(Translated by https://www.hiragana.jp/)
篠井金山 - Wikipedia コンテンツにスキップ

篠井しのい金山かなやま

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
篠井しのい金山かなやま富井とみい鉱山こうざん
篠井しのい金山かなやまのあった榛名山はるなさん左端ひだりはし
田川たがわ大網おおあみ下橋しもはしより
所在地しょざいち
篠井金山の位置(栃木県内)
篠井金山
篠井しのい金山かなやま
所在地しょざいち栃木とちぎけん宇都宮うつのみや篠井しのいまち
くに日本の旗 日本にっぽん
座標ざひょう北緯ほくい3641ふん40びょう 東経とうけい13949ふん15びょう / 北緯ほくい36.694333 東経とうけい139.820833 / 36.694333; 139.820833座標ざひょう: 北緯ほくい3641ふん40びょう 東経とうけい13949ふん15びょう / 北緯ほくい36.694333 東経とうけい139.820833 / 36.694333; 139.820833
生産せいさん
産出さんしゅつぶつきむどう
生産せいさんりょうやく8.7まんトン(東邦亜鉛とうほうあえん時代じだい総計そうけいこう
歴史れきし
開山かいさん不明ふめい
採掘さいくつ期間きかん中世ちゅうせい - 昭和しょうわ
閉山へいざん1973ねん
所有しょゆうしゃ
企業きぎょう三井鉱山みついこうざん
大篠おおささ鉱山こうざん
日立ひたち鉱山こうざん
日東にっとう鉱山こうざん
東邦亜鉛とうほうあえん
プロジェクト:地球ちきゅう科学かがくPortal:地球ちきゅう科学かがく

篠井しのい金山かなやま(しのいきんざん)は、栃木とちぎけん宇都宮うつのみや篠井しのいまち存在そんざいした鉱山こうざん[1]富井とみい鉱山こうざん(とみいこうざん)ともしょうする[2]名前なまえとおきむ産出さんしゅつしていたが、だい世界せかい大戦たいせんこうどう鉱山こうざんとして操業そうぎょうしていた[2]。この鉱山こうざんにより、篠井しのいは「金山かなやませんけんせんけん」としょうする繁栄はんえいたとつたえられる[3][4]一方いっぽう歴史れきしじょうおおくのもの採掘さいくつしては失敗しっぱいした[3][5]1973ねん昭和しょうわ48ねん)に閉山へいざんした[2]ものの、採掘さいくつうたわれた「篠井しのいかねうた」は、宇都宮うつのみや無形むけい文化財ぶんかざい指定していけ、うたがれている[1][2][6]

歴史れきし[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

東海寺とうかいじ

いつから採掘さいくつはじまったのか[1][7]、どの程度ていどかね産出さんしゅつしたのか、など不明ふめいてんおおのこされた鉱山こうざんである[1]。そのなかで、戦国せんごく時代じだい佐竹さたけ開発かいはつしたとするせつ有力ゆうりょくある[6][8]榛名はるな山麓さんろくにある東海寺とうかいじには、佐竹さたけ長禄ちょうろく年間ねんかん1457ねん - 1461ねん)に虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ常陸ひたちこく那珂なかぐん村松むらまつむらげん茨城いばらきけん那珂なかぐん東海とうかいむら村松むらまつ)の村松むらまつさん虚空蔵こくぞうどうから勧請かんじょうし、境内けいだい虚空蔵こくぞうどう金山かなやま守護しゅごてらとした、とする伝説でんせつがあり、その根拠こんきょの1つとされる[6]。(ただし、東海寺とうかいじ金山かなやま無関係むかんけいであるとするせつ[9]や、元禄げんろく年間ねんかん1688ねん - 1704ねん)に篠井しのい金山かなやまはたらひとえてきたために建立こんりゅうしたとするせつもある[10]。)また郷土きょうどつたわる篠井しのいかねうたに「佐竹さたけ奉行ぶぎょうは おれらのおもよ」という一節いっせつがあること[2][7][10][11][12]当地とうち支配しはいした宇都宮うつのみや佐竹さたけあいだには姻戚いんせき関係かんけいがあったこと[6][10]もとかめ3ねん12月(ユリウスれき1573ねん1がつ)のみなみ一揆いっき鎮圧ちんあつさい宇都宮うつのみやひろつな佐竹さたけ義重よししげ応援おうえん要請ようせいし、ともに出陣しゅつじんしたことも傍証ぼうしょうとなっている[13]佐竹さたけ領地りょうちはちみぞ金山かなやま栃原とちはら金山かなやま南郷なんごう金山かなやまなど複数ふくすう金山かなやまゆう[14]かね生産せいさん技術ぎじゅつけていたため、宇都宮うつのみや佐竹さたけたよって金山かなやま開発かいはつおこなったというのである[3]宇都宮うつのみや日光にっこうさんへのそなえとして日光にっこう街道かいどう沿いの6 kmというたん区間くかん徳次郎とくじろうじょう下横倉しもよこくらじょうとら山城やましろ石那田いしなだじょう猪倉いのくらしろ過剰かじょうなほどささえじょう建設けんせつしたが、しん目的もくてき篠井しのい金山かなやままもるためだったというせつもある[15]。これらのささえじょう宇都宮うつのみやあらたな居城きょじょうである多気たきしろ建設けんせつ沼尻ぬまじり合戦かっせんにおける2,000ちょうもの鉄砲てっぽう調達ちょうたつは、金山かなやまからられた利益りえき原資げんし一部いちぶとしたとする見解けんかいがある[8]

