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船越義珍 - Wikipedia コンテンツにスキップ

船越ふなこしよしちん

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船越ふなこしよしちん

船越ふなこし よしちん(ふなこし ぎちん、1868ねん12月23にち明治めいじ元年がんねん11月10にち〉 - 1957ねん昭和しょうわ32ねん4がつ26にち)は、沖縄おきなわけん出身しゅっしん空手からてはじめて空手からて当時とうじから)を本土ほんど紹介しょうかいした空手からて創始そうししゃであり、松濤しょうとうかんりゅう事実じじつじょう開祖かいそ本土ほんどでの空手からて普及ふきゅう功績こうせきがあった。

生涯しょうがい

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船越ふなこしよしちんは、明治めいじ元年がんねん1868ねん戸籍こせきじょう明治めいじ3ねん)、とみめいこしくるる[1]長男ちょうなんとして、くびさと山川やまかわむらげん那覇なは首里山川しゅりやまがわまち)にまれた[1]わらわめいおもえかめ(ウミカミ)、唐名とうみょうようむべひとし(ヨージニ)。ひろしとみめいこしは、とまり士族しぞく名門めいもんひろし山田やまだ支流しりゅう分家ぶんけ)であり、代々だいだいくびさとおうつかえた下級かきゅう士族しぞく筑登〈チクドゥン〉)であった。祖父そふよしぶくは、聞得大君おおきみ御殿ごてん(チフェウフジンウドゥン、最高さいこうしんおんな聞得大君おおきみまう御殿ごてん)の台所だいどころかた筆者ひっしゃ書記しょきしょく)をつとめ、退職たいしょくさいにはみぎわりょうむらげん那覇なは首里汀良しゅりてらまち)に家屋かおくじきたまわったとされるが、ちちよしくるるだい酒飲さけのみであったため一家いっか没落ぼつらくし、よしちんまれたときには、借家しゃくやまいの困窮こんきゅうした生活せいかつおくっていた。

船越ふなこし早産そうざんだったこともあってか幼少ようしょうころ病弱びょうじゃくで、そのためはは実家じっかおやはくそだてられた。当初とうしょ学校がっこう入学にゅうがく希望きぼうしていたが、士族しぞく象徴しょうちょうである欹髻(カタカシラ・まげ)をることが条件じょうけんであったため断念だんねんし、わりに教員きょういんみちえらんだ。沖縄おきなわけん尋常じんじょう師範しはん学校がっこう明治めいじ13ねん開校かいこう沖縄おきなわけん師範しはん学校がっこう改称かいしょう)の速成そくせいいちねん課程かてい)を卒業そつぎょうすると、船越ふなこしじゅん訓導くんどう検定けんてい試験しけん合格ごうかくし、かぞどしで21さい明治めいじ20ねん)のとき、まず代用だいよう教員きょういんじゅん訓導くんどう)として教師きょうし生活せいかつのスタートをった。その尋常じんじょうせい訓導くんどう検定けんていにも合格ごうかくし、正教せいきょういん訓導くんどう)に昇格しょうかくした。

沖縄おきなわ時代じだい

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巻藁まきわら船越ふなこしよしちん

みずうみじょうみずうみじょうりゅう)の証言しょうげんによれば、船越ふなこしよしちんは、明治めいじ18ねん1885ねんはる、16さいときはじ那覇なはしゅ大家たいかみずうみじょうだいただし1837ねん - 1917ねん)にから師事しじしたとされる[2]。しかし、5しゃくたない体格たいかく那覇なはしゅわない、またはだいただしとのいがわるかったのか、船越ふなこし師事しじした期間きかんはわずかさんヶ月かげつあいだとどまった。

