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藤原ふじわらひろさとし

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藤原ふじわらひろさとし
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ うけたまわ4ねん5月28にち837ねん7がつ4にち
官位かんい したがえよんじょうだいおさむ大弐だいに
主君しゅくん 嵯峨天皇さがてんのう淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきょう
父母ちちはは ちち藤原ふじわらつぎ
兄弟きょうだい こうさとし清敏きよとしさとし貞敏さだとし
きょう
テンプレートを表示ひょうじ

藤原ふじわら ひろさとし(ふじわら の ひろとし)は、平安へいあん時代じだい初期しょき貴族きぞく藤原ふじわらきょうしたがえさん藤原ふじわらつぎ官位かんいしたがえよんじょうだいおさむ大弐だいに

経歴けいれき

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大同だいどう5ねん810ねんくすりへん直後ちょくごしたがえ叙爵じょしゃくされ、ひろしひとし3ねん812ねん備中びっちゅうもりにんぜられる。ひろじん13ねん822ねんしたがえじょうてんちょう元年がんねん824ねんせいてんちょう2ねん825ねんしたがえよん嵯峨さがちょうすえから淳和じゅんなちょう初頭しょとうにかけて急速きゅうそく昇進しょうしんする。

仁明にんみょうちょうではだいおさむ大弐だいにつとめ、うけたまわ元年がんねん834ねんけいくも筑前ちくぜんこく那珂なかぐん出現しゅつげんしたとのそうじょう提出ていしゅつ[1]うけたまわ3ねん836ねん)には遣唐使けんとうしふねから大使たいし藤原ふじわらつね)がわたりとう失敗しっぱいして漂流ひょうりゅう肥前ひぜんこくかえしたことから、遣唐使けんとうし人員じんいん大宰府だざいふ施設しせつへの収容しゅうよう遣唐使けんとうしせん修繕しゅうぜんいま肥前ひぜんもどってきていない一部いちぶ遣唐使けんとうしせん漂着ひょうちゃくそなえた嘉島かしまへの監視かんし人員じんいん配置はいち朝廷ちょうていからめいぜられている[2]。またこのあいだうけたまわ2ねん835ねんしたがえよんじょう昇叙しょうじょされた。

うけたまわ4ねん837ねん)5がつ28にち卒去そっきょ最終さいしゅう官位かんいだいおさむ大弐だいにしたがえよんじょう

かんれき

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ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

  • ちち藤原ふじわらつぎ
  • ははしょう
  • 生母せいぼしょう子女しじょ
    • 男子だんし藤原ふじわらきょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ぞく日本にっぽんうけたまわ元年がんねん正月しょうがつ16にちじょう
  2. ^ ぞく日本にっぽんうけたまわ3ねん7がつ17にちじょう

出典しゅってん

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