だいさんペルソ・テュルク戦争せんそう

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だいさんペルソ・テュルク戦争せんそう
ペルソ・テュルク戦争せんそう
ひがしローマ・サーサーン戦争せんそう (602ねん-628ねん)なか
とき627ねん - 629ねん
場所ばしょみなみコーカサス
結果けっか 西にし突厥ひがしマ帝国まていこく連合れんごう勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
サーサーンあさ
イベリア公国こうこく英語えいごばん
西にし突厥
ひがしマ帝国まていこく
指揮しきかん
ホスロー2せい
シャフルバラーズ
ステファノス1せい英語えいごばん
すべまもるあせ
しつらえ英語えいごばん
ヘラクレイオス

だいさんペルソ・テュルク戦争せんそう(だいさんじペルソ・テュルクせんそう、えい: Third Perso-Turkic War)は、サーサーンあさ西にし突厥とのあいださん度目どめの、そして最後さいご戦争せんそうである。まえふたつの戦争せんそうとはことなり、中央ちゅうおうアジアではなくみなみコーカサス戦争せんそう舞台ぶたいとなった。戦争せんそう627ねん西にし突厥のすべまもるあせ(トン・ヤブグ・カガン、在位ざいい619ねんごろ - 628ねん)とひがしマ帝国まていこく皇帝こうていヘラクレイオス在位ざいい610ねん - 641ねん)によってはじめられた。西にし突厥とひがしマ帝国まていこく同盟どうめい対立たいりつしたのはアヴァール同盟どうめいしていたサーサーンあさであった。この戦争せんそうひがしマ帝国まていこくとサーサーンあさ最後さいごたたかい(ひがしローマ・サーサーン戦争せんそう (602ねん-628ねん))を背景はいけいとしてあらそわれ、中東ちゅうとう地域ちいきにおける勢力せいりょく均衡きんこうなん世紀せいきにもわたって変化へんかさせた劇的げきてき出来事できごと序章じょしょうとしての役割やくわりたした(ニネヴェのたたかイスラーム教徒きょうとのペルシア征服せいふく)。

背景はいけい[編集へんしゅう]

西暦せいれき600ねん時点じてん東半球ひがしはんきゅう勢力せいりょく

アヴァールサーサーンあさによっておこなわれた最初さいしょコンスタンティノープル包囲ほういせんコンスタンティノープル包囲ほういせん (626ねん))ののちひがしローマ皇帝こうていヘラクレイオス政治せいじてき孤立こりつした立場たちばたされていた。正教会せいきょうかいアルメニアじん異端いたんしゃ汚名おめいせていたために、みなみコーカサスに位置いちするアルメニアキリスト教徒きりすときょうと権力けんりょくしゃたよることができず、おなキリスト教きりすときょうくにイベリア公国こうこく英語えいごばんでさえ宗教しゅうきょうてき寛容かんようなサーサーンあさとの友好ゆうこう関係かんけい維持いじすることをえらんだ。この悲観ひかんてき状況じょうきょうたいし、ヘラクレイオスはすべまもるあせというひがしマ帝国まていこくにとって最適さいてき同盟どうめいしゃした[1]。この時期じきより以前いぜん交易こうえき問題もんだい原因げんいんとなりサーサーンあさとの関係かんけい悪化あっかしていた突厥西にしめんあせしつてんみつひがしマ帝国まていこく接近せっきんしていた[2]しつてんみつ568ねんソグドじん外交がいこうかんのマニアー(Maniah)にひきいられた使節しせつだんをコンスタンティノープルに派遣はけんし、使節しせつだん当時とうじひがしローマ皇帝こうていユスティヌス2せい在位ざいい565ねん - 574ねん)への贈物おくりものとしてきぬ献上けんじょうするだけではなく、サーサーンあさたいする同盟どうめい提案ていあんした。この提案ていあん同意どういしたユスティヌス2せい使節しせつだんを突厥へ派遣はけんし、ソグドじんつよのぞんでいた中国ちゅうごくきぬ直接ちょくせつ取引とりひき保証ほしょうした[3][4]

