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藤原 継彦(ふじわら の つぐひこ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原京家、参議・藤原浜成の三男。官位は従三位・刑部卿。
宝亀11年(780年)従五位下に叙爵し、翌天応元年(781年)兵部少輔に任ぜられる。天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱において、父・浜成と共に連座して解官となる。のち赦されて、桓武朝では、延暦8年(789年)主計頭、延暦18年(799年)左少弁・陰陽頭、延暦24年(805年)左中弁、延暦25年(806年)民部大輔を歴任する。
平城朝でも引き続き民部大輔を務め、大同3年(808年)には正五位下に叙せられている。
嵯峨朝に入り、大同5年(810年)正月に従四位下に叙せられ、同年9月に薬子の変が発生すると山城守に任ぜられている。その後、弘仁5年(814年)従四位上、弘仁11年(820年)正四位下と順調に昇進し、弘仁13年(822年)には従三位に昇叙され公卿に列した[1]。またこの間、刑部卿を務めている。
天長5年(828年)2月26日薨去。享年80。
生まれつき聡明鋭敏であり、見識を有しており度量もあった。天文や暦法にも精通していた。管楽器・弦楽器にも熟練しており、曲の演奏に誤りがあると、酒杯を重ねて酔っていても必ずあと振り返って正したという[2]。
注記のないものは『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
- ^ 『日本後紀』弘仁13年11月1日条。『公卿補任』では従三位の叙位を天長3年正月7日とする。
- ^ 『日本後紀』天長5年2月26日条
- 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
- 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
- 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
- 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年