その船越ふなこしくびさとしゅ大家たいか安里あさと安恒やすつね本格ほんかくてき師事しじすることになった。くびさと貴族きぞくである安里あさとが、とまり士族しぞく家系かけいである船越ふなこしくびさとしゅ教授きょうじゅすることになった理由りゆうは、船越ふなこし安里あさと長男ちょうなん懇意こんいであったからである。安里あさと師事しじした正確せいかく時期じき不明ふめいであるが、船越ふなこしによれば、安里あさと最後さいご琉球りゅうきゅう国王こくおうであったなおやすし侯爵こうしゃく随行ずいこうして、明治めいじ12ねん1879ねん)から13年間ねんかん東京とうきょうこうじまち千代田ちよだ)のなおいえつかえていたという[3]安里あさと沖縄おきなわ帰郷ききょうしたのは、明治めいじ25ねん1892ねん)であった。それゆえ、船越ふなこし安里あさと師事しじしたのは、24さい以降いこうであったと推定すいていされる[4]安里あさとからはとくおおやけしょうくんかんそら)のかたまなび、これは船越ふなこし得意とくいかたとなった。

なお、鎌倉かまくら円覚寺えんかくじ境内けいだいてられた石碑せきひ碑文ひぶん大浜おおはましんいずみしょ)には「じゅういちさいころよりから手術しゅじゅつ安里あさと安恒やすつね糸洲いとす安恒やすつねりょうまなび…」とあるが、安里あさと東京とうきょう滞在たいざいちゅう期間きかんかさなり、信憑しんぴょうせいとぼしい。船越ふなこし安里あさと唯一ゆいいつ弟子でしであった。また、安里あさと師事しじするかたわら、安里あさととはおな松村まつむらはじめ門下もんか友人ゆうじんでもあった糸洲いとす安恒やすつねにも師事しじしたとわれている。しかし、摩文仁まぶにけん長男ちょうなん摩文仁まぶにけんさかえは、船越ふなこし息子むすこ船越ふなこしよしごうつうじて、摩文仁まぶにけんから糸洲いとすかた習得しゅうとくしたのであり、糸洲いとすには直接ちょくせつ師事しじしていないと、その経歴けいれき否定ひていしている[5]

小学校しょうがっこう教鞭きょうべんりながら、船越ふなこし小学生しょうがくせいたちから指導しどうしていた。大正たいしょう5ねん1916ねんごろとまり小学校しょうがっこう船越ふなこしからならった長嶺ながみねすすむしんによると、船越ふなこし生徒せいとたちナイファンチ鉄騎てっき)やピンアン(平安へいあん)のかたおしえていた[6]。なお、藤原ふじわらりょうさんによれば、船越ふなこし摩文仁まぶにけんからピンアンをまなんだという[7]。これは、船越ふなこし安里あさと直弟子じきでしで、糸洲いとすからピンアン(糸洲いとす創作そうさくがた)を習得しゅうとくする十分じゅうぶん機会きかいめぐまれなかったからだとおもわれる。しかし、のちには「ピンアン先生せんせい」とあだされるほど、船越ふなこし得意とくいかたひとつになった。

そのさんじゅう有余ゆうよねんつづいた教員きょういん生活せいかつえると、船越ふなこし先輩せんぱい友人ゆうじんたちと私的してき沖縄おきなわ学生がくせい後援こうえんかい沖縄おきなわ尚武しょうぶかいなどを設立せつりつし、学生がくせい支援しえんとうしゅ普及ふきゅう統一とういつ活動かつどうはじめた。

大正たいしょう5ねん1916ねん京都きょうと武徳たけのり殿どのにおいてから演武えんぶ

大正たいしょう6ねん1917ねん)5がつ船越ふなこし摩文仁まぶにけん自宅じたくひらいた「沖縄おきなわとうしゅ研究けんきゅうかい」に参加さんか。このかいには、屋部やべけんどおり花城はなしろちょうしげる宮城みやぎちょうじゅんなども参加さんかしていた。また、大正たいしょう8ねん1919ねん)からは屋部やべけんどおり推薦すいせんけて、沖縄おきなわけん師範しはん学校がっこう明治めいじ41ねん開設かいせつ)の生徒せいとたちに、課外かがい体育たいいくとしてから指導しどうした。