古文書こもんじょでは「豊臣とよとみぞうおさめ目録もくろく」に、慶長けいちょう3ねん1598ねん)に浅野あさの弾正だんじょう浅野あさの長政ながまさ)が下野げやこく宇都宮うつのみやりょう黄金山おうごんざんからかね18まい(4りょう3ふん)を豊臣とよとみ秀吉ひでよし運上うんじょうしたむね記録きろくされている[4][6]浅野あさの宇都宮うつのみやおさめたのは宇都宮うつのみや国綱くにつな改易かいえきされたのちのわずか半年はんとしあいだぎないじょう宇都宮うつのみや領内りょうない篠井しのい金山かなやまのほかにかね産出さんしゅつできる場所ばしょ存在そんざいしないことから、浅野あさの秀吉ひでよしおさめたかねは、宇都宮うつのみや統治とうち時代じだい佐竹さたけ篠井しのい金山かなやま採掘さいくつしたかねだった、とするのが通説つうせつである[6]。なお佐竹さたけ徳川とくがわ家康いえやすにより慶長けいちょう7ねん1602ねん)に出羽でわこく秋田あきたげん秋田あきたけん秋田あきた)へうたてふうじさせられたことから、同時どうじ篠井しのい金山かなやま採掘さいくつ中断ちゅうだんしたものと推定すいていされる[3]江戸えど時代じだい初期しょきにも採掘さいくつしていたとするせつもあるが、証拠しょうことなる史料しりょう存在そんざいしない[16]

近世きんせい[編集へんしゅう]

篠井しのい金山かなやま記録きろくふたたあらわれるのは、安政あんせい3ねん1856ねん)のことである[3][4][9][16]。このとし11月7にちグレゴリオれき:1856ねん12月4にち)、宇都宮うつのみやはん江戸えど幕府ばくふたいし、篠井しのいむら男山おとこやまとりかね採掘さいくつする許可きょかもとめた[9][16]とき宇都宮うつのみやはん戸田とだ7.7まんせきであったが、自然しぜん災害さいがい百姓ひゃくしょう逃亡とうぼうにより、実際じっさい年間ねんかん収量しゅうりょうは5まんせき程度ていどだった[8]。よってはん財政ざいせいきびしく、再建さいけんさくもうまくはこばなかった[8]。そうしたおり天保てんぽう6ねん4がつ(グレゴリオれき1835ねん4 - 5がつ)、山師やまし権右衛門ごんうえもん発見はっけんしたあらたな金鉱きんこうみゃく事業じぎょう見通みとおしをかね奉行ぶぎょうはん報告ほうこくし、安政あんせい3ねん(1856ねん)の採掘さいくつねがいたるのであった[17]

