆願たんがんし、それがピラトにつうじないとるとティベリウスに直訴じきそしてティベリウスはこれをみとめ、カエサリアにあるアウグストゥス神殿しんでんうつすようにめいじたことで皇帝こうてい名誉めいよとエルサレムの風習ふうしゅうたもたれた。というものである[5]

キリスト教きりすときょう聖書せいしょにおけるピラト

[編集へんしゅう]
ピラトのまえされたイエス(1881ねん、Mihály Munkácsy)

キリスト教きりすときょう使徒しと信条しんじょうに「ポンテオ・ピラトのもとにくるしみをけ」とあるのは、史実しじつせいしめすものであり、キリストきょうにおいてはこの記述きじゅつ史実しじつであるととらえられてきたが、史実しじつせい否定ひていする主張しゅちょう存在そんざいする[6][7]

日本語にほんごやく聖書せいしょにおける名前なまえ表記ひょうき

[編集へんしゅう]

ピラトは新約しんやく聖書せいしょ記載きさいのある人物じんぶつだが、日本語にほんごやく聖書せいしょなかでは様々さまざま表記ひょうきがなされる。具体ぐたいれいげるとポンテオ・ピラト文語ぶんごやく口語こうごやくしん改訳かいやく)、ポンティイ ピラト正教会せいきょうかいやく)、ポンティウス・ピラトゥス共同きょうどうやく)、ポンティオ・ピラトしん共同きょうどうやく)などがある。

ピラトの性質せいしつ

[編集へんしゅう]

ヨセフスは『ユダヤ古代こだい』18かんで、ピラトとユダヤじんとのあいだこった騒動そうどうとしてみっつの事件じけんをあげている。18かん3しょう3せつには有名ゆうめいなイエス・キリストにかんする記事きじがでていて、そこには「ピラトスは、かれ(イエス)がわれわれ(ユダヤじん)の指導しどうしゃたちによって告発こくはつされると、十字架じゅうじかけい判決はんけつくだしたが、最初さいしょかれあいするようになったものたち(イエスの弟子でしたち)は、かれ見棄みすてようとはしなかった」とある。

フィロンにわせれば「かれ融通ゆうずうのきかない性格せいかくで、とても頑固がんこなばかりか無慈悲むじひでもあった」〔フィロン「ガイウスへの弁明べんめいしょ」38しょう301せつ

ルカによる福音ふくいんしょ』13:1に「ピラトがガリラヤじんをガリラヤじんたちのささげるいけにえにぜた」[8]かれているなど残虐ざんぎゃくであるが、裁判さいばんでのピラトの行動こうどう陳情ちんじょうかえすユダヤじんへのおそれから(マルコ15:15)のものであったとされる[9][10]

ところが、この「冷酷れいこく無慈悲むじひな」はずのピラトが、イエスの裁判さいばんのぞんださいには、まったちがった様子ようすせる。

イエスの無罪むざいせい

[編集へんしゅう]
ピラトの質問しつもん真理しんりとはなにヨハネ 18:38(1890ねんロシアニコライ・ゲー

新約しんやく聖書せいしょえがかれるピラトは最初さいしょのうちイエスの処刑しょけい消極しょうきょくてきであった[11]福音ふくいん書記しょきしゃ証言しょうげんでは、ピラトがイエスの無罪むざいっていたとされる(ルカ23:4、ヨハネ13:38)[12]

ルカによる福音ふくいんしょ』(23:4)には「わたしはこのおとこなんざいいだせない」[13]とピラトがかたったとかれており、『ヨハネによる福音ふくいんしょ』(19:6)には、「十字架じゅうじかにつけろ。」とさけ人々ひとびとたいし、「わたしはこのおとこつみいだせない」[13]べたとあり、イエスの無実むじつすら明言めいげんする。 『マタイによる福音ふくいんしょ』(27:19)ではピラトのつま登場とうじょうし、死刑しけい宣告せんこくするまえばんゆめなかくるしいにあったので「あのただしいひと」にかかわらないでくださいとうったえる。

ルカによる福音ふくいんしょ』(23:1-12)によれば、ピラトはヘロデ・アンテパスところにイエスをおくり、イエスはヘロデによる尋問じんもんける。ヘロデは兵士へいし一緒いっしょにイエスを侮辱ぶじょくし、派手はでふくせてピラトのもとにイエスをおくかえしたので、それまで敵対てきたいしていたピラトとヘロデは仲良なかよくなったという。

あらうピラト

[編集へんしゅう]
あらうピラト(17世紀せいき後半こうはんオランダニコラース・マース

ピラトはあらって自分じぶん責任せきにんがないことをしめそうとしたが、かれ無罪むざいりながら、人々ひとびと満足まんぞくさせるために不当ふとう死刑しけい判決はんけつみとめたのであり、ジェームス・パッカーはこれをもっとおろかなジェスチャーである、としている[14]。『マルコによる福音ふくいんしょ』(15:1-15)と『ヨハネによる福音ふくいんしょ』(19しょう)には群集ぐんしゅう要求ようきゅうにこたえてやむをえずイエスの処刑しょけいったとの記述きじゅつがある。ピラトの動機どうきには自分じぶん政治せいじ生命せいめいまもることがあり(ヨハネ19:12)、ローマにユダヤの情勢じょうせいつたわらないようにしたいというねがいがあったとされる[12][9][10]