625ねんにヘラクレイオスは西にし突厥(突厥は582ねん東西とうざい分裂ぶんれつしていた)へ使者ししゃのアンドレアスを派遣はけんし、軍事ぐんじ援助えんじょ見返みかえりとしてみつるまもるあせに「おどろくほどのとみ」を約束やくそくした[5]みつるまもるあせがわでは、シルクロード沿った中国ちゅうごくひがしマ帝国まていこくとの交易こうえき確保かくほすることを切望せつぼうしていた。シルクロードはだいペルソ・テュルク戦争せんそう英語えいごばん余波よはでペルシアじんによって寸断すんだんされていた[6]みつるまもるあせはヘラクレイオスにたいし、「わたし貴殿きでんてき復讐ふくしゅうし、勇敢ゆうかん部隊ぶたいとも貴殿きでんたすくであろう」という言葉ことばおくった[7]。1,000にんからなる騎兵隊きへいたい困難こんなんともないつつもペルシア領内りょうないみなみコーカサスをとおけ、アナトリアひがしマ帝国まていこく宿営しゅくえいあせのメッセージをとどけた。

デルベントの陥落かんらく[編集へんしゅう]

ナリン=カラのられるデルベント要塞ようさい街並まちなみ

627ねんはじめに西にし突厥とハザール連合れんごうぐんが「アレクサンドロスのもん英語えいごばん」としてられるカスピ海かすぴかいめんしたデルベントへとせまった。サーサーンあさによってこのあたらしくきずかれていた要塞ようさいナリン=カラスペインばん)は、きたコーカサスからアルバニア現在げんざいアゼルバイジャン)の肥沃ひよく大地だいちへといた唯一ゆいいつのルートじょう存在そんざいしていた。ソビエト連邦れんぽう歴史れきしレフ・グミリョフは、アルバニアのけい武装ぶそう在地ざいちぐんすべまもるあせひきいるじゅう騎兵きへい大軍たいぐんとは比較ひかくにならなかったとべている[8]みつるまもるあせ部隊ぶたいはデルベントに猛攻もうこうげきくわえ、アルバニアを蹂躙じゅうりんして徹底的てっていてき略奪りゃくだつした。デルベントの陥落かんらく略奪りゃくだつは、この事件じけん目撃もくげきしたとかんがえられているアルメニアの歴史れきしモヴセス・カガンカトヴァツィ英語えいごばんによって詳細しょうさい記録きろくされている。

うみなみのようにテュルクじんはチョーラ(デルベント)のまちおそいかかり、まち完全かんぜん破壊はかいした。それはこの卑劣ひれつ見苦みぐるしく、住民じゅうみん恐怖きょうふおとしいれ、かみ女性じょせいのようにたなびかせた、ぶたのない攻撃こうげきしゃ大群たいぐんによってもたらされた。とくおそろしいのは、あめのようにそそだくみで強力きょうりょく射手しゃしゅであった。そして獰猛どうもうおおかみのようにおくすることもなく人々ひとびとおそいかかり、まちとおりや広場ひろばなさ容赦ようしゃなくたおした。かれらは虐殺ぎゃくさつされた母親ははおやきしめる子供こどもにさえ同情どうじょうせず、子供こどもをミルクのようにすすった[9]

難攻不落なんこうふらくかんがえられていたデルベントの要塞ようさい陥落かんらくはアルバニア全域ぜんいきにパニックをこした。アルバニアの部隊ぶたい首都しゅとのパルタウ(現在げんざいバルダ英語えいごばん)から撤退てったいし、コーカサス山脈さんみゃく方面ほうめんかったものの、カランカトゥイク(Kalankatuyk)のむらちかくで西にし突厥とハザールの部隊ぶたいおそわれ、そこで殺害さつがいされるか捕虜ほりょにされた。カガンカトヴァツィの記録きろくによれば、征服せいふくしゃはアルバニアに過酷かこく徴税ちょうぜい体制たいせいいた。

きたからやってきた支配しはいしゃはアルバニア全域ぜんいきだい混乱こんらんをもたらした。あせはすべての種類しゅるい職人しょくにんとくかね採取さいしゅぎんてつ精製せいせい、そしてどう製品せいひん製作せいさく熟練じゅくれんした職人しょくにん支配しはいするためにかれらを監視かんしする人間にんげんおくりこんだ。また、ペルシアによって伝統でんとうてきされていたディドラクマ徴税ちょうぜいくわえて、クラがわアラスがわ往来おうらいする物品ぶっぴん漁師りょうしぜいした[10]

トビリシの包囲ほうい[編集へんしゅう]

トビリシナリカラ要塞ようさい

西にし突厥とひがしマ帝国まていこくつぎ攻撃こうげき目標もくひょうはイベリア公国こうこくであり、イベリアこうステファノス1せい英語えいごばんはサーサーンあさおうであるホスロー2せい在位ざいい590ねん - 628ねん)に臣従しんじゅうしていた。カガンカトヴァツィの言葉ことばによれば、ハザールじんが「おおきく享楽きょうらくてき交易こうえき都市としとしてられたトビリシせ、完全かんぜん包囲ほういした」[11]。そしてすぐにひがしローマ皇帝こうていヘラクレイオスとその強力きょうりょく軍隊ぐんたいしたくわわった。

