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貞心ていしんあま

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

貞心ていしんあま(ていしんに、寛政かんせい10ねん1798ねん) - 明治めいじ5ねん2がつ11にち1872ねん3月19にち))は、江戸えど時代じだい後期こうき曹洞宗そうとうしゅう尼僧にそう良寛りょうかん弟子でし歌人かじん俗名ぞくみょう奥村おくむらます法名ほうみょうこうしつ貞心ていしん比丘尼びくに(こうしつていしんびくに)、こうしつ貞心ていしんあま(こうしつていしんに)。

貞心ていしんあま法名ほうみょうをもつ尼僧にそう複数ふくすういるが、この記事きじでは良寛りょうかん愛弟子まなでしこうしつ貞心ていしんあまについてべる。

経歴けいれき

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貞心ていしんあま一般いっぱんひろめたのには、大正たいしょう初期しょき刊行かんこうされた『北越ほくえつ偉人いじん沙門しゃもん良寛りょうかんぜんつて』(西郡にしごおり久吾きゅうごちょ)および『北越ほくえつ名流めいりゅうのこかおる』(今泉いまいずみ鐸次ろうちょ)のちょ貞心ていしんあま名前なまえと『はちすの[1]』が紹介しょうかいされたことがもととなり、やがて昭和しょうわ初年しょねん相馬そうま御風ぎょふうの『良寛りょうかん貞心ていしん』その一連いちれん良寛りょうかん研究けんきゅう普及ふきゅうした。 — 小出こいでまち教育きょういく委員いいんかい 、『小出こいでまち上巻じょうかん、1996, p. 1015.

こうしつ貞心ていしんあまは、長岡ながおかはん 奉行ぶぎょうぐみ 五代ごだい 奥村おくむら兵衛ひょうえ嘉七かしち[2]次女じじょ・ます として寛政かんせいじゅうねん越後えちごこく長岡ながおかげん新潟にいがたけん長岡ながおか)にまれた。『柏崎かしわざき文庫ぶんこ』(別名べつめい甲子きのえね次郎じろう文庫ぶんこ』、せき甲子きのえね次郎じろうちょ:せききねじろう)だい11かん9ぺーじに「釋迦堂しゃかどう庵主あんしゅ 貞心ていしんあま 長岡ながおか藩士はんし 奥村おくむら兵衛ひょうえ二女じじょ 寛政かんせいじゅうねん」としるされている(柏崎かしわざき図書館としょかんソフィアセンター所蔵しょぞう)。

貞心ていしんあま本名ほんみょう「ます」については1958ねん昭和しょうわ33ねん)に木村きむら秋雨あきさめ調査ちょうさによって判明はんめいした。天保てんぽうぼうねんねんごろといわれる)に小出こいで[3]おとずれた貞心ていしんあまは、じん松原まつばらゆきどう[4]たずね、良寛りょうかん肖像しょうぞうえがいてもらいたいと依頼いらい。そのれい良寛りょうかんからの手紙てがみわたした。

先日せんじつびょうのりやうじがてらに与板よいたまいりこう。そのうへあしたゆくはら(はら)いたみ、草庵そうあん(えんまどう)もとむらはすなりこう寺泊てらどまりほうかん(とだっ)おもひ、地蔵堂じぞうどう中村なかむら宿やどり ゐまにふせり、また(まだ)寺泊てらどまりへもゆかすこう。ちきり(ちぎり)にたかひ(ちがい)こうごと 大目おおめらふ(らん)じたまはるべくこう

  あきはぎのはなのさかりもすきにけり ちきり(ちぎり)しこともまたとけ(げ)なくに

 御状おんじょう地蔵堂じぞうどう中村なかむらにて (披)致候[5]  良寛りょうかん

 はちがつじゅうはちにち

あてがないのは貞心ていしんあまったからとされている。

 この書幅しょふくにはさらにひとつの逸話いつわがある。それは貞心ていしんあま本名ほんみょうであるが、じつ昭和しょうわ戦後せんごしばらくまで不明ふめいとされてきたもので、「ます」とかったのは、この書幅しょふくめに、「ますあまあて」(ますすなわちマス)とかれてあったことによるという(木村きむら秋雨あきさめ貞心ていしんあま雑考ざっこう昭和しょうわさんじゅうさんねん)。おそらく書幅しょふく最初さいしょ所持しょじしゃ ゆきどうおぼえとしてしるしたものであろう。  — 小出こいでまち教育きょういく委員いいんかい 、『小出こいでまち 上巻じょうかん』1996, p. 1014.

俵谷たわらやゆかりすけちょ良寛りょうかん愛弟子まなでし 貞心ていしんあま福島ふくしま歌碑かひ[6]によれば、菩提寺ぼだいじ長興寺ちょうこうじにある「天明てんめいよんねんかぶとたついちななはちよんねんがつよし日常にちじょう什物じゅうもつ[7]」に、同家どうけ過去かこちょうしるされ、「[8]じゅうさんせいとしつよし大和尚だいおしょうきおかれた奥村おくむら過去かこちょう現存げんそんしている」という。

俵谷たわらやはその所在しょざいを、「牧野まきのはん奉行ぶぎょうぐみ」「奥村おくむら兵衛ひょうえ また嘉七かしち 奉行ぶぎょうぐみじゅうせき鉄砲てっぽうぞう[9]、「だい あかりだけさとしとう居士こじ 文政ぶんせいきゅうへいいぬ正月しょうがつ朔日さくじつ」と記述きじゅつし、奥村おくむら過去かこちょう[10]にも「いち 文政ぶんせいきゅういぬ正月しょうがつ だいへいエ」[11]とあることから、貞心ていしんあまちちは、文政ぶんせいきゅうねんいちがついちにち(1826ねん2がつ7にち)にくなっている。

上杉うえすぎそうこうあん[12]は「鉄砲てっぽうだい」と記述きじゅつしている[13]

前号ぜんごう所載しょさいわたしたち貞心ていしんあま生家せいか奥村おくむらいえたずねたのは、こん昨年さくねん日記にっきるとじつ昭和しょうわねんいちがつじゅうななにちである。とき模様もよういまここではりゃくするとして、仝いえ過去かこちょうーーこれは仝いえ菩提寺ぼだいじ長興寺ちょうこうじにてうつしたもの[14]ーーをかかげてみる。   じゅうせき 荒屋敷あらやしき 奥村おくむら嘉七かしち  鉄砲てっぽうだい 兵衛ひょうえ  奥村おくむら兵衛ひょうえ 先祖せんぞ また嘉七かしち — 上杉うえすぎそうこうあん 、「貞心ていしん雑考ざっこう中村なかむら昭三しょうぞうへん貞心ていしんあまこう』1995, p. 23

