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船田ふなだゆずる

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船田ふなだ ゆずる
ふなだ ゆずる
生年月日せいねんがっぴ (1923-06-13) 1923ねん6月13にち
出生しゅっしょう 日本の旗 栃木とちぎけん宇都宮うつのみや
ぼつ年月日ねんがっぴ (1985-08-10) 1985ねん8がつ10日とおか(62さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ
所属しょぞく政党せいとう自由民主党じゆうみんしゅとう→)
無所属むしょぞく
称号しょうごう せいよん
くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう
子女しじょ 長男ちょうなん船田ふなだはじめ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
親族しんぞく ちち船田ふなだなか大政たいせい翼賛よくさんかい政策せいさくきょく内政ないせい部長ぶちょう衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう
叔父おじ船田ふなだ享二きょうじきょうしろ帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
叔父おじ藤枝ふじえだいずみかい内務省ないむしょう警保きょく自治じち大臣だいじん
祖父そふ元田もとだはじめ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
むすめ船田ふなだめぐみもと参議院さんぎいん議員ぎいん

栃木県の旗 公選こうせんだい8-10代 栃木とちぎ県知事けんちじ
当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1974ねん12月8にち - 1984ねん12月8にち

選挙せんきょ 栃木とちぎけん地方区ちほうく
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1965ねん7がつ5にち - 1974ねん
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船田ふなだ ゆずる(ふなだ ゆずる、1923ねん大正たいしょう12ねん6月13にち - 1985ねん昭和しょうわ60ねん8がつ10日とおか)は、昭和しょうわ教育きょういくしゃ政治せいじ栃木とちぎ県知事けんちじ公選こうせんだい8-10代)、参議院さんぎいん議員ぎいん(2)、作新学院さくしんがくいん院長いんちょう

来歴らいれき人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

のち衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさいつとめた船田ふなだなか長男ちょうなんとして栃木とちぎけん誕生たんじょうする。1947ねん昭和しょうわ22ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ卒業そつぎょう卒業そつぎょうは、船田ふなだ創設そうせつした作新学院さくしんがくいんはいり、中等ちゅうとう部長ぶちょうなどをつとめる。

1965ねん昭和しょうわ40ねん)に自民党じみんとう公認こうにん参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ立候補りっこうほ当選とうせん。2つとめそのあいだ大蔵おおくら政務次官せいむじかんなどにく。

1974ねん昭和しょうわ49ねん)に参議院さんぎいん議員ぎいん辞職じしょくし、栃木とちぎ県知事けんちじ立候補りっこうほ当選とうせん。3つとめる。学者がくしゃはだ知事ちじとして全国ぜんこくてきにもられ、在職ざいしょくちゅうのことは自伝じでん素人しろうと知事ちじ奮戦ふんせん』(1982ねん)にくわしい。

1984ねん昭和しょうわ59ねん)6がつごろからきも機能きのう障害しょうがいわずらとら門病院もんびょういん入退院にゅうたいいんかえすことを余儀よぎなくされ、健康けんこうじょう理由りゆうから知事ちじ退任たいにんした[1]退任たいにんは、ふたた作新学院さくしんがくいん院長いんちょうとして学院がくいん経営けいえいたった。1985ねん昭和しょうわ60ねん)8がつ10日とおか死去しきょ、62さい死没しぼつをもってくんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう追贈ついぞうせいよんじょされる[2]つま昌子しょうじおっと没後ぼつご作新学院さくしんがくいん院長いんちょうとなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ "船田ふなだ ゆずる". しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ. コトバンクより2023ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ 官報かんぽうだい17563ごう10-11ぺーじ 昭和しょうわ60ねん8がつ24にちごう
公職こうしょく
先代せんだい
横川よこかわ信夫しのぶ
栃木県の旗 栃木とちぎ県知事けんちじ
公選こうせんだい8-10代:1974ねん - 1984ねん
次代じだい
渡辺わたなべ文雄ふみお