ヘラクレイオスとみつるまもるあせひがしローマの文献ぶんけんでは Ziebel とばれる)は、ナリカラ城壁じょうへきふもと対面たいめんした。みつるまもるあせはヘラクレイオスのしたちかづき、かた口付くちづけをして一礼いちれいをした。返礼へんれいにヘラクレイオスは蛮族ばんぞく支配しはいしゃきしめ、あせ息子むすこび、みずからの王冠おうかんあせ頭上ずじょうせた[12]つづ祝宴しゅくえんあいだにハザールの指導しどうしゃれいひんとしてあまほど耳飾みみかざりと織物おりものり、一方いっぽうみつるまもるあせはヘラクレイオスのむすめであるエウドクシア・エピファニア英語えいごばんとの婚姻こんいん約束やくそくされた[12][13]

包囲ほういせんおおきな進展しんてんがなく長期ちょうきし、守備しゅびがわ再三さいさんにわたる反撃はんげきによって攻撃こうげき中断ちゅうだんされた。2かげつ、ハザールはあきまでにもどることを約束やくそくして草原そうげん地帯ちたい撤退てったいした[14]みつるまもるあせ包囲ほういちゅうのヘラクレイオスを支援しえんする40,000にん軍勢ぐんぜい指揮しきかんとして息子むすこおいであるわかしつらえ英語えいごばん(ボリ・シャド)をのこしてった。しかしこれらの軍勢ぐんぜいもやがてり、ひがしローマぐん包囲ほうい単独たんどくつづけることを余儀よぎなくされ、守備しゅびがわからの野次やじこすことになった[15]

ジョージアじん皮肉ひにくめてヘラクレイオスのおこなった近親きんしん結婚けっこんたいする暗喩あんゆである「ヤギ」とんださいに、ヘラクレイオスはダニエルしょ一節いっせつから、ひとつのかくヤギによってたおされたふたつのかくひつじ物語ものがたりおもこした(ひつじはメディアとペルシアのおうを、ヤギはギリシアのおう示唆しさしている[16])。ヘラクレイオスはこれを兆候ちょうこう解釈かいしゃくし、南方なんぽうのペルシアにかって進軍しんぐん開始かいしした。627ねん12月12にちチグリスがわきしあらわれたヘラクレイオスとひがしマ帝国まていこく軍隊ぐんたいは、ニネヴェ遺跡いせきちかくでペルシアぐん激突げきとつして勝利しょうりおさめた(ニネヴェのたたか)。よく628ねんの1がつにはサーサーンあさ首都しゅとクテシフォン周辺しゅうへん荒廃こうはいさせ、ひがしマ帝国まていこくのサーサーンあさたいする関係かんけいおおきく好転こうてんさせた[17]

結末けつまつ[編集へんしゅう]

西暦せいれき600ねん時点じてん西にし突厥とひがし突厥の勢力せいりょく
  西にし突厥
ピンク…直接ちょくせつ統治とうち範囲はんいむらさき影響えいきょうりょくおよんだ範囲はんい
  ひがし突厥
水色みずいろ直接ちょくせつ統治とうち範囲はんいあお影響えいきょうりょくおよんだ範囲はんい

ヘラクレイオスの勝利しょうりのちみつるまもるあせ急遽きゅうきょトビリシの包囲ほうい再開さいかいし、ふゆあいだ都市とし攻略こうりゃくすることに成功せいこうした。カガンカトヴァツィは、「だい軍勢ぐんぜいけんたかかかげてかべかってすすみ、すべてのものがおたがいのかたってかべをよじのぼった。くろかげ悲嘆ひたんちひしがれた住民じゅうみんおそい、かれらはかされ、められていった」としるしている。ジョージアじんさらなる抵抗ていこうをすることなく降伏ごうぶくしたものの、都市とし略奪りゃくだつされ、住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつされた。ペルシアの太守たいしゅとイベリアこうすべまもるあせ面前めんぜん拷問ごうもんされ、殺害さつがいされた[18]

