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西村にしむら中和ちゅうわ

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西村にしむら 中和ちゅうわ(にしむら ちゅうわ、なま没年ぼつねんしょう)とは、江戸えど時代じだい中期ちゅうき京都きょうと浮世絵うきよえ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

京都きょうとひとたち梅渓ばいけいともごうす。のち法橋ほっきょうじょせられている。ふつこうてら烏丸からすま西入にしいりまちんでいた。作画さくが寛政かんせい6ねん1794ねん)から文政ぶんせい8ねん1825ねん)のころで、しゅとして名所めいしょ図会ずえ読本とくほんるい中心ちゅうしん年代ねんだい節用せつようしゅうなどの挿絵さしええがいている。『近江おうみ名所めいしょ図会ずえ』、『紀伊きい国名こくめいしょ図会ずえ』、『木曽きそ名所めいしょ図会ずえ』などの名所めいしょ図会ずえ、『義経よしつね勲功くんこう図会ずえ』、『くすのき正行まさゆき戦功せんこう図会ずえ』などの読本とくほん、『林泉りんせん名勝めいしょう図会ずえ』という地誌ちしなどがられている。中和ちゅうわのこれらの名所めいしょ図会ずえは、みずからが旅行りょこうしてりえたことにもとづいてえがかれたものであり、当時とうじ風物ふうぶつなどをよく描写びょうしゃしていた。『紀伊きい国名こくめいしょ図会ずえ』はぜんよんへんはつへんへんろくかん10さつさんへんろくかん7さつ後編こうへんろくかん6さつ)からなり、中和ちゅうわはつへんからさんへん挿絵さしええがいている。なお後編こうへん挿絵さしえ小野おの広隆ひろたかえがいた。

作品さくひん[編集へんしゅう]

  • 近江おうみ名所めいしょ図会ずえろくかん4さつ 秋里あきさと籬島まがきじまはた石田いしだへん西村にしむら中和ちゅうわしとみ関月かんげつ 寛政かんせい9ねん(1797ねん
  • 林泉りんせん名勝めいしょう図会ずえろくかん6さつ 秋里あきさと籬島まがきじまさく 西村にしむら中和ちゅうわ佐久間さくまくさ偃・おくぶん 寛政かんせい11ねん(1799ねん
  • 源平げんぺい盛衰せいすい図会ずえろくかん6さつ 読本とくほん 秋里あきさと籬島まがきじまさく西村にしむら中和ちゅうわおくぶん 寛政かんせい12ねん1800ねん[1]
  • 絵本えほん年代ねんだいろくかん5さつ 秋里あきさと籬島まがきじまさく とおる3ねん(1803ねん
  • 養蚕ようさん秘録ひろくさんかん3さつ 養蚕ようさんぎょう 上垣うえがきまもるこくしる 西村にしむら中和ちゅうわ速水はやみ春暁しゅんぎょうとき とおる3ねん(1803ねん
  • 木曽きそ名所めいしょ図会ずえろくかん7さつ 秋里あきさと籬島まがきじまへん 文化ぶんか2ねん(1805ねん
  • 早見はやみきょう絵図えず文化ぶんか10ねん(1813ねん
  • やまと節用せつようしゅう悉改嚢/音訓おんくんりょうてんいちさつ 節用せつようしゅう 俣野またのどおりなおへん 西川にしかわ祐信すけのぶ西村にしむら中和ちゅうわ速水はやみ春暁しゅんぎょうとき 文政ぶんせい元年がんねん(1818ねん
  • くすのき正行まさゆき戦功せんこう図会ずえ前編ぜんぺんさつ 後編こうへんろくさつ 読本とくほん てい散人さんじん校訂こうてい 文政ぶんせい4ねん(1821ねん
  • 義経よしつね勲功くんこう図会ずえ前編ぜんぺんかん 後編こうへんかん20さつ 読本とくほん こう花堂はなんどうていさく 文政ぶんせい8、9ねん(1825・1826ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 同書どうしょは 『国書こくしょそう目録もくろく』では、寛政かんせい6ねん(1794ねんばん宮内庁くないちょうしょりょう所蔵しょぞうされているとしるしている。しかし、しょりょうほんじつ査してもかんねんく、松本まつもとやま序文じょぶん寛政かんせい11ねんで、これも寛政かんせい12年版ねんばんかんがえられる(村重むらしげけいおくぶんについて」『ぜん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きよう だいじゅうろくごう』 2002ねん12月、p.214)。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 藤懸ふじかけ静也しずや 『ぞうてい浮世絵うきよえ』 雄山閣ゆうざんかく 1946ねん 192ぺーじ ※近代きんだいデジタルライブラリー本文ほんぶんあり。
  • 日本にっぽん浮世絵うきよえ協会きょうかいへん 『原色げんしょく浮世絵うきよえだい百科ひゃっか事典じてん』(だい2かん) 大修館書店たいしゅうかんしょてん 1982ねん