俵谷たわらやは「鉄砲てっぽうぞう」、上杉うえすぎは「鉄砲てっぽうだい」としているが、長興寺ちょうこうじ過去かこちょう確認かくにんするしかない。上杉うえすぎの「鉄砲てっぽうだい」は実際じっさい要職ようしょくであり、具体ぐたいてき信憑しんぴょうせいがある。魚沼うおぬま 櫻井さくらい彦右衛門えもんによれば、「兵衛ひょうえ」「みぎ衛門えもん」は長男ちょうなんけられる名前なまえであり、「嘉七かしち」「彦助」は長男ちょうなん名前なまえではないという。したがって、「嘉七かしち」は、分家ぶんけした初代しょだい名前なまえかんがえられる。〕

幼少ようしょう(1~13さい

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奥村おくむらます[15]は、3さい実母じつぼくし、継母けいぼきびしくそだてられた。行灯あんどんおおいをかけて、人目ひとめをしのんでほんんだり、囲炉裏いろりはい文字もじいた。また、ちんいと仕事しごとをしてまったがくおやわたし、のこりのおかねふで和紙わしすみった。12さいのとき、柏崎かしわざき佐藤さとう彦六のむすめうめ」(佐藤さとうたいら養母ようぼはちじゅうはは)が奥村おくむらのとなりのいえ女中じょちゅう奉公ほうこうをしていて、ますを柏崎かしわざきによくあそびにれていった。14さいごろ長岡ながおかじょう御殿ごてん奉公ほうこうをしている。

ははについては、上杉うえすぎ俵谷たわらやは「月光げっこうさだえん大姉だいし 寛政かんせいじゅう庚申こうしんねんじゅうがつきゅうにち(1800ねん11月25にちだいつま」、同家どうけ過去かこちょうにも「九日ここのか 月光げっこうさだえん大姉だいし 寛政かんせいじゅうねんじゅうがつ 貞心ていしんあまはは」とあることから、奥村おくむらます3さい[16]のときにくなっている[17]。ますの継母けいぼについて俵谷たわらやは「(だい後妻ごさいじつさとるみょうどう大姉だいし 天保てんぽうよんねん癸巳きし正月しょうがつ廿にじゅうにち 後妻ごさい貞心ていしんあま継母けいぼ)」としるし、同家どうけ過去かこちょうにも同様どうよう記述きじゅつがあり、貞心ていしんあま36さいのときにくなっている。

兄弟きょうだいについては、俵谷たわらや以下いか記述きじゅつからにんおとこ兄弟きょうだいがいたことがわかる。したがって、法名ほうみょうとう不明ふめい長女ちょうじょだけである。 (ろくだい) 法山のりやまみち居士こじ 天保てんぽうはちちょうとりねんがつじゅうにち ろくだい兵衛ひょうえごと貞心ていしんあま兄弟きょうだい)      法山のりやまひろしどう居士こじ 天保てんぽうじゅうからしうしねんがつ廿にじゅういちにち 兵衛ひょうえ貞心ていしんあま兄弟きょうだい

釈迦堂しゃかどう貞心ていしんあま孫弟子まごでしで70さいあまは1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつかたった。

貞心ていしんさま長岡ながおかはん奥村おくむらむすめ継母けいぼにきびしくそだてられ、アンドンにくつがえ[18]をして人目ひとめをしのんでまなんだ、ときいています。 柏崎かしわざきからおうめさんという「こんなの」と片目かためをつむってせる。このおうめさんについて柏崎かしわざき幼時ようじよくられたのが因縁いんねんとなって、たまらなくなつかしいところで此処ここら[19]みたくなったという — 松原まつばらけいさく 、「貞心ていしんあま はる釈迦堂しゃかどう貞心ていしんく」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1950ねん3がつ20日はつか

薬師堂やくしどう庵主あんしゅは1959ねん昭和しょうわ34ねん)4がつ17にちにこうかたった。

10さいころはじめてうみて「こんなところでほんんでいたいなあ」とひとごとをした — 松原まつばらけいさく 、「遺墨いぼく史跡しせき 史跡しせき柏崎かしわざきさがせねる」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1959ねん4がつ23にち

薬師堂やくしどう座敷ざしきからうみ見下みおろした景色けしききたである。薬師堂やくしどうえんはしこしけてひとごとしたという。

12さいとき柏崎かしわざきで「讀書どくしょ[20]けし[21]せばうれしからんと獨語どくご[22]す」(『柏崎かしわざき文庫ぶんこだい11かん9ぺーじ: 1884ねん明治めいじ17ねん)より起稿きこうされた)とあり、薬師堂やくしどう庵主あんしゅった内容ないよう一致いっちする。

中村なかむらふじはちは、1911ねん明治めいじ44ねん5月21にち午前ごぜん釈迦堂しゃかどうさとしゆずるあま[23]おとずれ、貞心ていしんあまについてききした。

前略ぜんりゃく庵主あんしゅさまさとしゆずるチジヤウ)あまより聞取ききとしょ 貞心ていしんあま長岡ながおかきゅう藩士はんし奥村おくむらぼうせいレ(長岡新ながおかしん屋敷やしき)〔中略ちゅうりゃく貞心ていしんあまようニシテ母親ははおやべつレまゝとナリ(ちんいとおやぜんヘハ毎日まいにち〃〃申付もうしつけたけシ其余きん筆墨ひつぼくもとめがくぶん[24]ヲセラテタルトノごと(イロリニカヤヲしょうクニ手拭てぬぐいヲカブリ)ロ(ろ)ノちゅうニテはゑガキ[25]シタモノナリ 前方ぜんぽう[26]朝夕ちょうせきかりゆか[27]シテきょがくぶんおのれ出来できルモノニこれ[28]後略こうりゃく — 中村なかむらふじはち 、『きよしぎょう餘事よじ柏崎かしわざき図書館としょかん[29]

  上杉うえすぎそうこうあんは、こうべている。

貞心ていしんあまじゅうとし柏崎かしわざき生家せいか女中じょちゅうーー柏崎かしわざき本町ほんちょうよん丁目ちょうめ佐藤さとうたいら先代せんだい佐藤さとうたいら養母ようぼはちじゅうおんなははなるひとに、「うみがみたい」というところから、女中じょちゅう親分おやぶんたる柳橋やなぎばし関谷せきや大八だいはちまりにて、かの中浜なかはま薬師堂やくしどう付近ふきんあそび、風光ふうこう明媚めいびなるにしんひかれて「こういうしょさんのような生活せいかつがしたい」と低徊ていかい[30]りえなかったとい、…〔後略こうりゃく — 上杉うえすぎそうこうあん 、「貞心ていしん雑考ざっこう中村なかむら昭三しょうぞうへん貞心ていしんあまこう』1995, p. 20

