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耶輸陀羅

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仏陀ぶっだと耶輸陀羅

耶輸陀羅(やしゅだら[1]名称めいしょうについては後述こうじゅつ)は、釈迦しゃか出家しゅっけするまえ、すなわちシッダールタ太子たいしだったときである。一般いっぱんてきせつでは、出家しゅっけ以前いぜん釈迦しゃか、すなわちガウタマ・シッダールタ結婚けっこんして、一子かずこ睺羅(らごら、ラーフラ)をんだとされる。[2]のち比丘尼びくに(すなわち釈迦しゃか女性じょせい弟子でし)となった。

名前なまえ名称めいしょう

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出身しゅっしん

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釈迦しゃかと耶輸陀羅。葛飾かつしか北斎ほくさい。『釈迦しゃか一代記いちだいき図会ずえ』(1839ねん)より

耶輸陀羅の身辺しんぺん出身しゅっしんにはおおくのせつがある。

  1. かかわ(コーリヤ)ぞくてんひじ(デヴァーダハ)しろのアンジャナおう祖父そふとして、そのおう長男ちょうなんぜんさとし(スプラブッダ)、長女ちょうじょ摩耶まや次女じじょ訶波闍波ひさげあり、耶輸陀羅はぜんさとしむすめひさげばばたちおとうとあたる(みなみでんパーリ仏典ぶってん、ジャータカとう)というせつ
  2. 釈迦しゃかぞくむカピラじょうつえ(ダンダパーニ)大臣だいじんむすめ、瞿夷(ゴーピカー、ひろし曜経ひとし記述きじゅつ)が同人どうじん異称いしょうとし、混同こんどうされてつたえられたというせつ
  3. 釈迦しゃかぞくカピラじょう大臣だいじん訶男訶摩とも、おもねりつあに比丘びく一人ひとりとは別人べつじん)のむすめふつほんぎょうしゅうけい)のせつ

いずれにしても一般いっぱんてきには、摩耶まやである釈迦しゃか訶波闍波ひさげであるなん彼女かのじょのいとこにあたるというせつきたでんでは採用さいようされている。きたでん仏典ぶってんでは、彼女かのじょ婿むこえら儀式ぎしき (swayamvara) で釈迦しゃかなん陀やひさげばばたちとう競技きょうぎおこない、釈迦しゃか正妃せいひとなったとするせつもあるが、彼女かのじょが10さい前後ぜんこう釈迦しゃかが17さいあるいは16さい)で結婚けっこんしたといわれる。また釈迦しゃかとはおな生年月日せいねんがっぴで17さい結婚けっこんしたとするせつもある。

また、出家しゅっけまえ釈迦しゃかには、耶輸陀羅もふくめ3にんがいたとつたえられるが、耶輸陀羅はいずれもその正妃せいひとなったともいわれる。すなわちじゅんでいえば、

  1. 耶輸陀羅、やつ陀羅(マノーダラー)、たかしくもりわたる(ゴータミー、これは.釈迦しゃかぞく女性じょせい総称そうしょうしたであるが、べつせつに瞿夷とどう一人物いちじんぶつともいう)というふつほんぎょうしゅうけいせつ
  2. たかし迦(ゴーピカー、ゴーパー、瞿夷もしくは瞿波ともしるす)、しゅうしょうあじ(耶輸陀羅の別名べつめい)、常楽じょうらく(マノーダラー)という修行しゅぎょうほんおこりけいせつ
  3. 瞿波、耶輸陀羅、みつさとわが惹(ムリガジャー)というしゅうもと訶帝けいせつ
  4. 瞿夷、耶輸陀羅、鹿野かのというけいけいせつ
  5. 鹿しかおう、瞿夷、耶輸陀羅のさんというせつ出典しゅってん不明ふめい)。
  6. 瞿夷、耶輸陀羅のというせつ

などのおおくのせつがあり、またにはにバッダカッチャーナー (Bhaddakaccanaa) という名前なまえ見受みうけられ、これは出家しゅっけの耶輸陀羅のというせつもある。きたでんにおける仏教ぶっきょうでは、通常つうじょうは1もしくは2のせつ採用さいようすることがおおい。

彼女かのじょ釈迦しゃかとなってはじめて宮中きゅうちゅうはいさい慣例かんれい無視むししてヴェールをつけず侍女じじょから注意ちゅういされると、「このきずひとつないかおをなぜかく必要ひつようがあるのですか?」とったともいわれる。このゆえ天竺てんじくだいいち美女びじょともしょうせられる。

