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芸防の渡し場跡 - Wikipedia コンテンツにスキップ

げいぼうわたあと

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

げいぼうわたあと[1](げいぼうのわたしばあと)は、安芸あきこく木野このむらげん広島ひろしまけん大竹おおたけ)と周防すおうこく小瀬こせむらげん山口やまぐちけん岩国いわくに)のさかいながれる小瀬川おぜがわ存在そんざいした、かんどう山陽さんようどう/西国さいごく街道かいどう)のわたぶねあと

かわげいぼうそれぞれべつばれており、安芸あきがわ木野川きのかわわた(このかわわたし)、周防すおうがわ小瀬川こせがわわた(おぜがわのわたし)[2]。うち広島ひろしまがわが「木野川きのかわわたあと」として大竹おおたけ指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい史跡しせき[2]

沿革えんかく

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このかわ安芸あき周防すおう国境こっきょうとなったのは天平てんぴょう6ねん(734ねん)だった[2]古代こだい山陽さんようどう整備せいびされた時点じてん下流かりゅう平野へいや存在そんざいせず、地形ちけいてき唯一ゆいいつとおることができたのがやや内陸ないりく木野このむら-小瀬こせむらのところであった[3]。(現在げんざい大竹おおたけ市街地しがいちおよび和木わきまち中心ちゅうしん江戸えど後期こうきから明治めいじ以降いこう干拓かんたくてによって形成けいせいされた[3]。)

佐伯さいきぐん廿にじゅうヶ村かそんきょう邑記』には、木野このむらわたのつなぎせき元和がんわ10ねん(1624ねん)に調ととのうとある[1]。1つのかわに2つのがあった(わたしのもそれぞれ2つあった)れい全国ぜんこくてきにもめずらしかった[2]わたちんは、文政ぶんせい2ねん(1819ねん)『くにぐんしむら御用ごよう付木つけぎ野村のむらしょじょうちょう』によると「船渡ふなわたしは役人やくにん武士ぶし)が無料むりょう・そのものが2ぶん牛馬ぎゅうばが4ぶん徒歩とほわたりは無料むりょう[2]おおくの旅人たびびとわたちん節約せつやくするためあるいてわたったとされる[よう出典しゅってん]

安政あんせい6ねん(1859ねん安政あんせい大獄たいごく江戸えど護送ごそうされることになった吉田よしだ松陰しょういんはここでいちのこしている[4]

夢路ゆめじにも かへらぬせきえて いまをかぎりと わた小瀬川こせがわ — 吉田よしだ松陰しょういん[4]

また幕末ばくまつ、この周辺しゅうへんだい長州ちょうしゅう征討せいとうさいげいしゅうこう安芸あきくち)のたたかいの舞台ぶたいとなった[2]

明治めいじになり伝馬てんま廃止はいしされると、地元民じもとみんによる民営みんえい渡船とせんとなった[1]。それも大正たいしょう10ねん(1921ねん両国橋りょうごくばし架橋かきょうし、でも渡河とかきょう次々つぎつぎけられていくと、わたしは廃止はいしされた[1]

ここの情景じょうけい松陰まつかげもとに、大竹おおたけ出身しゅっしん石本いしもと美由起みゆきが『きりわた』を作詞さくしした[5]

わた

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地図
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150 m
松蔭しょういん詩碑しひ
.

きゅう御茶屋おちゃや

船渡ふなわたしのところで、はば12あいだ×ふかさ4しゃく5すんやく22m×1.4m)[1]徒歩とほわたりのところで、はば12あいだ×ふかさ2しゃくやく22m×0.61m)[2][1]

わたもりは、両国りょうこくからされ2にん1くみでの交代こうたいせい[2]。あるいは3にんづつが昼夜ちゅうや3交代こうたいめていた、あるいはわたりぶねは1せきしかなく小瀬こせむらがわ常勤じょうきん3にん木野このむらがわ農民のうみん常時じょうじ一昼夜いっちゅうや交代こうたいつとめたとされる[1]。その費用ひようげいぼう両国りょうこく折半せっぱんだった[2][1]

木野このむら中津原なかつはらには川止かわどめなどのさいしょ大名だいみょう役人やくにん休憩きゅうけいしょとしてもちいる御茶屋おちゃやもうけられていた[2]

現状げんじょう

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かわのカーブの内側うちがわ国土こくど交通省こうつうしょう大竹おおたけにより親水しんすい公園こうえん小瀬川こせがわ木野この水辺みずべらくこう」として整備せいびされている。

  • わた史跡しせき
    • 復元ふくげん)ごじんじ - 大名だいみょう行列ぎょうれつわたるときに大名だいみょうかごいたいし[6]
  • 福島ふくしま堤防ていぼうまきせき護岸ごがん) - 広島ひろしまはん初代しょだい藩主はんしゅ福島ふくしま正則まさのり整備せいびしたという伝説でんせつのこ堤防ていぼう。「寛永かんえいとおるはちねんつくろえり」とある。いし堤防ていぼう前面ぜんめんせきじょうんで補強ほきょうしている[7]
  • 小林こばやし三角みすみ和久かずひさ - 元禄げんろく13ねん(1700ねん竣工しゅんこう福島ふくしま堤防ていぼう上流じょうりゅうがわにある三角形さんかっけいるようにまれた石組いしぐみみずせいこうであり、2つが連動れんどうして治水ちすい機能きのうしている。現在げんざいはコンクリートされた[7]
  • こうぞざらじょう - この付近ふきん和紙わし産地さんちであり工房こうぼう存在そんざいする。ここはその原料げんりょうであるコウゾかわかわさらすための場所ばしょ[6]
  • こうぞケナフくわはたけ - 和紙わし原材料げんざいりょうはたけ

ながひな会場かいじょうとしてももちいられている[6]

交通こうつう

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  • 坂上さかがみせんバス(大竹おおたけコミュニティバス)、「中津原なかつはらバス停ばすてい下車げしゃ徒歩とほ5ふん[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i げいぼうわたあと”. ひろしま文化ぶんかだい百科ひゃっか. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j ふるさと大竹おおたけ歴史れきし探訪たんぼう - 2” (PDF). 大竹おおたけ. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ a b CNCP通信つうしん vol.43”. シビルNPO連携れんけいプラットフォーム. p. 9. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 松陰しょういん小瀬川こせがわでのわか”. 岩国いわくに公式こうしき観光かんこうWebサイト. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  5. ^ 大竹おおたけ観光かんこうガイド” (PDF). 大竹おおたけ. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c 整備せいび事例じれい” (PDF). 国土こくど交通こうつうしょう. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 広島ひろしまけん” (PDF). 近世きんせい以前いぜん土木どぼく産業さんぎょう遺産いさん. 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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座標ざひょう: 北緯ほくい3412ふん26びょう 東経とうけい13211ふん36びょう / 北緯ほくい34.20722 東経とうけい132.19333 / 34.20722; 132.19333