相馬そうま御風ぎょふうは、つぎのようにべている。

それにしても貞心ていしんあま何故なぜ自分じぶん剃髪ていはつとしてとく柏崎かしわざきえらんだかというに、それにはこうした因縁いんねんがある。それは彼女かのじょがまだ長岡ながおか生家せいか愛育あいいくされていたころのことであった。彼女かのじょいえ隣家りんか柏崎かしわざき佐藤さとう彦六というもののむすめ女中じょちゅう奉公ほうこうをしていた。そのおんな少女しょうじょ時代じだい貞心ていしんことそとかあい[31]がって、時々ときどき柏崎かしわざきはなしをしてかせた。わけても長岡ながおかではることの出来できないうみについてのいろいろのはなしが、少女しょうじょ好奇心こうきしんをそそらずにはいなかった。 そして彼女かのじょじゅうさいとき、ついにそのうみたいするあこがれにられて、彼女かのじょ隣家りんか女中じょちゅうれられて柏崎かしわざきへとうみかけた。はじめてうみ光景こうけいは、彼女かのじょにとりてはたしかに一種いっしゅ驚異きょういであつた。就中なかんづく柏崎かしわざき郊外こうがい中濱なかはま[32]というところにあった薬師堂やくしどう附近ふきん明媚めいび[33]風光ふうこうが、兎角とかく[34]ものかんやすかった彼女かのじょしんがた印象いんしょうをのこした。「いつまでもいつまでもこんなところにいたいものだ」というようなその土地とちたいする愛着あいちゃく場合ばあい彼女かのじょむねおこったのであった。こんなわけで、後年こうねん彼女かのじょ人生じんせい無常むじょうかんじて出家しゅっけ遁世とんせい[35]こころざしいだくようになったさいにも、さき[36]だいいち彼女かのじょしんえがされた隠棲いんせいはその柏崎かしわざき郊外こうがい薬師堂やくしどうであった。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 21
貞心ていしんあまのう[37]き、うたのうみ、文章ぶんしょうのういた。良寛りょうかん和尚おしょうった最初さいしょからうた贈答ぞうとうをしているところからると、むすめ時代じだいから相当そうとう教養きょうようあたえられていたのであろう。 とにかくむすめ時代じだいから貞心ていしんあまがすぐれた才女さいじょであったであろうことは想像そうぞう出来できる。そしてまたかなり勝気かちき性質せいしつおんなであったろうこともうかがわれる。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「貞心ていしんあま雜考ざっこう」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 63

長岡ながおかじょう御殿ごてん奉公ほうこう(14~15さいごろ

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奥村おくむらますは、長岡ながおかしろ現在げんざい上越新幹線じょうえつしんかんせん長岡ながおかえき付近ふきん城跡じょうせき)の御殿ごてん奉公ほうこう[38]をしていた(14さいごろか?)。竜光りゅうこうげん魚沼うおぬまりゅうひかり)で幼少ようしょうごしたほし杏子きょうこむすめころに、竜光りゅうこう 下村しもむら分家ぶんけの72さいばあさんから度々たびたびいたはなし[39]

貞心ていしんあまは〕ななじゅうさいくなるまで、ななひゃくさんじゅうしゅあまりうたをのこした。とくさんじゅうさい良寛りょうかんってから、その才能さいのう花開はなひらいたといってよい。武家ぶけむすめであれば、当然とうぜんはなちゃうた心得こころえはあったであろう。だから良寛りょうかん以前いぜんから、堂上どうじょうてきうたつくっていたとおもわれるが、よくわからない。 — 谷川たにがわ敏朗としろう 、「良寛りょうかん貞心ていしんあまのこころ」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』1993, p. 20

結婚けっこん相手あいて 文化ぶんかきゅうねん

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せきちょうあつし[40] 魚沼うおぬまぐん 龍光りゅうこうむら[41] 庄屋しょうや 下村しもむら藤蔵とうぞう 次男じなんとして、天明てんめいろくねんころまれる。[42] おさなくしてこころざし、吉水よしみずむら漢方かんぽう御殿ごてんでもある せき道順みちじゅん[43]養子ようしりした。 長岡ながおかじょう師匠ししょうとともに随伴ずいはんしたときに、奥村おくむらます(のちの貞心ていしんあま)を見初みそめる。 ますは、かんざしをわたしたという伝承でんしょうのこされている。 こうして、武家ぶけむすめ漢方かんぽうという身分みぶんのある結婚けっこんにより、ふたりは龍光りゅうこうむら 下村しもむら挙式きょしきし、吉水よしみず師匠ししょうのところへゆき、その小出こいで嶋村しまむらった。(しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん小出こいで貞心ていしんあま」)

貞心ていしんあま出家しゅっけするまえとついだとう、北魚沼きたうおぬまぐん小出こいでまちざい龍光りゅうこうむら目下めしたほりうちむら[44]医師いしぼう[45]とはどんなじんか、…どう[46]区長くちょう 下村しもむら東作とうさくから懇篤こんとくなる御返事おへんじいただいた…。「…じつは、自分じぶんいえは、明治めいじ初年しょねんより不幸ふこう続出ぞくしゅつ相続そうぞくじん大抵たいてい短命たんめいわたし廿にじゅう[47]としごろちちわかれるとう関係かんけいで、…わずかにのこって記録きろくを…たどるよりそとありません。 

一透了関居士(ろくだい きよしみぎまもる門弟もんてい 医業いぎょう) せき なが ぬる

はじめどうぐん吉水よしみずむら せき道順みちじゅん養子ようしとなり其後小出島こいでじま開業かいぎょう  文政ぶんせいじゅうがつじゅうよんにち小出島こいでしまおいそつ[48]す。 