採掘さいくつ許可きょか11月24にち西暦せいれき12月21にち)にくだり、宇都宮うつのみやはん試掘しくつ結果けっか「いささかながら出金しゅっきん」したと報告ほうこくし、幕府ばくふかねあらため役所やくしょかねおさめればむね12月25にち1857ねん1がつ20日はつか)に通達つうたつした[9]宇都宮うつのみやはん安政あんせい4ねん4がつ下旬げじゅん(1857ねん5がつ)までに9かん(≒34 kg)のかねおさ[3][9][18]本格ほんかくてき採掘さいくつのために幕府ばくふ老中ろうじゅう堀田ほった正睦まさとし資金しきん援助えんじょもうれた[18]おなじく財政難ざいせいなんにあえぐ幕府ばくふは、採掘さいくつしたかねからの利益りえき毎年まいとし800りょうずつ返還へんかんするように、との条件じょうけんけて4,000りょうはんけ、その資金しきん資材しざいそろえ、採掘さいくつするようもうわたした[9][18]。そして宇都宮うつのみやはん安政あんせい4ねん8がつまでに追加ついかで11かん450もんめ(≒43 kg)のかねおさめる[5][18]とともに、さらなる援助えんじょねが[3][5][19]幕府ばくふ追加ついかで1まん1せんりょうはん[20]宇都宮うつのみやはん安政あんせい5ねん10がつ1858ねん11月)にやく1ねんぶんとして22かん670もんめ(≒85 kg)のかね上納じょうのうした[5]。そして幕府ばくふに3度目どめ援助えんじょもうれ、11月15にち西暦せいれき12月19にち)に1まん5せんりょう許可きょかけた[5]。これにて篠井しのい金山かなやま記録きろく途絶とだ[3][5]、わずか2ねん採掘さいくつ事業じぎょう終了しゅうりょうした[3][4][5][16]

宇都宮うつのみやはん記録きろくによれば、末期まっきには家臣かしんからかね細工ざいく太刀たちよろいなどかね使つかっているものを供出きょうしゅつさせ、あつめたかね鉱山こうざん佐々木ささき貞右衛門さだえもん金塊きんかいへとなおし、幕府ばくふおさめたといい[5][20]資金しきん援助えんじょもとめる理由りゆうとして地盤じばんわるうえ出水しゅっすいおおいことをかえげていた[21]。この記録きろくをめぐっては、つぎのような解釈かいしゃくこころみられている。1つは資金しきんなん採掘さいくつ技術ぎじゅつじゅくにより、金山かなやま経営けいえい失敗しっぱいしたとするせつである[3][4]。このせつでは、家臣かしんからあつめたかね金塊きんかいなおしたのは苦肉くにくさくであったと解釈かいしゃくする[5]。もう1つは、幕府ばくふから借金しゃっきんをするために宇都宮うつのみやはん家老がろうけん勇記ゆうき仕組しくんだ芝居しばいだったとするせつである[20]。このせつでは家臣かしんからあつめたかね金塊きんかいなおしたのは幕府ばくふだましておかねりるためであり、地盤じばんわるうえ出水しゅっすいおおいことから、宇都宮うつのみやはん最初さいしょから本格ほんかくてき採掘さいくつするつもりはなかったと解釈かいしゃくする[20]。いずれにせよ、幕府ばくふたおれ、はん解体かいたいされたことにより、借金しゃっきん問題もんだい有耶無耶うやむやになった[20]

採掘さいくつ方法ほうほう[編集へんしゅう]

機械きかいのなかった当時とうじ露頭ろとう正方形せいほうけいあなけ、そのなか松明たいまつかかげてはいり、鉱石こうせき採取さいしゅし、石臼いしうすくという方法ほうほう採掘さいくつしていた[5]。このとき使つかっていたとされる石臼いしうす東海寺とうかいじ[5]近隣きんりん農家のうかのこされている[12][16]。このうす直径ちょっけい30 - 40 cmほどで、いくつか現存げんそんするものの、上部じょうぶ下部かぶのどちらかのみの場合ばあいがほとんどで、両方りょうほうセットでのこっているのはまれである[16]