大正たいしょう10ねん1921ねん)3がつ欧州おうしゅう外遊がいゆう途中とちゅう沖縄おきなわった昭和しょうわ天皇てんのう当時とうじ皇太子こうたいし)のまえで、中学校ちゅうがっこう師範しはん学校がっこう生徒せいとくびさとじょうから御前ごぜん演武えんぶすることになり、船越ふなこしはその指揮しきった。

本土ほんど時代じだい

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かんそらおおやけしょうくん)を演武えんぶする船越ふなこしよしちん

大正たいしょう11ねん1922ねん)5がつ船越ふなこし上京じょうきょうして文部省もんぶしょう主催しゅさいだいいちかい体育たいいく展覧てんらんかい東京とうきょう女子じょし高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく教育きょういく博物館はくぶつかん)において、とうしゅかたくみしゅ写真しゃしんぶくじくにまとめてパネル展示てんじおこなった[8]よく6がつには、講道館こうどうかんまねかれて、嘉納かのう治五郎じごろう柔道じゅうどう有段者ゆうだんしゃまえにして、船越ふなこし東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく)の学生がくせい儀間ぎまにんで、とうしゅ演武えんぶ解説かいせつおこなった。このとき船越ふなこしおおやけしょうくん儀間ぎまはナイファンチを演武えんぶした。下富しもとみざか文京ぶんきょう)の道場どうじょうに、ひゃくにん館員かんいんあつまって参観さんかんしたとわれる。船越ふなこしは、そのまま東京とうきょうまり、沖縄おきなわけん出身しゅっしんしゃのための学生がくせいりょう明正めいせいじゅく」に寄宿きしゅくしながら、東京とうきょうとうしゅ指導しどうをすることになった。11月には、空手からて史上しじょうはつとなる『琉球りゅうきゅう拳法けんぽう とうしゅ[2]出版しゅっぱんした。

講道館こうどうかん演武えんぶかただけの単独たんどく演武えんぶだったこともあり、乱取らんど稽古けいこ重視じゅうしする柔道じゅうどうには、あまりつよ印象いんしょうあたえることができなかったとされる[9]とうしゅ稽古けいこかたのみという問題もんだいは、そのかえ柔道じゅうどうがわから不満ふまんてんとして問題もんだい提起ていきされた。乱取らんどりに相当そうとうする稽古けいこがなければ、本当ほんとう実力じつりょくはか物差ものさしがからにはないのではないかというのである。船越ふなこし初期しょき弟子でしであった大塚おおつかひろし和道かずみちりゅう開祖かいそ)や小西こにし康裕やすひろ神道しんとう自然しぜんりゅう開祖かいそ)によると、船越ふなこし当初とうしょ15のかた持参じさんして上京じょうきょうしたが、くみしゅはあまりらなかったという[10]。このため、大正たいしょう13ねん1924ねんごろ大塚おおつか中心ちゅうしんとなり、弟子でし小西こにし下田しもだたけしらも協力きょうりょくしながら、大塚おおつか小西こにしまなんでいた神道しんとうあげしんりゅう竹内たけうちりゅう柔術じゅうじゅつ参考さんこうにして、くみしゅつくげられた。本土ほんどにおける約束やくそくぐみしゅ誕生たんじょうである。空手からて約束やくそくぐみしゅ神道しんとうあげしんりゅうているのは、このためであるとう。大塚おおつかはさらに自由じゆうぐみしゅとうしゅ導入どうにゅうしようと提案ていあんしたが、これには船越ふなこしはげしく反対はんたいし、そのため両者りょうしゃ関係かんけい次第しだいむずかしくなったとわれている。

小西こにしも、かた重視じゅうしする船越ふなこし釈然しゃくぜんとしないことで、のちに船越ふなこしはなれて本部ほんぶあさもと弟子入でしいりもする。教育きょういくしゃ(スポーツ要素ようそ)である船越ふなこしから、教育きょういくしゃ対極たいきょく実戦じっせん経験けいけんをして重視じゅうしする本部ほんぶことは、船越ふなこしにしてみれば裏切うらぎりであり、「小西こにしゆるせん!」とこえげている[11]