 …年頃としごろい、医師いし小出島こいでじま龍光りゅうこうとう綜合そうごうしてると、此のせきちょうあつし家内かない貞心ていしんあまらしくおもわれます。幼少ようしょうころ養家ようかにいったらしく、…わたしいえいまでも年忌ねんきおこない、れいかいかんにもってところからますと、あるい嗣子しし[49]もなく養家ようかにもほねおさまらぬのではなかったかと想像そうぞうされます。…漢方かんぽう医者いしゃ色々いろいろ道具どうぐわたし土蔵どぞうにあって、わたしきょう兄弟きょうだい幼少ようしょうころ玩具おもちゃにしてあそんで大抵たいていこわしてしまったようであります。おっととうからると死歿しぼつすると同時どうじぎょうをやめ…。じょ[50]ながらろくだいきよしみぎ衛門えもん家内かない長岡ながおか藩士はんし木村きむらただしみぎ衛門えもんむすめとあり、法名ほうみょうみつぞういん解脱げだつみょううみ大師だいしとあります…。…いちがつさんじゅうにち 下村しもむら東作とうさく 」 — 上杉うえすぎそうこうあん 、「貞心ていしん雑考ざっこう中村なかむら昭三しょうぞうへん貞心ていしんあまこう』1995, pp. 51~54

結婚けっこん時代じだい 文化ぶんかじゅうねん文政ぶんせいよんねん(16さい~24さい

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つき天心てんしん」というさけ醸造じょうぞうしたりゅうひかりげん魚沼うおぬま竜光りゅうこう下村しもむら酒造しゅぞういえにおいて、挙式きょしきしたとつたえられる。(詳細しょうさい編集へんしゅう予定よてい

結婚けっこん時代じだい住居じゅうきょあとは、ながらく不明ふめいであったが、魚沼うおぬま良寛りょうかんかい調査ちょうさにより、小出こいで嶋村しまむら下町したまちきた 西井にしいくち だいもん(ダイモン)であることがわかった。(下記かき古文書こもんじょ史料しりょうより「だいもん」となる。)

えんづけキタルないトテつくえむこうヲ而巳[51][52]しょ致シきょラレタルよし 往年おうねん近傍きんぼうひと[53]らいさとしゆずるあま物語ものがたりタルトカ — 中村なかむらふじはち 、『きよしぎょう餘事よじ[29]
文政ぶんせいさんねん1820ねん十二月じゅうにがつじゅうにちいち どうべいいちたわら だいもん(だいもん) ○ちょうあたたかし」(文政ぶんせいさんねん 西井にしいくちにちかん』。この○の意味いみ不明ふめい — 山本やまもとあきらなり[54] 、「しん資料しりょうによりくつがえされる「はま庵主あんしゅさま伝承でんしょう良寛りょうかん貞心ていしんあま魚沼うおぬま」2007, p. 28

おっととの離縁りえん文政ぶんせいよんねんあきごろ 24さいごろ

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貞心ていしんあま離縁りえんはちきゅう年間ねんかん夫婦ふうふトナル) — 中村なかむらふじはち 、『きよしぎょう餘事よじ
文政ぶんせいよんねん1821ねんがつにち天気てんきよし ななにち(なのかいち) 神楽かぐららい(かぐらきた)ル 立山たてやま(たてやま) 開帳かいちょう参詣さんけい(さんけい) 山行さんこう 入用いりよう 茂兵衛もへいより たいいちまい だいひゃく五拾ごじっぶん ます(ます)ひゃく廿にじゅうぶん 玉子たまご すやだいはちひろえぶん しゅしょう みぎわれ(みぎのわり)ゆう兵衛ひょうえ 素面しらふ(すずら) ちょうあつしない[55] そと もちだい」(文政ぶんせいよんねん(1821ねん西井にしいくち[56]いえにちかん』。) (この端午たんご(たんご)の節句せっくだい旦那だんなさま気心きごころれた人達ひとたち恒例こうれいやまゆうさん(やまゆさん やまあそび)をします。そこにせきちょうあつしのご内儀ないぎ(ないぎ)がかんそともちだいした、とめます。)(この時点じてんでます婦人ふじん小出島こいでしま[57]たとかんがえます。)(さとしゆずるあまが「ろくねん」とも「はちきゅうねん」とも婚姻こんいん期間きかんはちきゅう年間ねんかんだったとおもいます。)このとし日記にっきたい備忘録びぼうろくにちかん(にっかん)』は、この五月ごがつじゅうななにち以降いこうあたりません。 — 山本やまもとあきらなり 、「しん資料しりょうによりくつがえされる「はま庵主あんしゅさま伝承でんしょう良寛りょうかん貞心ていしんあま魚沼うおぬま」2007, p. 30

出家しゅっけ柏崎かしわざき新出にいで(しで)のやま文政ぶんせいねん 25さいごろ~30さい

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彼女かのじょ[58]中濱なかはま[32]薬師堂やくしどうたずねたときには、おりあしくそこの庵主あんしゅ不在ふざいであった。とって一旦いったんはつねんした出家しゅっけこころざしをそのままおさえていつまでも安閑あんかんとしているわけにもゆかなかったので、彼女かのじょすすめるひとのあるにまかせてちょう[59]柏崎かしわざき郊外こうがい下宿しもじゅくむら新出しんで(しで)のやまというところにあん[60]むすんでいたねむりりゅう[61]こころりゅう[62]二人ふたり尼僧にそうたずねて、そこでいよいよ剃髪ていはつとなった。(いん[63]にいう、貞心ていしん剃髪ていはつ新田にった(しで)[64]やま庵室あんしつはそのねむりりゅうこころりゅうりょうあま柏崎かしわざき釈迦堂しゃかどううつってからはひどく廃頽はいたいして今日きょうではそのあとかたもないということである。) じゅうさいわかさで、しかも人並ひとなみすぐれた美貌びぼう持主もちぬしであった剃髪ていはつ当時とうじ貞心ていしんは、とにかく土地とち人々ひとびとうわさたねとなった。師匠ししょう命令めいれいやまたきぎ[65]りにったりすると、むら人達ひとたちをそばだててこそこそなにかささやきったりしてかなりうるさかったというはなしである。そしていつのにか村人むらびとたちあいだに「あね庵主あんしゅ(あんじゅ)」という仇名あだな[66]さえいふらされるようになった。此のねむりりゅうこころりゅうりょうあま受業じゅぎょう[67]したに、貞心ていしんじゅうななさいころまでくるしい修行しゅぎょうをつづけた。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, pp. 21~22

長岡ながおか福島ふくしま 閻魔えんまどう時代じだい文政ぶんせいじゅうねんさんがつ~ 30さい~44さい

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上杉うえすぎそうこうあんさとしゆずるあまからいたはなしに、こうある。