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしんしん政府せいふ金融きんゆう財政ざいせい担当たんとうした由利ゆり公正きみまさ外国がいこくじん技師ぎしれて[3]採掘さいくつしたものの、事業じぎょう軌道きどうらなかった[3][20]。その1894ねん明治めいじ27ねん)に[4][22]三井鉱山みついこうざん機械きかい導入どうにゅうして[5]だい規模きぼ採掘さいくつ事業じぎょういどんだが、2 - 3ねんほどで[16]失敗しっぱいわった[4][5]。そして、大篠おおささ鉱山こうざん日立ひたち鉱山こうざん日東にっとう鉱山こうざん採掘さいくつしゃえながらがれていった[3][23]が、いずれの事業じぎょうしゃ成功せいこうおさめることはなかった[3]1943ねん昭和しょうわ18ねん)にはきむ鉱山こうざん整備せいびれいによりすべてのかね鉱山こうざん閉山へいざん休山やすみやまとなったため、採掘さいくつ停止ていしした[24]

1955ねん昭和しょうわ30ねん)、東邦亜鉛とうほうあえんが「富井とみい鉱山こうざん」として探鉱たんこう再開さいかいしたが、1973ねん昭和しょうわ48ねん)に廃坑はいこうした[2]だい世界せかい大戦たいせん再開さいかいした栃木とちぎけん金山かなやまはいずれもきむ鉱山こうざんとしては再生さいせいせず、どう亜鉛あえんなどの採取さいしゅわり、富井とみい鉱山こうざんどう鉱山こうざんとして稼働かどうしていた[25]東邦亜鉛とうほうあえんによるこう産出さんしゅつりょう合計ごうけいやく8.7まんトンであった[2]1977ねん昭和しょうわ52ねん時点じてんでは、坑道こうどうからながれるどうふくんだ地下水ちかすい中和ちゅうわするために石灰せっかい投入とうにゅうつづけられていた[5]

現地げんちには採掘さいくつ当時とうじ坑道こうどうこうのこっている[1][12]が、危険きけんなためすべてふさがれている[4]榛名山はるなさん周辺しゅうへん整備せいびされた登山とざんどう金山かなやまあとつうじるものはなく、金山かなやまあとかうみち荒廃こうはいし、たどりいても金山かなやまあと危険きけんともな[20]採掘さいくつ事業じぎょう停止ていししているが、採掘さいくつけん消滅しょうめつしていないため、権利けんりたないもの自由じゆう採掘さいくつすることはできない[1]

地質ちしつ[編集へんしゅう]

東海寺とうかいじから南東なんとう榛名山はるなさんほうすすみ、Vだにおくへとすすんだところに金山かなやまあとがある[4]鉱山こうざん開発かいはつされた場所ばしょ時代じだいによってことなり[9]榛名山はるなさん男山おとこやま本山ほんざんなど[10]篠井しのいまち南東なんとう丘陵きゅうりょう地帯ちたい篠井しのい富屋とみや連峰れんぽう一帯いったいに5 - 6かしょ鉱山こうざんあとがある[9]坑口こうこうたかさは0.7 - 2 mと大小だいしょうさまざまで[16]、すべてふさがれている[4]。また篠井しのいにぎわいをつたえる「金山かなやませんけんせんけん」(かなやませんげん、かちせんげん)[3][4]小字こあざ「カチマチ」として残存ざんそんし、付近ふきんには当時とうじぼとけがいくつか確認かくにんできる[22]

富井とみい鉱山こうざん産出さんしゅつされた石英せきえい(ヌケガラ)

鉱山こうざん地質ちしつおもだい三紀みきながれもんがんで、採掘さいくつ対象たいしょうながれもんがんなかふくまれるものだけであった[2]。ほかにも緑色みどりいろ凝灰岩ぎょうかいがんしこりはいかくつぶてがん砂岩さがん分布ぶんぷする[2]採掘さいくつされてきたおも鉱物こうぶつは、自然しぜんきん黄銅こうどうこうであり、石英せきえいてる蒼鉛そうえんこう黄鉄鉱おうてっこうあか鉄鉱てっこうしろ鉄鉱てっこうむらさき水晶すいしょうアメシスト)、亜鉛あえんこうパリゴルスキーせき英語えいごばん自然しぜんどう産出さんしゅつした[26]とくむらさき水晶すいしょうは、先端せんたんあわ紫色むらさきいろていし、比較的ひかくてきふと水晶すいしょうとして産出さんしゅつするのが特徴とくちょうで、鑑定かんてい番組ばんぐみたか評価ひょうかがくいて注目ちゅうもくされたことがある[27]

