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羽藤はとう栄市えいいち

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羽藤はとう栄市えいいち
はとう えいいち
生年月日せいねんがっぴ 1903ねん3月25にち
出生しゅっしょう 愛媛えひめけん今治いまばりだい三島みしままち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1985-11-22) 1985ねん11月22にち(82さいぼつ
死没しぼつ 愛媛えひめけん今治いまばり
出身しゅっしんこう 逓信ていしん官吏かんり練習れんしゅうしょ
ぜんしょく 愛媛えひめけんふく知事ちじ
称号しょうごう くんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう
今治いまばり名誉めいよ市民しみん

選挙せんきょ 愛媛えひめけんだい2 (ちゅう選挙せんきょ)
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1958ねん - 1958ねん

当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1962ねん - 1982ねん
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羽藤はとう 栄市えいいち(はとう えいいち、1903ねん3月25にち - 1985ねん11月22にち)は、日本にっぽん政治せいじ愛媛えひめけんふく知事ちじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(1)・愛媛えひめけん今治いまばり市長しちょう(5)などを歴任れきにんした。

経歴けいれき

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愛媛えひめけん越智おちぐん桜井さくらいむらげん:今治いまばりまれ。

逓信ていしん官吏かんり練習れんしゅうしょ卒業そつぎょう高等こうとう文官ぶんかん試験しけん合格ごうかく逓信ていしんしょう東京とうきょう逓信ていしんきょく勤務きんむ青島ちんたお電信でんしん局長きょくちょうなどをつとめた。1942ねんには南方みなかたそう軍司ぐんじ政官せいかんく。1949ねんには初代しょだい四国しこく電気でんき通信つうしん局長きょくちょう就任しゅうにんした[1]

愛媛えひめ県政けんせい

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保守ほしゅ分裂ぶんれつとなった1951ねん愛媛えひめ県知事けんちじ選挙せんきょで、日本にっぽん社会党しゃかいとう民主党みんしゅとう推薦すいせん久松ひさまつじょうたけ愛媛えひめ県知事けんちじ当選とうせんすると、久松ひさまつ社会党しゃかいとう羽藤はとうふく知事ちじ抜擢ばってきした。ふく知事ちじとなった羽藤はとう郵政ゆうせい研修けんしゅうしょ誘致ゆうち実現じつげんし、松山まつやま郵政ゆうせいきょく高松たかまつ移転いてんうごきをおさんだ。

しかし、当時とうじ愛媛えひめけん赤字あかじ財政ざいせいくるしんでおり、白石しらいし春樹はるき保守ほしゅけい県議けんぎたちは、教員きょういん待遇たいぐう改善かいぜん熱心ねっしん羽藤はとうふく知事ちじにふさわしくないと判断はんだんし、「ふく知事ちじかない条例じょうれい」の議員ぎいん提案ていあんおこなった。久松ひさまつ羽藤はとう擁護ようごつづけたが、県議会けんぎかい紛糾ふんきゅうし、戦後せんごはつ議員ぎいん懲罰ちょうばつまでこった。39たい13で条例じょうれい可決かけつし、羽藤はとう1954ねんふく知事ちじ辞職じしょくした。これ以降いこう久松ひさまつ白石しらいしみ、支持しじ基盤きばん保守ほしゅにシフトさせた[2]

1955ねん愛媛えひめ県知事けんちじせんでは、保守ほしゅ転向てんこうした久松ひさまつ対抗たいこうして、社会党しゃかいとう推薦すいせんけた羽藤はとう立候補りっこうほする。しかし、久松ひさまつは「まる赤旗あかはたか」と保革ほかく対決たいけつ立場たちば鮮明せんめいにし、羽藤はとう久松ひさまつ完敗かんぱいした。これを白石しらいしひきいる保守ほしゅいきおいがつよまり、愛媛えひめ県政けんせいにおける革新かくしん衰退すいたいしていった[1][2]

国政こくせい

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1958ねん2がつおこなわれただい27かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん補欠ほけつ選挙せんきょでは愛媛えひめけんだい2 (ちゅう選挙せんきょ)から日本にっぽん社会党しゃかいとう公認こうにん候補こうほとして出馬しゅつばし73,519ひょう獲得かくとく当選とうせんたしたが、3ヵ月かげつ1958ねんそう選挙せんきょでは49,651ひょう獲得かくとくするも落選らくせんした[1]

今治いまばり市政しせい

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今治いまばり市長しちょう田坂たさかたかし三郎さぶろうは1962ねん今治いまばり市長しちょうせんに3せん目指めざして出馬しゅつばした。羽藤はとう民社党みんしゃとう中心ちゅうしんとする革新かくしんけい自民党じみんとう国会こっかい議員ぎいん井原いはらきしだかぜん衆院しゅういん議員ぎいん村瀬むらせせんおや反田そりたざか市議しぎたちから支持しじけて、公示こうじ直前ちょくぜん今治いまばり市長しちょう政治せいじ生命せいめいをかけて立候補りっこうほ表明ひょうめいした。羽藤はとう革新かくしんけい井原いはら村瀬むらせさん連合れんごうぐん」に対抗たいこうして、田坂たさか衆院しゅういん議員ぎいん八木やぎ徹雄てつおひきいる「八木はちぼくライン」の支持しじけていた。白石しろいしのもとで「一枚岩いちまいいわ体制たいせい」をいていた県議会けんぎかい自民党じみんとうは、村瀬むらせ山本やまもとひろしどおり八木はちぼく越智おち伊平いへい対立たいりつし、調整ちょうせい失敗しっぱいしたため、この2人ふたり以外いがい県議けんぎ今治いまばり市長しちょうせん関与かんよしないこととされた。羽藤はとう落選らくせん連続れんぞく同情どうじょうひょうあつめた結果けっか現職げんしょく田坂たさかやぶ今治いまばり市長しちょう当選とうせんした。市長しちょう当選とうせん羽藤はとうは、自民党じみんとうともとなり保守ほしゅけい市議しぎ支持しじたため、1966ねん今治いまばり市長しちょうせんでは圧勝あっしょうした[1]