キリスト教きりすときょう伝承でんしょうにおけるピラト

[編集へんしゅう]

ユダヤ総督そうとくをつとめたこと以外いがい、ピラトの事跡じせきについて史料しりょうにはないが、キリストきょうマ帝国まていこくひろがるにしたがいピラトという人物じんぶつ歴史れきし編纂へんさんしゃ想像そうぞうりょくをとらえた。

2世紀せいきごろにつくられたにせ書簡しょかん登場とうじょう人物じんぶつたちの年代ねんだいわない)には、ピラトがクラウディウス皇帝こうていに「イエスをすくおうとしたが失敗しっぱいわった」と報告ほうこくしているものがあったり、テルトゥリアヌスのピラトが当時とうじひそかにキリスト教徒きりすときょうとで、ティベリウスにイエスをパンテオンにくわえるべきと提案ていあんしたとしているせつ(Apologeticum21,24・5:2)、新約しんやく外典げてんの『ニコデモ福音ふくいんしょ(『ピラトぎょうでん』ともばれる)』ではかれがイエスをどうあつかったかによる公式こうしき記録きろくふくんでいるとしょうしており、せいてん福音ふくいんしょよりもさらにイエスに同情どうじょうてき人物じんぶつとしている。 ピラトの評判ひょうばん絶頂ぜっちょうになったのは東方とうほうしょ教会きょうかいコプト正教会せいきょうかいエチオピア正教会せいきょうかい)がかれ聖人せいじんとしたときで、ピラトがつみキリスト教きりすときょう改宗かいしゅう熱心ねっしん信徒しんととなったとの伝承でんしょう保存ほぞんしている[10]
一方いっぽう歴史れきしエウセビオス著作ちょさくなかでピラトがカリグラみかどによってガリアながされ、そこで自殺じさつしたという伝承でんしょうつたえており(エウセビオス、『教会きょうかい』II:7)、かれ以降いこう、ピラトがみずかいのちったり皇帝こうてい処刑しょけいされる(処刑しょけいしゃはネロだったりティベリウスだったりする場合ばあいもある)などという物語ものがたりひろがった。自殺じさつせつはヒエロニムスなどにもみられるが、規模きぼおおきいものではピラトゥスさん伝説でんせつで「ピラトが自害じがい悪霊あくりょうがその死体したいむらがったことで人々ひとびとはその遺体いたいちかづくことがえられず、かわててもかわえたぎってされるようで、最後さいご山々やまやまかこまれた墓穴ぼけつしずめた。」というものでこのやまのちにピラトゥスやまばれるようになったというものである[15]

しかし、佐藤さとうけん教父きょうふ記述きじゅつたしかではないとしている[2]。また、佐藤さとうけんらはマルコ15:1-15せつについても、これは実際じっさいのピラトの事跡じせき心情しんじょう反映はんえいしたものでなく、イエスの責任せきにんマ帝国まていこくではなくユダヤきょう指導しどうしゃ転嫁てんかしたいというまもるきょうてき記述きじゅつでないかとしている[2]

考古学こうこがくにおけるピラト

[編集へんしゅう]

ピラトの石碑せきひ

[編集へんしゅう]

1961ねん、イタリアじん考古こうこ学者がくしゃアントニオ・フローヴァ(Antonio Frova)博士はかせが、地中海ちちゅうかい沿岸えんがんのカイザリアで碑文ひぶんきざまれた石板せきばん発見はっけんした。この石板せきばんは、発見はっけんにはカイザリア劇場げきじょう階段かいだん一部いちぶとして使つかわれていた。

通称つうしょう「ピラトの石碑せきひ」(82cm x 65cm)とばれる。

発見はっけんされた場所ばしょはピラトが紀元きげん6ねんはじめに、自分じぶん邸宅ていたく軍隊ぐんたい司令しれいきずいたカイサリア・マリテイマ(Caesarea Maritima)とばれる海辺うみべまちでもある。ラテン語らてんごで4ぎょうかれており、そのうち3ぎょうむことが出来できる。おおまかにうと、

神聖しんせいなる皇帝こうていアウグストウスのテイベリウスに・・・ポンテイオ・ピラト・・・ユダヤの知事ちじが・・・[これを] 献上けんじょうした」


おそらく石板せきばんはテベリアム(皇帝こうていテベリオを礼拝れいはいする神殿しんでん)の土台どだい使つかわれており、のちになって劇場げきじょう階段かいだんさい利用りようされたものとおもわれる。この碑文ひぶんは、ポンテオ・ピラトの任期にんきちゅうに「知事ちじ」という職名しょくめい使つかわれたことをしめしている。タキトゥスとヨセフスは後年こうねんピラトを「行政ぎょうせい長官ちょうかん」とんでいる。新約しんやく聖書せいしょでは「総督そうとく」とんでいるが(マタイ27:2)、これは両方りょうほう役職やくしょくわせたものである。この碑文ひぶんは、ピラトという知事ちじという職名しょくめい同時どうじもちいられている唯一ゆいいつのものである。