大正たいしょう13ねん1924ねん)、船越ふなこしは「とうしゅ研究けんきゅう会長かいちょうとみめいこしちん」ので、空手からて史上しじょうはじめての段位だんい発行はっこうした。段位だんい授与じゅよしゃは、粕谷あらやしんよう大塚おおつかひろし小西こにし康裕やすひろ儀間ぎま謹らであった。同年どうねん13ねん1924ねん)10がつ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくから研究けんきゅうかい発足ほっそくよく14ねん1925ねん)10がつには、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくにもから研究けんきゅうかい発足ほっそくし、それぞれ船越ふなこし初代しょだいとうしゅ師範しはん就任しゅうにんした。また、このとし船越ふなこしさつ著書ちょしょきも護身ごしん から手術しゅじゅつ[3]出版しゅっぱんしている。まえちょ簡単かんたんなイラストによるかた挙動きょどう解説かいせつであったのにたいして、このしょでは、かた解説かいせつ写真しゃしん採用さいようされた。のちに、船越ふなこしかたはばなどを改変かいへんするが、このしょ改変かいへん以前いぜん船越ふなこしかた写真しゃしん確認かくにんすることができ、本土ほんど空手からてかた変遷へんせんさぐじょうで、貴重きちょう資料しりょうとなっている。

自由じゆうぐみしゅ試合しあい実現じつげん問題もんだいは、船越ふなこし頭痛ずつうたねであった。昭和しょうわ2ねん1927ねん)、東大とうだいから研究けんきゅうかい防具ぼうぐとうしゅ考案こうあんし、とうしゅ試合しあい模索もさくはじめると、船越ふなこしはこれに抗議こうぎして、昭和しょうわ4ねん1929ねん)12月、東大とうだい師範しはん辞任じにんしている。船越ふなこし晩年ばんねんまでおおやけに空手からて試合しあいみとめることはなかったが、ただ船越ふなこし師範しはんをつとめる大学だいがく空手からてなかには、すでに昭和しょうわ10ねんごろから船越ふなこしには内緒ないしょ自由じゆうぐみしゅおこなっていたようである。

同年どうねん船越ふなこし師範しはんつとめる慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくから研究けんきゅうかい機関きかんにおいて、般若心経はんにゃしんぎょうの「そら」の概念がいねんから、から空手からてあらためると発表はっぴょうした。空手からて表記ひょうきは、花城はなしろちょうしげる明治めいじ38ねん1905ねん)よりすでに使用しようしていたが、東京とうきょう空手からて表記ひょうきあらためられたことにより、急速きゅうそく空手からて表記ひょうきひろまっていった。当初とうしょ沖縄おきなわ空手からてかいでは反発はんぱつもあったとされるが、昭和しょうわ10年代ねんだいになると、沖縄おきなわけんでもこれに追随ついずいして空手からて表記ひょうきひろまった。本土ほんど空手からて表記ひょうきひろまるなかから表記ひょうき固執こしつすると、発祥はっしょうである沖縄おきなわけん地位ちいあやうくなると懸念けねんされたためである。昭和しょうわ6ねん1931ねん)9がつには、当時とうじ早稲田大学わせだだいがく柔道じゅうどうせきいていた高等こうとうがく院生いんせい野口のぐちひろし船越ふなこし師範しはんまねき、空手からて研究けんきゅうかい創設そうせつした。会長かいちょうには教授きょうじゅ大浜おおはましんいずみ就任しゅうにんし、そのまま部長ぶちょう就任しゅうにん昭和しょうわ8ねん早稲田大学わせだだいがく空手からてとなった。昭和しょうわ10ねん1936ねん)、船越ふなこしさんさつとなる著書ちょしょ空手からてどう教範きょうはん[4]出版しゅっぱんした。このしょでは、日本にっぽんほか武道ぶどうのように、あらたに「みち」のけて、こうしてから手術しゅじゅつ空手からてどうという呼称こしょうあらためられた。

