蘇我そがはてやす

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蘇我そが はてやす
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 天武天皇てんむてんのう元年がんねん7がつ2にち?(672ねん7がつ31にち
主君しゅくん 天智天皇てんぢてんのう
氏族しぞく 蘇我そがしん
父母ちちはは ちち蘇我そがくら麻呂まろ
兄弟きょうだい 石川いしかわ麻呂まろ連子つれこ日向ひなたあかけいはてやす
あり[1]
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蘇我そが はてやす(そが の はたやす)は、飛鳥あすか時代ときよ豪族ごうぞくせいしん蘇我そがくら麻呂まろで、蘇我馬子そがのうまこまごにあたる。くら麻呂まろ系統けいとう645ねん蘇我蝦夷そがのえみしにゅう鹿しかほろんでから蘇我そが本流ほんりゅうになった。石川いしかわ麻呂まろ連子つれこ日向ひなたあかけい兄弟きょうだいとされる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

天智天皇てんぢてんのう10ねん671ねん)1がつ5にちに、巨勢こせじんきの大人おとなとも大夫たいふになった。同日どうじつ大友皇子おおとものおうじ弘文天皇こうぶんてんのう)が太政大臣だじょうだいじん蘇我赤兄そがのあかえ左大臣さだいじんちゅうしんきん右大臣うだいじん任命にんめいされており、大夫たいふはこれに重職じゅうしょくであった。

同年どうねん10がつ17にち重病じゅうびょう天智天皇てんぢてんのう大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう)を大殿おおいどのれた。大海人皇子おおあまのおうじは、皇后こうごうつぎ天皇てんのうにたて、大友皇子おおとものおうじ皇太子こうたいしにするよう進言しんげんし、あわせてみずからの出家しゅっけもうた(天智天皇てんぢてんのううたがわれていることをさとり、謀反むほんうたがいをきつつきょうからはなれたものとかんがえられる)。2にちそうふく吉野よしのかう大海人皇子おおあまのおうじを、はてやす蘇我赤兄そがのあかえちゅうしんきんともうさぎどう宇治うじ)まで見送みおくった。

11月23にちに、大友皇子おおとものおうじふくめてうえげた6にん重臣じゅうしんは、内裏だいり西にし殿どの織物おりものぼとけまえちかいめいわした。まず大友皇子おおとものおうじ香炉こうろをとってち、「ろくにんしんおなじくして天皇てんのうみことのりほうじる。もしちがうことがあればかなら天罰てんばつこうむる」とちかった。あとの5にん香炉こうろにして次々つぎつぎち、「しんろくにん殿下でんかしたがって天皇てんのうみことのりほうじる。もしちがうことがあれば四天王してんのうつ。天神てんじん地祇ちぎも誅罰する。さんじゅうさんてんはこのことをあかれ。子孫しそんえ、家門かもんほろびよう」などときながらった。29にちに5にんしん大友皇子おおとものおうじほうじて天皇てんのうまえちかった。以上いじょうの『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつでは「天皇てんのうみことのり」の具体ぐたいてき内容ないようあきらかにされないが、一般いっぱんには大友皇子おおとものおうじつぎ天皇てんのう擁立ようりつすることと理解りかいされている。

29にちに5にんしん大友皇子おおとものおうじほうじて天智天皇てんぢてんのうまえめいした(内容ないよう不明ふめいだが、まえちかいとおなじだとおもわれる)。12月3にち天智天皇てんぢてんのう崩御ほうぎょした。

天武天皇てんむてんのう元年がんねん(672ねん)6がつ22にち大海人皇子おおあまのおうじ反乱はんらんみずのえさるらん)にみきり、美濃みのこく不破ふわへいあつめてそこにうつった。このさい山部やまべおう蘇我そがはてやす巨勢こせとう巨勢こせじん)が、すうまん兵力へいりょくひきいて大海人皇子おおあまのおうじつべく不破ふわけて進発しんぱつした。しかし7がつ2にちごろ犬上川いぬかみがわきしじんいたとき、山部やまべおうはてやすとう殺害さつがい理由りゆうは『日本書紀にほんしょき』にしるされない)されたため、混乱こんらんのため進軍しんぐんとどこおった。はてやすかえってからくびして自殺じさつした。なお、はてやすらん終結しゅうけつ配流はいるされた。

蘇我そがりゃく系図けいず SVGで表示ひょうじ対応たいおうブラウザのみ)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ蘇我そが 古代こだい豪族ごうぞく興亡こうぼう』(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2015ねん