鉱脈こうみゃくは3こう作用さようけており、早期そうき中期ちゅうき晩期ばんき分類ぶんるいできる[2]早期そうき最初さいしょこう作用さようけた鉱脈こうみゃくで、おもかねてる蒼鉛そうえんこうふく石英せきえい鉱脈こうみゃくである[2]てる蒼鉛そうえんこうかね同時どうじふくまれることから、てる蒼鉛そうえんこうかね発見はっけんするための目印めじるしとして利用りようされた[2]中期ちゅうきは2番目ばんめこう作用さようけた鉱脈こうみゃくで、鉱山こうざん下部かぶじゅうあきらせき生成せいせいした[2]晩期ばんき最後さいごこう作用さようけた鉱脈こうみゃくで、鉱山こうざん中部ちゅうぶから下部かぶにかけて黄銅こうどうこうや閃亜鉛あえんこうふくんだ石英せきえい鉱脈こうみゃくである[2]。ここでは「ヌケガラ」とばれる空洞くうどうができた石英せきえい採掘さいくつできる[27]。「ヌケガラ」は中期ちゅうきにできたじゅうあきらせきまわりを晩期ばんき石英せきえいかこみ、じゅうあきらせきけてできがったものである[27]鉱山こうざん上部じょうぶ最初さいしょこう作用さようのみをけ、下部かぶ過去かこ3こう作用さようすべてをけている[2]

篠井しのいかねうた[編集へんしゅう]

映像えいぞう外部がいぶリンク
宇都宮うつのみや篠井しのいかねうた - 宇都宮うつのみや市役所しやくしょYouTube

篠井しのいかねうた(しのいのかなほりうた)は、篠井しのい金山かなやま坑夫こうふ採掘さいくつうたった作業さぎょう[2][6]起源きげん寛文ひろふみ年間ねんかん1661ねん - 1673ねん)とされる[16]篠井しのい金山かなやま休山やすみやま閉山へいざんかえしてきたが、かねうた継承けいしょうされつづけてきた[2]。ただし歌詞かしふし時代じだいによる変遷へんせんがあり、かねうたもとにした「草刈くさかうた」もつくられた[28]1963ねん昭和しょうわ38ねん)に[2]宇都宮うつのみや指定してい無形むけい文化財ぶんかざいとなった[1][2][6]歌詞かしにある「ガンガラ」は榛名山はるなさん別名べつめいである[6][29]

ハッパかければ 切羽きりは(きりは)がびる びる切羽きりはきむ(かね)となる
くもるガンガラ たからやまさと黄金おうごん(こがね)が なが
坑夫こうふさんなら ないでおくれ いちにんむすめをちらす
ひびくづちおん 女房にょうぼうけば 黄金おうごんあつめて 背負せお
みぎづちひだり手金てきん(たがね) ひとつつたび 火花ひばな
ぶた(とうがい)ともして 黄金おうごんれば 黄金おうごんこうがくらむ
佐竹さたけ奉行ぶぎょうは おれらのおもめぐあつきで せい
夫婦ふうふそろうて 黄金おうごんれば いつかわがやに けむり