昭和しょうわ14ねん1940ねん)、船越ふなこし豊島としま雑司ヶ谷ぞうしがや念願ねんがんの「松濤しょうとうかん道場どうじょう建設けんせつし、本郷ほんごう真砂まさごまちげん文京ぶんきょう)の道場どうじょうからうつった。しかし、この松濤しょうとうかん昭和しょうわ20ねん1945ねん)に戦災せんさい焼失しょうしつした。また、同年どうねん船越ふなこし後継こうけいしゃとして自他じたどもみとめる三男さんなんよしごうやまいのため死去しきょした。船越ふなこしにとっては、苦悩くのうとしであった。

晩年ばんねん

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空手からて普及ふきゅうさんじゅう周年しゅうねん記念きねん式典しきてん講演こうえんする晩年ばんねん松濤しょうとうおきな。1953ねん

昭和しょうわ22ねん1947ねん)、船越ふなこし疎開そかいさき大分おおいたけんから帰京ききょうする。東京とうきょうでは、早稲田大学わせだだいがく空手からて昭和しょうわ21ねん1946ねん)から、活動かつどう再開さいかいしていた。昭和しょうわ23ねん1948ねん)、船越ふなこし門弟もんていたち中心ちゅうしんとなって日本にっぽん空手からて協会きょうかい結成けっせい船越ふなこしはその初代しょだい最高さいこう師範しはん就任しゅうにんした。昭和しょうわ28ねん1953ねん)には、神田かんだ共立きょうりつ講堂こうどうにて、船越ふなこし上京じょうきょう30周年しゅうねん記念きねんして、「空手からて普及ふきゅうさんじゅう周年しゅうねん記念きねん式典しきてん」が開催かいさいされた(実際じっさいは31ねん)。

昭和しょうわ23ねん1948ねんごろ船越ふなこし糸洲いとす安恒やすつね晩年ばんねん高弟こうていである遠山とおやまひろしけんとのあいだで「空手からて本家ほんけ」をめぐ論争ろんそうきた。糸洲いとす直系ちょっけい弟子でし自認じにんする遠山とおやまは、「船越ふなこし糸洲いとす門下もんかでは傍系ぼうけいぎず、糸洲いとす直系ちょっけいつらならないもの沖縄おきなわ空手からて正統せいとうとはいえない。」と主張しゅちょうした。また、遠山とおやま沖縄おきなわ師範しはん学校がっこう本科ほんか卒業生そつぎょうせいであるのにたいして、船越ふなこし沖縄おきなわけん師範しはん学校がっこう速成そくせいいちねん課程かてい出身しゅっしんであったことも、この論争ろんそう争点そうてんひとつであった。遠山とおやまは、師範しはん学校がっこう本科ほんか糸洲いとすからまなんだもののみが糸洲いとす後継こうけいしゃであると主張しゅちょうした。

しかし、糸洲いとす師範しはん学校がっこうおしはじめたのは、1905ねん明治めいじ38ねん)からであり、たとえ船越ふなこし本科ほんか入学にゅうがくしていたにしろ、(戸籍こせきじょうは)1870ねん明治めいじ3ねんまれの船越ふなこし糸洲いとす師事しじする機会きかいはありえなかった。いずれにしろ、遠山とおやま船越ふなこし論争ろんそうつうじて、糸洲いとす門下もんか弟子でしなかに、直系ちょっけい傍系ぼうけい差別さべつ意識いしきがあったことはたしかのようである

昭和しょうわ30ねん1955ねん)、日本にっぽん空手からて協会きょうかい本部ほんぶ道場どうじょう完成かんせい、その開所かいしょしき船越ふなこし出席しゅっせきした。しかし、協会きょうかいから独立どくりつしたこう西元にしもとしん松濤しょうとうかい所属しょぞく門弟もんていたち遠慮えんりょして、中立ちゅうりつ立場たちばでいたいとかんがえた船越ふなこしは、この道場どうじょうにはその出向でむかなかったとわれている。よく31ねん1956ねん)4がつ船越ふなこし協会きょうかい最高さいこう技術ぎじゅつ顧問こもん辞退じたいするむね手紙てがみおくっている。両者りょうしゃ和解わかいねがいながら、昭和しょうわ32ねん1957ねん)4がつ26にち永眠えいみんした。享年きょうねん90。

