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蔡遷

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蔡 遷(さい せん、生年せいねんしょう - ひろしたけ3ねん9月21にち1370ねん10がつ10日とおか))は、もとすえあきらはつ軍人ぐんじん蔡僊[1]ともかれる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

その出身しゅっしんられていない。いたりただし11ねん1351ねん)、しばあさしたがってじょしゅうった。いたりせい12ねん1352ねん)、しばあさトクトやぶれると、蔡遷はしゅもとあきら帰順きじゅんし、その先鋒せんぽうとなった。いたりせい15ねん1355ねん)、しゅもとあきらしたがって長江ながえわたり、さいせきくだし、太平たいへい攻略こうりゃくし、溧水を奪取だっしゅし、もとの蛮子うみきばみず寨やひね埜先を撃破げきはするにあたって、いずれも功績こうせきがあった。いたりせい16ねん1356ねん)、しゅもとあきらしゅうけい平定へいていすると、蔡遷はせんにんじられた。

じょいたるしたがって広徳ひろのりやすしこく奪取だっしゅし、まんてんじた。いたりせい17ねん1357ねん)、つねしゅう進攻しんこうし、元帥げんすいらえ、先鋒せんぽうとなった。うま馱沙への進攻しんこうしたがい、池州いけす攻略こうりゃくした。いたりせい18ねん1358ねん)、もみめ、衢州婺州への進攻しんこうしたがい、とばりぜん左翼さよく元帥げんすいにんじられた。いたりせい20ねん1360ねん)、ちんともりょうりゅうやぶり、進軍しんぐんして太平たいへい奪回だっかいした。いたりせい21ねん1361ねん)、あんけいみず寨を奪取だっしゅし、きゅう占領せんりょうした。みずあきらちんともりょうはちじん指揮しきやぶり、みなみあきら攻略こうりゃくした。いたりせい23ねん1363ねん)、あんゆたか救援きゅうえんしたがい、ごうこえ攻撃こうげきし、鄱陽みずうみたたか参戦さんせんした。いたりせい24ねん1364ねん)、たけあきらへの進攻しんこうしたがい、指揮しきどうすすんだ。

つねぐうはるしたがって鄧克明こくめい残党ざんとう掃討そうとうし、贛州進攻しんこうした。いたりせい25ねん1365ねん)、みなみやすみなみつよし奪取だっしゅし、へいかえしてにょうかなえしんちゃりょう追撃ついげきして、りゅう驤衛どうてんじた。いたりせい26ねん1366ねん)、じょいたるしたがってこう攻略こうりゃくし、うま騾港[2]やぶった。たけ徳衛とくえ指揮しき使にんじられ、淮安まもった。しゅう移駐いちゅうして守備しゅびした。じょいたるしたがって湘潭たつしゅうぜんしゅうどうしゅうながしゅうくだし、荊州まもる指揮しきとなった。いたりせい27ねん1367ねん)、広西ひろせ進軍しんぐんして経略けいりゃくし、広西ひろせゆきしょう参政さんせいてんじた。やすしこうおうしょうね、少数しょうすう民族みんぞく反抗はんこう鎮圧ちんあつした。

ひろし3ねん9がつ丙午ひのえうま(1370ねん10がつ10日とおか)、死去しきょした。その遺体いたい南京なんきんおくられてほうむられた。ぜん大夫たいふうえまもるぐんぎょうしょうみぎすすむ追贈ついぞうされ[3]やすとおこうついふうされた。おくりなたけじょうといった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ あかり功臣こうしんひょういち、『明太めんたい実録じつろくまき55ひろし3ねん8がつへいじょうおよびまき56ひろし3ねん9がつ丙午ひのえうまじょうはいずれも「蔡僊」とする。
  2. ^ あかりじょいたるでんは「うま騾港」とし、『あかり稿こう』蔡遷でんは「うま邏港」とする。
  3. ^ おうさだ『弇山どうべつしゅうまき40

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • あかりまき134 列伝れつでんだい22