彼女かのじょ釈迦しゃかぼとけ出家しゅっけ直前ちょくぜん直後ちょくごとも)にラーフラをんだが、経典きょうてんによっては、彼女かのじょはラーフラを6年間ねんかん胎内たいない宿やどしていた、というせつや、釈迦しゃか難行苦行なんぎょうくぎょうちゅうの6ねんあいだにラーフラを宿やどしていて、成道じょうどうよるんだという諸説しょせつがある。ざつ宝蔵ほうぞうけいでは、釈迦しゃか成道じょうどうにラーフラをんだことで親族しんぞくから貞節ていせつうたがわれたとしるし、ジャータカ因縁いんねん物語ものがたりでは釈迦しゃか実父じっぷであるきよしめし(スッドダーナ)おう彼女かのじょ貞節ていせつさんじたという。なおふつ太子たいしである瞿夷とのあいだゆう (Upavāna, ウパヴァーナ) 、鹿野かのとのあいだぜんぼし (Sunakkatta, スナカッタ) をそれぞれみ、三子みつごともみな出家しゅっけしたというせつもある(處處しょしょけい西國さいごく佛祖ぶっそ代代だいだい相承そうしょう傳法でんぼうおよ内證ないしょう佛法ぶっぽう相承そうしょう血脈けちみゃくなど)。

釈迦しゃかぼとけ成道じょうどうして12ねん故郷こきょうカピラじょう帰郷ききょうしたさい彼女かのじょはラーフラをともな釈迦しゃかぼとけいにき「財宝ざいほうゆずってください」とうようにラーフラにわせたという。釈迦しゃかぼとけはそのようにすればよい、とみとめるもラーフラはニグローダじゅえんこうとする釈迦しゃかぼとけいちぎょうについていき、沙彌さや年少ねんしょう見習みなら修行しゅぎょうしゃ)となった。

根本こんぽんせつ一切有部毘奈耶破僧事によると、釈迦しゃかふつじょうしたさい彼女かのじょ女性じょせいしゅともかざをつけて出迎でむかえ、ふつおしえをいたが、みなあずかりゅうはて聖者せいじゃながれにはいった)の境地きょうちたっしたが、彼女かのじょだけはなかったという。

彼女かのじょ自身じしん叔母おば訶波闍波ひさげや5ひゃくにん女性じょせいとも出家しゅっけさせてもらえるよう、釈迦しゃかぼとけさんにわたり懇願こんがんしたが、なかなかけてもらえず大声おおごえいてじょうした。釈迦しゃかふついちぎょうすでにカピラじょうはなれヴァイシャリーじょう郊外こうがいにある大林おおばやし精舎しょうじゃじゅうかく講堂こうどう)へおもむいたが、あきらめきれなかった彼女かのじょたちは剃髪ていはつころもあとってった。講堂こうどうまえあしらしてなみだほこりちりでまみれ大声おおごえいていたが、彼女かのじょらをおもねがた(アーナンダ)がおどろいて理由りゆうかれ、女性じょせい出家しゅっけみとめるようたのみ、おもねなん陀の説得せっとくもありようやく出家しゅっけゆるされた(ただし、釈迦しゃか女人にょにん出家しゅっけ躊躇ためらったとの逸話いつわ原始げんし仏典ぶってんとの矛盾むじゅんおおく、後世こうせい付加ふかされたものである可能かのうせいたか[3])。出家しゅっけ自分じぶん反省はんせいすることつとめ、尼僧にそうちゅう第一人者だいいちにんしゃになったといわれる[4]。また原始げんし仏教ぶっきょう経典きょうてんのひとつといわれるみなみでんテーリーガーター(長老ちょうろうあま)のヤソーダラー長老ちょうろうあまには、釈迦しゃかとの出会であいをべたがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 耶輸陀羅の解説かいせつ - 小学館しょうがくかん 大辞泉だいじせん
  2. ^ 図解ずかい仏教ぶっきょう成美せいびどう出版しゅっぱん14ぺーじ
  3. ^ 植木うえき雅俊まさとし差別さべつ超克ちょうこく――原始げんし仏教ぶっきょう法華経ほけきょう人間にんげんかん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2018ねん原著げんちょ2004ねん)、175, 179ぺーじ 
  4. ^ 図解ずかい仏教ぶっきょう成美せいびどう出版しゅっぱん18ぺーじ