船越ふなこし人柄ひとがらについて、自由じゆうぐみしゅ問題もんだいたもとかった大塚おおつかひろしは、のちに「船越ふなこしさんというひと子供こどものようなしん持主もちぬしじつ正直しょうじきひとでした」と評価ひょうかくだしている。船越ふなこしは、本土ほんど空手からて普及ふきゅうおおいに功績こうせきがあったが、その実力じつりょくについては疑問ぎもんこえがっている。著名ちょめい空手からて研究けんきゅう金城きんじょうひろしは、船越ふなこし松濤しょうとうじゅうくんの11「空手からてごとえず熱度ねつどあたえざればもとみずかえる」をれいにあげて、空手からて長年ながねん稽古けいこしていれば簡単かんたんにおみずもどるようなことはない、あれは素人しろうとかんがえだとだんじている[12]。その一方いっぽうで、直弟子じきでしであった江上えがみしげる述懐じゅっかいによれば、当時とうじ20だい江上こうじょう上段じょうだんとっきを、70さいちかかった船越ふなこしはやんわりとけて重心じゅうしんくずし、ぎゃく中段ちゅうだんとっきをんだという[13]船越ふなこしは、生涯しょうがいみずからの流派りゅうは名乗なのらなかったが、船越ふなこし系統けいとう一般いっぱん松濤しょうとうかんりゅうばれ、事実じじつじょう開祖かいそ位置いちづけられている。今日きょう松濤しょうとうかんりゅうは、日本にっぽんよんだい流派りゅうはひとつにかぞえられている。

船越ふなこしよしちん弟子でしかぞげればきりがないが、おももの列挙れっきょすると、粕谷あらやしんよう儀間ぎま謹、大塚おおつかひろしきの和道かずみちりゅう)、小西こにし康裕やすひろ神道しんとう自然しぜんりゅう)、下田しもだたけし船越ふなこしよしごう中山なかやま正敏まさとし江上えがみしげるこう西元にしもとしん高木たかぎただしあさ岩田いわたしげるこころざし岡野おかの友三郎ともさぶろうらがいる。

なお、船越ふなこし漢学かんがくをはじめ和歌わか書道しょどうにも幼少ようしょうころからしたしみ、松濤しょうとうかんりゅうは、船越ふなこし雅号がごう松濤しょうとう由来ゆらいしている。

墓所はかしょ神奈川かながわけん川崎かわさき日蓮宗にちれんしゅう善正ぜんしょうてらにある。毎年まいとし4がつ29にちには鎌倉かまくら円覚寺えんかくじ境内けいだいにある「空手からて先手せんてなし」の石碑せきひまえ松濤しょうとう同門どうもんかい船越ふなこししのび、松濤しょうとうさいとして松濤しょうとうかんかく団体だんたい大学だいがく空手からて演武えんぶおこなっている。

松濤しょうとうじゅうくん空手からてじゅう箇条かじょう) 奮詩

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  1. 空手からてどうれいはじまりれいおわことを忘るな
  2. 空手からて先手せんてなし
  3. 空手からて(たす)け
  4. さき自己じこしかして
  5. 技術ぎじゅつより心術しんじゅつ
  6. しん(はな)たんごとよう
  7. わざわい(わざわい)は懈怠けたい(かいたい)にしょう
  8. 道場どうじょうのみの空手からておもふな
  9. 空手からて修業しゅうぎょう一生いっしょうである
  10. 凡ゆるものを空手からてせよ其処に妙味みょうみあり
  11. 空手からてごとえず熱度ねつどあたえざればもとみずかえ(かえ)る
  12. こうつなけぬこう必要ひつよう
  13. てきって轉化てんかせよ
  14. せん虚実きょじつ操縦そうじゅう如何いか
  15. ひと手足てあしけんおも
  16. 男子だんしもんづればひゃくまんてきあり
  17. 構は初心者しょしんしゃのち自然体しぜんたい
  18. かたちまさしく実戦じっせん別物べつもの
  19. ちからつよ弱体じゃくたい伸縮しんしゅくわざ緩急かんきゅうを忘るな
  20. つね思念しねん工夫くふうせよ