また福島ふくしま[68]時代じだいおもっては『福島ふくしま稲葉いなばには、勧進かんじん物乞ものごい)にものおおかった。わし[58]托鉢たくはつるとそのばあさんたちさんにんもついてくる。そうしてるともらい[69]いが沢山たくさんあるので、ばあさんたちはすかさずわたしのちまわる。そしてわたし長岡ながおか荒屋敷あらやしき貞心ていしんあま実家じっか奥村おくむら)へまわって点心てんしん昼食ちゅうしょく)をすましてかえころは、ばあさんたちはとうにかえっていた』とげんはれた。 — 上杉うえすぎそうこうあん 、「貞心ていしん雑考ざっこう中村なかむら昭三しょうぞうへん貞心ていしんあまこう』1995, p. 146
そしてじゅうはちさい(?)[70]とき[71]もと[72]はなれて古志こし[73]ぐん福嶋ふくしま[68]むら[74]閻魔えんまどうむことになった。福嶋ふくしま彼女かのじょ郷里きょうり長岡ながおかからはわずかにさとへだてたところであるから、彼女かのじょがそこにむようになったのも郷里きょうりちかいということがひとつの原因げんいんでもあったとおもう。この福嶋ふくしま閻魔えんまどう貞心ていしんあまじゅう年間ねんかんんでいた。年齡ねんれいからいうとじゅうななはちさいごろからよんじゅうさい前後ぜんこうまでである。しかもそのじゅう年間ねんかん貞心ていしんあまにとりてはいち生涯しょうがいちゅうでのさい意義いぎあり、かつさい光輝こうきある時代じだいであった。彼女かのじょはじめて良寛りょうかん和尚おしょうえたのも、両者りょうしゃあいだにもまれなるうつくしいまじりのむすばれたのも、また彼女かのじょ良寛りょうかん和尚おしょうったのも、じつにそのあいだのことだったからである。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, pp. 22~23

良寛りょうかんうために木村きむら訪問ほうもん文政ぶんせいじゅうねんはる よんがつじゅうにちごろ 30さい

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貞心ていしんあまは、良寛りょうかんうために、文政ぶんせいじゅうねんよんがつじゅうにち前後ぜんこうはじめて木村きむらおとずれ、卯月うづきじゅうにち[75]つけ手紙てがみ木村きむらしている。[76]

なに[77]かたにか御座ぎょざなされこうやらん やがてまたあつき[78]時分じぶんかへりゆうさるべくとそんこうへば どふぞやそのみぎりまいりたきものとぞんじまゐらせこう わたくしもまづ当分とうぶん柏崎かしわざきへはかへらぬ[79]つもりにて さえわひ[80]此ほどふくじま[81]さるところにあき[82]あんゆうこうまヽ 当分とうぶんそこをかりるつもりにいたし あとのつきよりまいりおりこう されどへんぴ[83]のところよへ便たよとおこうまゝ もしぶんくださるともほかのあぶらや左衛門さえもんさままでしゅっしくだされば 長岡ながおかまで日々ひび便たよゆうこうまゝさやうなしした[84]こう 何事なにごともまためもじのふしゆるゆるさるじょうべく まづは御礼おれいまでにあらあらめでく かしく

  卯月うづきじゅうにち   貞心ていしん

のとやもとみぎ衛門えもんさま うち殿御とのごもとへ

著者ちょしゃほりもも[85]べているように、この書簡しょかん文政ぶんせいじゅうねんよんがつのものとおもわれる。前半ぜんはんけているようだが、「なにかたにか御座ぎょざなされこうやらん」とある人物じんぶつは、良寛りょうかんしているのではあるまいか。良寛りょうかんよんがつ、すでにみつぞういんはいっていたわけだ。また貞心ていしんあまは、「あとのつきよりまいりおりこう」としるしているので、さんがつから長岡ながおかざい福島ふくしま閻魔えんまどううつったようだ。それまでは柏崎かしわざきざい下宿げしゅく(しもじゅく)で、尼僧にそう同志どうし共同きょうどう生活せいかつつづけていた。 — 谷川たにがわ敏朗としろう 、『良寛りょうかん 伝記でんき年譜ねんぷ文献ぶんけん目録もくろく』1980, p. 400
[86]なにかたにか御座ぎょざなされこうやらん、やがてまたあつき時分じぶんかへりゆうさるべくとそんこうへば、どふぞやそのみぎりまいりたきものとぞんじまゐらせこう。わたくしも、まづ当分とうぶん柏崎かしわざきへはかへらぬつもりにて、さえわひ此ほどふくじまとさるところにあきあんゆうこうまヽ、当分とうぶんそこをかりるつもりにいたし、あとのつきよりまいりおりこう下略げりゃく)」 の、[87]能登のともとみぎ衛門えもんかた[88]てた卯月うづき[89]じゅうにち書簡しょかん前文ぜんぶんかけというが、(ほりもも前掲ぜんけいしょ[90])この書出かきだしは良寛りょうかん禅師ぜんじ動静どうせいつたえたものに相違そういなく、そうだとすれば、[91]島崎しまざきうつった翌年よくねんのこととなり、あとのつきすなわ文政ぶんせいじゅうねんさんがつ[92]福島ふくしまえんま[93]どううつるやいなじか島崎しまざきおとずれあんしたのであろう。〔中略ちゅうりゃく良寛りょうかん文政ぶんせいきゅうねんじゅうがつきゅうにち島崎しまざき遷居を阿部あべじょうちん[94]ほうじ、翌年よくねんなつよんがつ早々そうそうであろう)寺泊てらどまり照明寺しょうめいじみつぞういん寓居ぐうきょ[95]したことを再度さいどていちん通知つうちしている。したがって前記ぜんき詞書ことばがきの(1)[96]出会であまえまりの贈答ぞうとうは、はやしゆう[97]ほん良寛りょうかん禅師ぜんじ歌集かしゅう」の付箋ふせんに「この贈答ぞうとううた貞心ていしんあま良寛りょうかん禅師ぜんじをとひ[98]けるに、おはし[99]まさヾりけれバ、まりにこれやこのうたをそへて[100]のこしおきける。につきてみよのうたをかへしだま[101]あまねきよしいふ」とあるように、みつぞういん仮寓かぐう在中ざいちゅう出来事できごとであった。 — みや 栄二えいじ 、「貞心ていしんあま良寛りょうかん : せきちょうあつしとの離別りべつせつ」『越佐こつさ研究けんきゅう』40, 1980
ところで、木村きむらてた貞心ていしん手紙てがみによると、よんがつじゅうにち前後ぜんこう貞心ていしんは、木村きむら訪問ほうもんしたらしい。良寛りょうかんうためだった。しかし残念ざんねんなことに、良寛りょうかんはすでにみつぞういんうつっていたので、貞心ていしんはむなしくかえらざるをなかった。その手紙てがみなか貞心ていしんは、「やがてまたあつき時分じぶんかへりゆうさるべくとそんこうへば、どふ(ママ)ぞやそのみぎりまいりたきものとぞんじまゐらせこう」とべ、さらに「もしぶんくださるとも与板よいたのあぶらや左衛門さえもんまでくだされば、長岡ながおかまで日々ひび便たよゆうこうまゝ、さやうなししたこう」と、良寛りょうかんあんしたならばらせてくれるように、それとなく依頼いらいしている。婉曲えんきょく態度たいどなかにも、貞心ていしん熱意ねついかんじられる。 — 谷川たにがわ敏朗としろう 、「良寛りょうかん貞心ていしんあまのこころ」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』1993, pp. 20~21

