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程畿 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ほど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ほど
成都武侯祠の程畿塑像(中央)
成都せいとたけしこうほこらほど塑像そぞう中央ちゅうおう
しょくかん
従事じゅうじさいしゅ
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
えきしゅうともえ西郡にしごおり閬中けん
死去しきょ あきらたけ2ねん222ねん
拼音 Chéng Jī
しか
主君しゅくん りゅうあきらりゅう
テンプレートを表示ひょうじ

ほど(てい き、? - 222ねん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいにかけての武将ぶしょうしかえきしゅうともえ西郡にしごおり閬中けんひとほどいくほど祁。

事跡じせき

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はじりゅうあきらつかえ、かんあきら県令けんれいとなった。

あるときともえ西にし太守たいしゅ龐羲かんちゅうちょう対抗たいこうするため、私兵しへい募集ぼしゅうした。ところが、りゅうあきら讒訴ざんそするものがいたため、りゅうあきらは龐羲をうたがうようになった。龐羲はほど畿のほどいく配下はいかとしており、ほどいくほど畿のした派遣はけんして救援きゅうえんもとめた。しかし、ほど畿は「しんいていないのなら、誠意せいいくすべきです」とい、これを拒否きょひした。また、ほどいくたいして「わたししゅうからおんけているから、しゅうまきのために忠節ちゅうせつくすのだ。おまえはぐん吏なのだから、太守たいしゅのためにちからふるうのが当然とうぜんである。わたし理由りゆうにしてしんいてはならない」とさとしている。

ほど畿の言葉ことばいた龐羲は別人べつじん派遣はけんし、協力きょうりょくしなければほどいくころすとおどしをかけた。しかし、ほど畿はらくひつじあつものんだ故事こじき、大義たいぎしたがうとかさねて拒否きょひした。ほど畿の助力じょりょくられないとさとった龐羲は、ついにりゅうあきら謝罪しゃざいし、りゅうあきらもこれをゆるした。のちりゅうあきらほど畿のおこないをき、かれこうよう太守たいしゅてている。

りゅうえきしゅう支配しはいすると、ほど畿は従事じゅうじさいしゅとして登用とうようされた。

222ねんりゅう備のえびすりょうたたか随従ずいじゅうした。えびすりょう大敗たいはいして撤退てったいするさい、あるものは「ふねかるくすればのがれることができます」と進言しんげんしたが、ほど畿は「わたしぐんにあって、てきから逃走とうそうしたことはいちもない。ましてや、陛下へいかしたがって危機ききのぞみながら、そのようなことができようか」と退しりぞけた。ほど畿は船上せんじょうみずから戟をち、追撃ついげきしてきたぐんたたかっていくつかてきせんしずめたが、最後さいご衆寡しゅうかてきせず戦死せんしした。

楊戯の『かん輔臣さん』において、その剛毅ごうきにして節義せつぎある人柄ひとがらたたえられている。ほど祁は楊戯・ちょうひょうらとならしょうされるほどの人物じんぶつであったが、20さい夭折ようせつした。

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』にも登場とうじょうし、史実しじつ同様どうよう戦死せんししている。

参考さんこう文献ぶんけん

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