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藤原 宣孝(ふじわら の のぶたか)は、平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。紫式部の夫。官位は正五位下・右衛門権佐。
円融朝末に六位蔵人兼左衛門尉を務め、永観2年(984年)円融天皇が花山天皇に譲位すると、宣孝は院判官代に補せられる。しかし、まもなく今度は花山天皇の蔵人に転じた。
一条朝の正暦元年(990年)筑前守に任ぜられて筑紫に赴任すると、正暦3年(992年)ごろ大宰少弐も兼ねている。のち、右衛門権佐として京官に復し、長徳4年(998年)山城守を兼ねるが、この頃に紫式部と結婚している。また、任官時期は不明なるも弁官を務めたらしいが、蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)と同時には兼帯せず、三事兼帯とはならなかったという[1]。
疫病のために長保3年(1001年)4月25日卒去。『紫式部集』には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている[注釈 1]。
正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行うが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれている。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたという[2]。
- ^ 和歌の意「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」(塩釜:海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市)
- ^ a b c 『尊卑分脈』
- ^ 『枕草子』「あはれなるもの」段
- ^ a b c d 『小右記』
- ^ 『蔵人補任』
- ^ 『平安遺文』354
- ^ 『天満宮託宣記』『江見左織所蔵文書』
- ^ a b 『権記』