富沢とみざわ信明のぶあき 新潟大学にいがただいがく名誉めいよ教授きょうじゅが、良寛りょうかん貞心ていしんあま出会であいを文政ぶんせい10ねんあきであることを裏付うらづける良寛りょうかん直筆じきひつしょ2011ねん平成へいせい23ねん)9がつ上旬じょうじゅん発見はっけんした。

貞心ていしんあま良寛りょうかん最初さいしょたずねたときには、良寛りょうかんきゅう寺泊てらどまりまち長岡ながおか)にある照明寺しょうめいじみつぞういん滞在たいざいしていてえず、そのはじめてえたのは26ねん[102]か27ねんごろで、場所ばしょきゅう和島わしまむらどう)の木村きむらだったとされていた。良寛りょうかんみつぞういんにいた時期じきかれば、貞心ていしんあまはじめてったのがいつかについて特定とくていできるが、からないままだった。   富沢とみざわさんがつけたのは、「観音堂かんのんどうわきみつぞういん)のあん(いおり)で‥‥‥」ではじまる漢詩かんしふく良寛りょうかん直筆じきひつ遺墨いぼく。〔中略ちゅうりゃく漢詩かんしのほかに、短歌たんかが2しゅかれており、かみ冒頭ぼうとうに「夏作なつさく」とあることから、亥年いどし(いのししどし)のなつまれたことがかった。短歌たんか1825ねん文政ぶんせい8ねん)~1829ねん文政ぶんせい12ねんごろ作品さくひんとされていたが、このあいだ亥年いどしは27ねん文政ぶんせい10ねん)しかないため、漢詩かんしまれたのは27ねんなつで、この時期じきにはみつぞういんにいたと特定とくていした。さらに初対面しょたいめん2人ふたりみあったうたで、良寛りょうかんあきよるさむさについてんでいることから、2人ふたりったのはあきだったとみられる。良寛りょうかんは28ねんなつ木村きむらにいたことがべつ史料しりょうでわかっているため、富沢とみざわさんは「貞心ていしんあま良寛りょうかん初対面しょたいめんは27ねんあきだった」と結論けつろんづけた。 — —  、読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん 新潟にいがたみなみ12はん、2011ねん10がつ26にち

うたまりを木村きむらあづける(文政ぶんせいじゅうねんなつ うるうろくがつじゅうにちごろ 30さい

[編集へんしゅう]

〔「あつき時分じぶん」の晩夏ばんか貞心ていしんあま木村きむらおとずれた。うるうろくがつじゅうにち[103]満月まんげつごろ貞心ていしんあまうた手毬てまりって木村きむらおとずれたであろうが、またしても良寛りょうかんえない。みつぞういんにいた良寛りょうかん頻繁ひんぱん木村きむらおとずれただろう。貞心ていしんあまうた手毬てまりかれて日数にっすうがあまりたぬうちに良寛りょうかん返歌へんかした。〕

これぞこの ほとけのみちにあそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ   貞心ていしんあま

出会であまえまりの贈答ぞうとうは、はやしゆう[97]ほん良寛りょうかん禅師ぜんじ歌集かしゅう」の付箋ふせんに「この贈答ぞうとううた貞心ていしんあま良寛りょうかん禅師ぜんじをとひ[98]けるに、おはし[99]まさヾりけれバ、まりにこれやこのうたをそへて[100]のこしおきける。につきてみよのうたをかへしだま[101]あまねきよしいふ」とあるように、みつぞういん仮寓かぐう在中ざいちゅう出来事できごとであった。 — みや 栄二えいじ 、「貞心ていしんあま良寛りょうかん : せきちょうあつしとの離別りべつせつ」『越佐こつさ研究けんきゅう』40, 1980, p. 54
「あつき時分じぶんかへりあそばさるべくとそんこうへばどふぞやそのみぎりまいりたきものとぞんじまゐらせこう」とべているから、貞心ていしんあまなつりに良寛りょうかん木村きむらたずねたのだろう。そのおり手作てづくりのかさ土産みやげにしたらしい。しかし良寛りょうかん留守るすだったので、うた木村きむらたくしておいたとおもわれる。あきかえりあんした良寛りょうかんはそのうたて、返歌へんかおくった。それが「かへし」のうたである。「つきてよ」といっているから、貞心ていしんあま訪問ほうもんうながしたとてよい。 — 谷川たにがわ敏朗としろう 、『良寛りょうかん 伝記でんき年譜ねんぷ文献ぶんけん目録もくろく』1980, p. 403

文政ぶんせいじゅうねんは、立春りっしゅん いちがつきゅうにち=1827ねん2がつ4にち立夏りっか よんがつじゅういちにち=5月6にち立秋りっしゅう うるうろくがつじゅうろくにち=8がつ8にち立冬りっとう きゅうがつじゅうきゅうにち=11月8にちとなる。現代げんだいていほうによる計算けいさんただ文政ぶんせい時代じだい実際じっさいこよみには数日すうじつ誤差ごさがあるといわれる。〕

良寛りょうかんは、貞心ていしんあま返歌へんか手紙てがみおくる(文政ぶんせい10ねんあき うるうろくがつじゅうよんにち

[編集へんしゅう]
やがて立秋りっしゅうぎ、良寛りょうかん島崎しまざきかえってきた。そして貞心ていしんおくものうた関心かんしんったのである。そこで良寛りょうかんは、貞心ていしん手紙てがみおくった。