指輪ゆびわ

[編集へんしゅう]

ベツレヘム近郊きんこうのヘロデオン(ヘロデ大王だいおうはか宮殿きゅうでん遺跡いせき)でみつかったどう指輪ゆびわが、総督そうとくピラトのものである可能かのうせいがある。考古こうこ学者がくしゃポラット博士はかせがよくみがいてみるよう指示しじしたところ、ちょっとゆがんだ文字もじで「ピラトのもの」という文字もじてきたという。

イスラエルのハアレツによると、ダニー・シュワルツ教授きょうじゅは「わたしはあの時代じだいほかのピラトをだれらない。指輪ゆびわは、その人物じんぶつたか地位ちいにある人間にんげんだとしめしている」とべた。

初期しょきキリスト教徒きりすときょうとによる記述きじゅつ

[編集へんしゅう]

コルネリウス・タキトゥス

[編集へんしゅう]

古代こだいローマの偉大いだい歴史れきしであるコルネリウス・タキトゥスは、イエスがピラトによって処刑しょけいされたと断言だんげんしている。

イエスのから25ねんまれたタキトゥスは、イエスのはなしマ帝国まていこくひろがり、人々ひとびとつよ影響えいきょうあたえていく様子ようすたりにした。かれ紀元きげん115ねん、イエスとその信徒しんとたちについてつぎのような否定ひていてき内容ないよう記述きじゅつをしている。

かれらは日頃ひごろからまわしい行為こうい人々ひとびとからにくまれ、クリストゥス信奉しんぽうしゃとしてられていた。このはクリストゥスという人物じんぶつ名前なまえからられており、 ティベリウスみかど治世ちせいにおいて、総督そうとくポンティウス・ピラトによって処刑しょけいされた。」

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ E・シューラー『イエス・キリスト時代じだいのユダヤ民族みんぞく II』、小河おがわよう やく株式会社かぶしきがいしゃきょうぶんかん、2012ねんISBN 978-4-7642-7352-8、P109。
  2. ^ a b c 岩波いわなみキリスト教きりすときょう辞典じてん佐藤さとうけんちょ「ピラト」、岩波書店いわなみしょてん、2002ねん、p939
  3. ^ フラウィウス・ヨセフス ちょはたつよしたいら やく『ユダヤ古代こだい6 新約しんやく時代じだいへん[XVIII][XIX][XX]』株式会社かぶしきがいしゃ筑摩書房ちくましょぼう、2000ねんISBN 4-480-08536-X、P41-42。
  4. ^ この時点じてんでパレスチナにいたヘロデの息子むすこられているかぎ以下いかの5にんだが、個々ここ名前なまえてこないのでわせは不明ふめい
    • ヘロデ・アンティパス
    • ヘロデ・フィリッポス
    • マリアンメののヘロデ
    • クレオパトラののヘロデ(フィリッポスの同母どうぼおとうと
    • パラスのファサエル
    (E・シューラー『イエス・キリスト時代じだいのユダヤ民族みんぞく II』、小河おがわよう やく株式会社かぶしきがいしゃきょうぶんかん、2012ねんISBN 978-4-7642-7352-8、P83註15。)
  5. ^ E・シューラー『イエス・キリスト時代じだいのユダヤ民族みんぞく II』、小河おがわよう やく株式会社かぶしきがいしゃきょうぶんかん、2012ねんISBN 978-4-7642-7352-8、P110-111
  6. ^ ジョン・ストット『まことのかみ、まことのひといのちのことばしゃ
  7. ^ ジョン・グレッサム・メイチェンキリストきょうとはなにか?』p.43-44
  8. ^ しん改訳かいやく聖書せいしょ
  9. ^ a b しん聖書せいしょ辞典じてんいのちのことばしゃ
  10. ^ a b c 日本にっぽんキリスト教きりすときょう協議きょうぎかいキリスト教きりすときょうだい事典じてんきょうぶんかん
  11. ^ 尾山おやまれいひとし聖書せいしょ概説がいせつひつじぐんしゃ
  12. ^ a b 現代げんだいカトリック事典じてんエンデルレ書店しょてん
  13. ^ a b しん共同きょうどうやく聖書せいしょ
  14. ^ ジェームス・パッカー使徒しと信条しんじょういのちのことばしゃ p.62
  15. ^ E・シューラー『イエス・キリスト時代じだいのユダヤ民族みんぞく II』、小河おがわよう やく株式会社かぶしきがいしゃきょうぶんかん、2012ねんISBN 978-4-7642-7352-8、P141-143註144。

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]