奮詩】

海南かいなんかみわざ空拳くうけん          海南かいなんかみわざ空拳くうけん

衰微すいびぜっ正傳せいでん     うら衰微すいびして正傳せいでん

だれさく中興ちゅうこうだい成業せいぎょう     だれさくさん中興ちゅうこう大成たいせいごう

斯心奮発ふんぱつちかい蒼天そうてん     斯のしん奮発ふんぱつして蒼天そうてんちか

著作ちょさく

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  • 琉球りゅうきゅう拳法けんぽう とうしゅ[5]たけ俠社 大正たいしょう11ねん
  • きも護身ごしん から手術しゅじゅつ[6]東京とうきょう廣文ひろふみどう奥付おくづけは「廣文ひろふみどう」) 大正たいしょう14ねん
  • 空手からてどう教範きょうはん[7]大倉おおくら廣文ひろふみどう 昭和しょうわ10ねん
  • 増補ぞうほ 空手からてどう教範きょうはん[8]廣文ひろふみどう書店しょてん 昭和しょうわ16ねん
  • 空手からて入門にゅうもん[9]國防こくぼう武道ぶどう協會きょうかい 昭和しょうわ18ねん
  • 増補ぞうほ 空手からてどう教範きょうはん[10]廣文ひろふみどう 昭和しょうわ19ねん
  • 改訂かいてい増補ぞうほ 空手からて入門にゅうもん[11]天地てんち書房しょぼう 昭和しょうわ26ねん
  • 空手からてどう一路いちろ[12]産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ 昭和しょうわ31ねん
  • 空手からてどう教範きょうはん[13]日月じつげつしゃ 昭和しょうわ33ねん
  • 空手からてどう教範きょうはん[14]日月じつげつしゃ 昭和しょうわ38ねん
  • きも護身ごしん から手術しゅじゅつ榕樹ようじゅしゃ 1997ねん復刻ふっこくばんISBN 4-947667-34-6
  • 愛蔵あいぞうばん 空手からてどう一路いちろ榕樹ようじゅ書林しょりん 2004ねん復刻ふっこくばんISBN 4-947667-70-2
  • 琉球りゅうきゅう拳法けんぽう とうしゅ榕樹ようじゅ書林しょりん 2006ねん復刻ふっこく普及ふきゅうばんISBN 4-89805-117-0
  • 空手からてどう教範きょうはん榕樹ようじゅ書林しょりん 2012ねん復刻ふっこくばんISBN 978-4-89805-161-0