すぎしころは、てまりみうたをそへてたまはり、うやうやしくをさめまいらせこう

つきてみよひふみよいむなやこゝのとを とをとおさめてまたはじまるを

 みなづき廿にじゅうよんにち

貞心ていしん上座かみざ[104]                      良寛りょうかん

 このとしは、ろくがつ閏月じゅんげつがあった。この手紙てがみは、〔文政ぶんせいじゅうねんうるう[105]六月ろくがつじゅうよんにちづけ[106]のものである。陽暦ようれきでは、はちがつじゅうろくにちだった。そろそろはぎはなこうとする時節じせつである。うたはじめに「つきてみよ」とある。「かさ[107]をついてみなさい」の意味いみのほか、「自分じぶんいて修行しゅぎょうしてみなさい」に意味いみもこめられていよう。あんに、良寛りょうかん貞心ていしん弟子入でしいりをみとめたかたちになっている。また良寛りょうかんうたで、仏法ぶっぽう無限むげんはかれないことをおしえている。〔中略ちゅうりゃく〕ただ、この書簡しょかんにして貞心ていしんただちに島崎しまざきおもむいたとしても、それははやくてもなながつはいってからであろう。良寛りょうかん書簡しょかん塩入しおいりとうげ[108]えて与板よいたの「あぶらや」にはこばれ、おりよい船便せんびんによって長岡ながおかはこばれる。そして、長岡ながおかめられる。貞心ていしん托鉢たくはつのついでなどでってるのであるから、現在げんざい運送うんそう事情じじょうとは、おおいにことなったのである。 — 谷川たにがわ敏朗としろう 、「良寛りょうかん貞心ていしんのこころ」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』1993, pp. 21~23

良寛りょうかんう(文政ぶんせい10ねんあき 30さい

[編集へんしゅう]

貞心ていしんあま編纂へんさんした『はちす[109]』には、良寛りょうかん貞心ていしんあまわした和歌わかじゅうすうしゅしるされている。以下いか文政ぶんせいじゅうねんあき木村きむら別邸べっていわした和歌わかである。(編集へんしゅうちゅう

良寛りょうかんが「はくたへのころもでさむしあきよるつきなかぞらにすみわたるかも」とうたっていることから、貞心ていしんあま木村きむら良寛りょうかんはじめてったのは、あきとなる。

はじめてあひけんまつりて              貞心ていしんあま

きみにかくあひることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおも

かへし                    良寛りょうかん

ゆめにかつまどろみてゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに

いとねもごろなるみちのものがたりによるもふけぬれば 良寛りょうかん

はくたへのころもでさむしあきよるつきなかぞらにすみわたるかも

されどなほあかぬこゝちして           貞心ていしんあま

こうひゐて千代ちよ八千代やちよてしがなむなしゆくつきのことといはずとも

かへし                    良寛りょうかん

しんさへかはらざりせばはふつたのたえずむかはむ千代ちよ八千代やちよ

いざかへりなんとて               貞心ていしんあま

ちかへりまたもとひこむたまほこのみちのしばくさたどりたどりに

                        良寛りょうかん

またもこよやまのいほりをいとはずばうす尾花おばなのつゆをわけわけ

貞心ていしんあままよいに良寛りょうかんからの手紙てがみ文政ぶんせい11ねん11月=ふゆ 31さい

[編集へんしゅう]

貞心ていしんあまがまとめた「はちすの」には、良寛りょうかんとの贈答ぞうとうっている。〕

  ほどへてみせうそこきゅうはりけるなかに

 きみやわするみちやかくる丶このごろはまてどくらせどおとづれもなき    〔このうたは、良寛りょうかん貞心ていしんあま出会であった翌年よくねんあきにはかなら約束やくそくをしていたにもかかわらず、姿すがたあらわさぬ貞心ていしんあま良寛りょうかんてた書簡しょかんなかにあるもの。『良寛りょうかん書簡しょかんしゅう』(谷川たにがわ俊朗としろうへん 恒文社こうぶんしゃ)p. 297 によれば、つぎのように良寛りょうかんうたが、当初とうしょうたわれたじゅんのままに、手紙てがみのこっていることがわかる。このうたまれた状況じょうきょうるには、谷川たにがわ解説かいせつ不可欠ふかけつである。ながくなるがどうちょから引用いんようする。〕

かへし

 ひさかたのつきのひかりのきよければ

  てらしぬきかり からもやまとも

  むかしもいまも うそもまことも

  やみもひかりも

 はれやらぬ みねのうすぐもたちさりて のちのひかりとおもはずやきみ

  ふゆのはじめのころ

 きみやわするみちやかくる丶このごろハ  まてどくらせどをとづれのなき

  りょう ひろし   霜月しもつきよんにち   ○この書簡しょかんにも宛名あてながない。しかし、うたはいずれも『はちすの』にあるから、貞心ていしんあまあて書簡しょかんである。この書簡しょかんはじめにある「かへし」とは、つぎ貞心ていしんあまうたたいしてである。

やまのはのつきはさやかにてらせども まだはれやらぬみねのうすぐも   〔貞心ていしんあま

 貞心ていしんあまは、仏法ぶっぽうたいするさとりがまだられないことを、良寛りょうかんうったえたのである。それにたいして良寛りょうかんは、つきひかりのようなきよとうとほとけのみしんは、とう(から)のくに日本にっぽんも、むかしいまも、うそも真実しんじつも、やみ世界せかいあかるい世界せかいも、みなおなじようにらして理解りかいするようにしておられる。だから、あなたもやがてふつのみしん理解りかいできるであろうと、うたおしえたのであった。  このうたは、わった形式けいしきである。従来じゅうらい歌集かしゅうにはないようだ。その形式けいしきなか良寛りょうかんは、空間くうかん世界せかい時間じかん世界せかい内面ないめん世界せかい外面がいめん理念りねん世界せかいたいにして、月輪げつりんのごときまる円満えんまん仏法ぶっぽうは、宇宙うちゅう実相じっそうをわけへだてなく、あまなくらしている、とおしえたのである。 さらに良寛りょうかんは、あなたのしんまよいはやがてり、つきひかりのような仏法ぶっぽうひかりが、あらゆる隅々すみずみまで、きっとらしすだろうよ、そのように、あなたは仏法ぶっぽうさとることができるはずだ、とうたしめした。これらのうたせっした貞心ていしんあまは、仏法ぶっぽう理解りかいでき、そのよろこびをうたにして良寛りょうかんおくった。

ひともうそもまこともへだてなく らしぬきけりつきのさやけさ
めぬればやみひかりもなかりけり 夢路ゆめじらす有明ありあけつき 〔貞心ていしんあま

 良寛りょうかんも、すぐに祝福しゅくふくうたかえした。

あめしたまんつるだまよりこがねより はるはじめのきみがおとづれ 〔良寛りょうかん

 なお、書簡しょかん最後さいごうたについて、『はちすの』のなか貞心ていしんあまは、「ほどへてきせうこそきゅうはりけるなかに」と詞書ことばがきをつけ、返歌へんかしるしている。