— 篠井しのいかねうた[1][8][30]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 宇都宮うつのみや教育きょういく委員いいん会社かいしゃかい教育きょういく へん 1989, p. 33.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん 2014, p. 56.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o かしわむら 2020, p. 61.
  4. ^ a b c d e f g h i j k はなわ 2008, p. 258.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 栃木とちぎ県立けんりつ宇都宮うつのみや中央ちゅうおう女子じょし高等こうとう学校がっこう社会しゃかい 1977, p. 33.
  6. ^ a b c d e f g h i かしわむら 2020, p. 60.
  7. ^ a b 阿久津あくつ 2013, p. 89.
  8. ^ a b c d e しま 1999, p. 39.
  9. ^ a b c d e f g h 栃木とちぎ県立けんりつ宇都宮うつのみや中央ちゅうおう女子じょし高等こうとう学校がっこう社会しゃかい 1977, p. 32.
  10. ^ a b c d 金子かねこ 2013, p. 286.
  11. ^ かしわむら 2020, pp. 60–61.
  12. ^ a b c 篠井しのいガイドブックへんさん委員いいんかい 2002, p. 218.
  13. ^ しま 1999, pp. 38–39.
  14. ^ 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん 2014, p. 50.
  15. ^ しま 1999, p. 38.
  16. ^ a b c d e f g h i 金子かねこ 2013, p. 287.
  17. ^ しま 1999, pp. 39–40.
  18. ^ a b c d しま 1999, p. 40.
  19. ^ しま 1999, pp. 40–41.
  20. ^ a b c d e f g しま 1999, p. 41.
  21. ^ 栃木とちぎ県立けんりつ宇都宮うつのみや中央ちゅうおう女子じょし高等こうとう学校がっこう社会しゃかい 1977, pp. 32–33.
  22. ^ a b 篠井しのいガイドブックへんさん委員いいんかい 2002, p. 219.
  23. ^ 篠井しのいガイドブックへんさん委員いいんかい 2002, p. 220.
  24. ^ 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん 2014, p. 51.
  25. ^ 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん 2014, p. 51, 56.
  26. ^ 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん 2014, pp. 56–57.
  27. ^ a b c 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん 2014, p. 57.
  28. ^ 篠井しのいかねうた”. 宇都宮うつのみや歴史れきし文化財ぶんかざい. 宇都宮うつのみや. 2020ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  29. ^ はなわ 2008, p. 257.
  30. ^ 阿久津あくつ 2013, pp. 90–91.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 阿久津あくつ義正よしまさ『しのいの散歩道さんぽみち阿久津あくつ義正よしまさ、2013ねん11月、93ぺーじ 
  • 柏村かしむら祐司ゆうじ『なるほど宇都宮うつのみや 歴史れきし民俗みんぞく人物じんぶつ百科ひゃっか随想ずいそうしゃ、2020ねん4がつ25にち、188ぺーじISBN 978-4-88748-382-8 
  • 金子かねこ智美ともみ ちょ篠井しのい金山かなやま」、萩原はぎはら三雄みつお へん日本にっぽんかね銀山ぎんざん遺跡いせき高志こうし書院しょいん、2013ねん12がつ20日はつか、286-287ぺーじISBN 978-4-86215-128-5 
  • 篠井しのいガイドブックへんさん委員いいんかい篠井しのいガイドブック ふるさとの歴史れきし風土ふうど随想ずいそうしゃ、2002ねん2がつ1にち、335ぺーじNCID BB19337703 
  • しまりょう下野げや街道かいどう物語ものがたり おおいなる栃木とちぎ街道かいどうをゆく』下野新聞社しもつけしんぶんしゃ、1999ねん9がつ1にち、175ぺーじISBN 4-88286-105-4 
  • はなわ静夫しずお『うつのみや歴史れきし探訪たんぼう 史跡しせき案内あんないきゅうじゅうきゅうけい随想ずいそうしゃ、2008ねん9がつ27にち、287ぺーじISBN 978-4-88748-179-4 
  • 宇都宮うつのみや教育きょういく委員いいん会社かいしゃかい教育きょういく へん宇都宮うつのみや旧跡きゅうせき宇都宮うつのみや教育きょういく委員いいんかい文化財ぶんかざいシリーズだい10ごう〉、1989ねん3がつ25にち、107ぺーじ 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:90025622
  • 栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん へん『こんなにあるよ!とちぎの鉱物こうぶつ鉱山こうざん鉱物こうぶつのものがたり~』栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかんだい109かい企画きかくてん〉、2014ねん7がつ19にち、80ぺーじISBN 978-4-88758-077-0 
  • 地域ちいき総合そうごう調査ちょうさ報告ほうこく 篠井しのい栃木とちぎ県立けんりつ宇都宮うつのみや中央ちゅうおう女子じょし高等こうとう学校がっこう社会しゃかい、1977ねん2がつ15にち、43ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]