1970ねん今治いまばり市長しちょうせんは、現職げんしょく羽藤はとう久松ひさまつ自民党じみんとう県議けんぎだん山本やまもとひろしどおり立候補りっこうほした。保守ほしゅ分裂ぶんれつ選挙せんきょとなった結果けっか今治いまばり自民党じみんとう市議しぎだん経済けいざいかいあいかれる混戦こんせんとなった。選挙せんきょせん優位ゆういすすめた山本やまもとは「県政けんせい直結ちょっけつ市政しせい」、たいする羽藤はとうは 「市民しみんのための市政しせい」をかかげた。しかし、市民しみん県政けんせいからの市政しせい介入かいにゅう反発はんぱつしたこと、革新かくしんけいひょう羽藤はとうながれたことにより羽藤はとう勝利しょうりした。1974ねん・1978ねん市長しちょうせんはいずれも日本にっぽん共産党きょうさんとうしか候補者こうほしゃてず、羽藤はとう圧勝あっしょうした。こうして、羽藤はとうは520ねんものながきにわたって今治いまばり市長しちょうかじった[1]

日本にっぽん高度こうど経済けいざい成長せいちょうげた1960年代ねんだい羽藤はとう港湾こうわん道路どうろ校舎こうしゃ下水道げすいどう公営こうえい住宅じゅうたくなど、今治いまばりインフラ整備せいび推進すいしんした。1969ねんには本四連絡橋ほんしれんらくきょう公団こうだん設置せっちされ、しまなみ海道かいどう尾道おのみち今治いまばりルート)の建設けんせつはじまった。また、玉川たまがわダム建設けんせつし、みず資源しげん確保かくほにもつとめた。しかし1970年代ねんだいはいると2オイルショックなどによって、地場じばのタオル産業さんぎょう商店しょうてんがい打撃だげきけた。1979ねんまつには今治いまばり造船ぞうせんきょうおそい、波止浜造船はしはまぞうせん倒産とうさんした[1]

羽藤はとうは1982ねん今治いまばり市長しちょう選挙せんきょで6せん目指めざし、立候補りっこうほ表明ひょうめいした。これにたいして自民党じみんとう県議けんぎ岡島おかじま一夫かずお立候補りっこうほし、保守ほしゅ分裂ぶんれつ選挙せんきょ構図こうずとなった。自民党じみんとう調整ちょうせいし、東京とうきょう自民党じみんとう本部ほんぶはないがおこなわれた。このとき羽藤はとう一本いっぽん岡島おかじま同意どういしたとされるが、岡島おかじま支持しじしゃたちは納得なっとくせず、岡島おかじま自身じしんりるにりられなくなった。結局けっきょく岡島おかじま自民党じみんとう離党りとうし、無所属むしょぞくでの立候補りっこうほ選択せんたくする。この結果けっか羽藤はとうとうともとして自民党じみんとう県連けんれん推薦すいせんた。さらに羽藤はとう衆院しゅういん議員ぎいん越智おち伊平いへい今治いまばり市議しぎの3ぶんの2、社民党しゃみんとう今治いまばり支部しぶ支援しえんけていた。中央ちゅうおうからも自民党じみんとう幹部かんぶ竹下たけしたのぼる大蔵おおくら大臣だいじん渡辺わたなべ美智雄みちおらがおとずれ、応援おうえんけた。一方いっぽう岡崎おかざき衆院しゅういん議員ぎいんもりきよしぜん今治いまばり市長しちょう田坂たさか一部いちぶ県議けんぎなどから支持しじけていた。12ねんぶりの保守ほしゅ分裂ぶんれつ選挙せんきょとなったが、12ねんまえとはぎゃく羽藤はとう自民党じみんとう推薦すいせんて、無所属むしょぞく候補こうほたたかうという構図こうずになっていた。このとき羽藤はとうは78さいであり、高齢こうれい多選たせん批判ひはんさらされた。さらに岡島おかじま無所属むしょぞくとして幅広はばひろ支持しじあつめた結果けっか羽藤はとうは1まん4000ちかひょうをつけて敗北はいぼくした[1]

市長しちょう退任たいにん

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市長しちょう退任たいにん1982ねんには今治いまばりから名誉めいよ市民しみん称号しょうごうおくられている。

1985ねん11月22にち肺炎はいえんによって死去しきょした(享年きょうねん82)[3]

略歴りゃくれき

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g 市川いちかわ虎彦とらひこ、「地場じば産業さんぎょう都市とし政治せいじ構造こうぞう-愛媛えひめけん今治いまばり戦後せんご地方ちほう政治せいじ(1)-」『松山大学まつやまだいがく論集ろんしゅう』 2005ねん 16かん 6ごう p.71-100 , ISSN 0916-3298, 松山大学まつやまだいがく紀要きよう論文ろんぶん
  2. ^ a b 愛媛えひめけん けん せい昭和しょうわ63ねん11月30にち発行はっこう)”. http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/51/view/6727 2016ねん12月26にち閲覧えつらん 
  3. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1985ねん11月23にち朝刊ちょうかん羽藤はとう栄市えいいち死去しきょ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
田坂たさかたかし三郎さぶろう
今治市旗 愛媛えひめけん今治いまばり市長しちょう
1962ねん - 1982ねん
次代じだい
岡島おかじま一夫かずお