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 船越ふなこしよしちん旧姓きゅうせいは、一般いっぱん空手からて関連かんれんしょではとみめいこししるし、また本人ほんにんもそうしるしているが、本来ほんらいとみとみ異体いたい)といてとみめいこししるすのがただしい。『しゅう参照さんしょう
  2. ^ 東京大学とうきょうだいがく空手からてろくじゅうねん収録しゅうろく寄稿きこうぶん藤原ふじわらりょうさん近代きんだい空手からてどう先駆せんくしゃ さんさんろうと『拳法けんぽう概説がいせつ』」(178ぺーじ)を参照さんしょう
  3. ^ 恩師おんし安里あさと安恒やすつね先生せんせい逸話いつわ」を参照さんしょう
  4. ^ 船越ふなこし空手からて師範しはんをつとめた慶應義塾けいおうぎじゅく体育たいいくかい空手からて発行はっこうの『創立そうりつじゅう周年しゅうねん記念きねん 空手からてどう集成しゅうせいだいいちかん』(1936ねん)23ぺーじに、「安里あさと安恒やすつね糸洲いとす安恒やすつねりょうもんまなぶことよんじゅうねん」との紹介しょうかいぶんがある。それゆえ、船越ふなこし安里あさと糸洲いとす空手からてまなびはじめたのは、1896ねん明治めいじ29ねん)、28さいごろからだったようである。
  5. ^ 摩文仁まぶにけん攻防こうぼう拳法けんぽう空手からてどう入門にゅうもん』(榕樹ようじゅ書林しょりん、2006ねん)213ぺーじ参照さんしょう
  6. ^ 長嶺ながみねすすむしん史実しじつ口伝くでんによる沖縄おきなわ空手からて角力すもうめい人伝ひとづて』111ぺーじ参照さんしょう
  7. ^ 儀間ぎま謹、藤原ふじわらりょうさん対談たいだん近代きんだい空手からてどう歴史れきしかたる』86ぺーじ参照さんしょう
  8. ^ 船越ふなこしよしちん愛蔵あいぞうばん 空手からてどう一路いちろ』149ぺーじ参照さんしょう
  9. ^ 講道館こうどうかんでの演武えんぶ参観さんかんした富木とみき謙治けんじは、のちに「単独たんどく演武えんぶですからあまつよ印象いんしょうけませんでした」と回想かいそうしている。『空手からてどう』27ぺーじ参照さんしょう。ただしあいだはこのとき約束やくそくぐみしゅえんじたと、のちにべている。
  10. ^ 空手からてどう収録しゅうろく寄稿きこうぶん大塚おおつかひろしきの明正めいせいじゅく前後ぜんこう」の55ぺーじ、ならびに小西こにし康裕やすひろ琉球りゅうきゅうから手術しゅじゅつ先達せんだつしゃ」の58、59ぺーじ参照さんしょう加来かく耕三こうぞう武闘ぶとうでん』の78、79ぺーじ参照さんしょう
  11. ^ 空手からてどう』2002ねん1がつごう
  12. ^ 『JKFan』2006ねん8がつごう、33ぺーじ参照さんしょう
  13. ^ 空手からてどう 専門せんもんおくる』楽天らくてんかい、1970ねん)59ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 空手からてどう創造そうぞう 昭和しょうわ52ねん
  • 長嶺ながみねすすむしん史実しじつ口伝くでんによる沖縄おきなわ空手からて角力すもうめい人伝ひとづて新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 昭和しょうわ61ねん ISBN 4-404-01349-3
  • 儀間ぎま謹、藤原ふじわらりょうさん対談たいだん近代きんだい空手からてどう歴史れきしかたる』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ 1986ねん ISBN 4-583-02606-4
  • 藤原ふじわらりょうさん格闘技かくとうぎ歴史れきしスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ 1990ねん ISBN 4-583-02814-8
  • 加来かく耕三こうぞう武闘ぶとうでん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1996ねん ISBN 4-620-10548-1
  • 今野こんのさとしよしちんこぶし集英社しゅうえいしゃ 2005ねん ISBN 4-08-774755-7
  • とみめいこしめずらし恩師おんし安里あさと安恒やすつね先生せんせい逸話いつわ」。『こぶしだいはちごう慶應義塾けいおうぎじゅく体育たいいくかい空手からて機関きかん 昭和しょうわ9ねん所載しょさい論考ろんこうさいろく『がじゅまる通信つうしん』No.9 榕樹ようじゅしゃ 1996ねんとみめいこしめずらしきも護身ごしん から手術しゅじゅつ復刻ふっこくばん付録ふろくしょう冊子さっし
  • 東京大学とうきょうだいがく空手からてろくじゅうねん記念きねんごう編集へんしゅう委員いいんかいへん東京大学とうきょうだいがく空手からてろくじゅうねん[15]東京大学とうきょうだいがく拳法けんぽうかい 1985ねん

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