突厥部隊ぶたい白兵戦はくへいせんつよさでよくられていたものの、包囲ほういせん能力のうりょくけっしてたかいものではなかった。このため、レフ・グミリョフは、トビリシの攻略こうりゃくハザールによるものではないかとべている[19]。また、この成功せいこうすべまもるあせをより遠大えんだい構想こうそうてることになったとしんじるだけの十分じゅうぶん根拠こんきょ存在そんざいする。このトビリシ攻略こうりゃく軍事ぐんじ行動こうどうにおいて、みつるまもるあせ通常つうじょう略奪りゃくだつ作戦さくせんおこなうよりは、むしろアルバニアを西にし突厥の領土りょうどれることを企図きとしていた。本拠地ほんきょちスイアブげるまえに、みつるまもるあせしつらえとその将軍しょうぐんたちにたいし、「かれらがわたし息子むすこうためにおとずれ、わたし支配しはいふくし、我々われわれたいしてかれらのまちしろ、そして交易こうえき権利けんりみとめるかぎり、その土地とち支配しはいしゃ貴族きぞくいのちうばわないように」という指示しじのこした[20]

この言葉ことばは、みつるまもるあせがはるかひがし中国ちゅうごくまで影響えいきょうりょくつよめたのとおなじように、シルクロードのさい西部せいぶ支配しはい維持いじする意思いしっていたことをしめしている。しかし、みつるまもるあせは628ねん伯父おじ莫賀咄(バガテュル)に殺害さつがいされ、あせ簒奪さんだつされた[21]。629ねん西にし突厥の勢力せいりょくみなみコーカサスから撤退てったいしたものの[17]630ねん4がつしつらえがアルメニアへ侵入しんにゅうするために指揮しきかんチョルパン・タルハン英語えいごばんとともに総勢そうぜい30,000騎兵隊きへいたい派遣はけんした[22]。サーサーンあさ侵略しんりゃく対抗たいこうするためにシャフルバラーズが10,000にん軍勢ぐんぜいけたものの、チョルパン・タルハンは遊牧民ゆうぼくみんへい特徴とくちょうてき策略さくりゃくもちいてペルシアぐんせにし、これを殲滅せんめつした[23]。しかし、テュルクじんはサーサーンあさ対応たいおうきびしいものになることを承知しょうちしていたため、都市とし略奪りゃくだつしたのち草原そうげん地帯ちたいへとかえしていった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ See, generally, Christian pp.260-285.
  2. ^ Denis Sinor, The Historical Role of the Turk Empire, Journal of World History, IV, 3, Neuchatel, 1958, pp.429-433
  3. ^ Liu, Xinru, "The Silk Road: Overland Trade and Cultural Interactions in Eurasia", in Agricultural and Pastoral Societies in Ancient and Classical History, ed. Michael Adas, American Historical Association, Philadelphia: Temple University Press, 2001, p.168.
  4. ^ Howard, Michael C., Transnationalism in Ancient and Medieval Societies: the Role of Cross Border Trade and Travel, McFarland & Company, 2012, p.133.
  5. ^ Gumilev p.206.
  6. ^ Gumilev pp.205–208.
  7. ^ Movses p.155.
  8. ^ Gumilev p.216.
  9. ^ Movses p.105.
  10. ^ Movses p.131.
  11. ^ Movses p.107
  12. ^ a b Artamonov p.57.
  13. ^ Gibbon ch. 46.
  14. ^ Movses p.108.
  15. ^ Theophanes p.236.
  16. ^ ダニエルしょ(口語こうごやく)#だい8しょう
  17. ^ a b James Howard-Johnston (2000ねん1がつ1にち). “ḴOSROW II”. Encyclopedia Iranica. 2020ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  18. ^ Movses pp.119–120.
  19. ^ Gumilev pp.222–223.
  20. ^ Movses p.121.
  21. ^ きゅうとうしょ本紀ほんぎだいいち列伝れつでんだいひゃくよんじゅうよん、『しんとうしょ列伝れつでんひゃくよんじゅう
  22. ^ Movses p.132.
  23. ^ Movses p.133.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Artamonov, Mikhail. Essays on the Early History of the Khazars (Очерки ранней истории хазар). Leningrad, 1936.
  • Artamonov, Mikhail. Istoriya Khazar. Leningrad, 1962.
  • Brook, Kevin Alan. The Jews of Khazaria. 2nd ed. Rowman & Littlefield Publishers, Inc, 2006.
  • Christian, David. A History of Russia, Mongolia and Central Asia. Blackwell, 1999.
  • Gibbon, Edward. The History Of The Decline And Fall Of The Roman Empire. London, 1845.
  • Gumilev, Lev. The ancient Türks (Древние тюрки). Moscow: AST, 2007. ISBN 5-17-024793-1.
  • Movses Kagankatvatsi. История агван Моисея Каганкатваци, писателя X века (trans. and ed. by Patkanov). St. Petersburg, 1861.
  • Theophanes the Confessor. Летопись византийца Феофана от Диоклетиана... Moscow, 1890.