  かへしたてまつるとて           〔貞心ていしんあま

ことしげきむぐらのいほにとぢられて
  みをばこ丶ろにまかせざりけり
 良寛りょうかんは、貞心ていしんあま訪問ほうもん約束やくそくちがえて、なかなかてくれない不満ふまんを、それとなくべたのである。それにたいして貞心ていしんあまが、訪問ほうもんできなかったいわけをうたしめしたのであった。 なお、『はちすの』の、この部分ぶぶん頭注とうちゅうに、「こはひとあんに」りしときなり」と、貞心ていしんあまきしている。このころ貞心ていしんあまは、柏崎かしわざき二人ふたり尼僧にそうのもとで、庵室あんしつこめ(こも)って修行しゅぎょうにいそしんでいたのである。すると、この書状しょじょう文政ぶんせいじゅういちねんいちはちはちじゅういちがつよんにちのものかもしれない。 — 谷川たにがわ俊朗としろうへん 、『良寛りょうかん書簡しょかんしゅう』1988, pp. 297~300

良寛りょうかん寂滅じゃくめつ天保てんぽう2ねん1がつ6にち

[編集へんしゅう]
貞心ていしん良寛りょうかんきゅうくと、としれの庵主あんしゅつとめをして、島崎しまざきへかけつけました。このときの良寛りょうかん様子ようすを、貞心ていしんは--さのみなやましきご気色けしきにあらず、ゆかうえしゐたまへるが--とのべています。良寛りょうかん最後さいご気力きりょくをふりしぼって、ゆかうえにきちんとすわって貞心ていしんをむかえたのです。

 貞心ていしんをとると、もうほとんど言葉ことばにはならず、そのこうなみだをこぼしながら、ようやくこうみました。

いついつとちにしじんはきたりけり いまはあひけんてなにかおもはむ  〔良寛りょうかん

貞心ていしん良寛りょうかん耳許みみもとくちをよせて、わかれのうたげました。

せいにのさかひはなれてすむにも さらぬわかれのあるぞかなしき

しかしこのときはもう、〔良寛りょうかんは〕うたをかえすちからもなくほとんどきとれないほどの、覚束おぼつかないこえで、つぶやくように

うらをせおもてをせてちるもみぢ
とだけげたそうです。…それから数日すうじつのち最愛さいあい貞心ていしんにみとられながら、良寛りょうかんしずかにななじゅうよんねん生涯しょうがいじました。天保てんぽうねん正月しょうがつろくにちの、ゆきふりしきる夕方ゆうがたのことでした。 — 重次しげつぐ[110] 、「『はちすの断章だんしょう」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』1993, pp. 57~59
貞心ていしんにとっては、永遠えいえん良寛りょうかんかたつづけたかったのである。この情熱じょうねつ良寛りょうかんはしっかりけとめ、貞心ていしんさとりにいたるまで、仏道ぶつどう中心ちゅうしんいてかせたのであった。  しかし、こうしたにごりのないしん交流こうりゅうも、ながくはつづかなかった。貞心ていしん懇篤こんとく看病かんびょうむなしく、良寛りょうかん直腸ちょくちょうがんのために、天保てんぽうねんいちはちさんいち正月しょうがつろくにち死亡しぼうした。死期しきせまったとき貞心ていしん連歌れんが形式けいしきんだ。
るにてかへるにたりおきなみ

おきなみのように、人間にんげんにまたあたらしいいのちまれわって、人類じんるいいのち永遠えいえんである。あなたのおしんわたしなかにしっかりときつづけるはずだと、いうのであろう。 すると良寛りょうかんは、くるしいいきをつきながら、

あきらかりけりきみこと

おうじた。あなたの言葉ことばはありがたく、すばらしい。そのとおりだという意味いみであろう。この良寛りょうかんとの連歌れんがは、貞心ていしんにとって肉体にくたい以上いじょうつよしん合一ごういつであった。たんなる贈答ぞうとううたではない。合一ごういつうたであった。 また、良寛りょうかんちかいのをった貞心ていしんは、かなしみのあまり、

せいにのさかいはなれてにもさらぬわかれのあるぞかなしき

んだ。貞心ていしんは、ふつつかえるでありながら、けられないによってわかれなければのは、まことにかなしいという、それにたいして良寛りょうかんは、つぎ発句ほっくしめした。

うらひょうせて紅葉こうよう(もみじ)

このについて貞心ていしんは、「はちすの」で、

「こはみづからのにはあらねど、ときにとりあひのたまふ いといとたふとし」とべている。貞心ていしんにとって、このとくたっとかんじられたのは、なぜだったのだろう。良寛りょうかん発句ほっくなかに、自分じぶんはやがていきるが、あなたにはわたししんのすべてをしめしてみせたから、いまおもいのこすことはない、という意味いみふくませたものであろう。  — 谷川たにがわ敏朗としろう 、「良寛りょうかん貞心ていしんのこころ」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』1993, pp. 24~26

良寛りょうかん肖像しょうぞう天保てんぽう5ねん 37さい

[編集へんしゅう]

天保てんぽうぼうねん(5ねんごろといわれる)に小出こいでげん魚沼うおぬま本町ほんちょう付近ふきん)をおとずれた貞心ていしんあまは、じん松原まつばらゆきどう本名ほんみょう松原まつばら俊蔵しゅんぞう住居じゅうきょあと現在げんざい魚沼うおぬま本町ほんちょう1丁目ちょうめ タケヤ時計とけいてん昭和しょうわ区画くかく整理せいりまえにおいては「かねき」衣料いりょうひんてん場所ばしょ出典しゅってん 魚沼うおぬま良寛りょうかんかい 貞心ていしんあま紹介しょうかいパンフレット)をたずね、良寛りょうかん肖像しょうぞうえがいてもらいたいと依頼いらい。そのれい良寛りょうかんからの手紙てがみ「 先日せんじつびょうのりやうじがてらに與板よいた[111]まいりこう そのうへあしたゆくちょう[112]いたみ草庵そうあんもとむらはずなりこう 寺泊てらどまりほうかんおもひ地蔵堂じぞうどう中村なかむら宿やどり いまにふせり まだ寺泊てらどまりへもゆかずこう ちぎりにたがひこう事大じだいらふじたまはるべくこう  あきはぎのはなのさかりもすぎにけりちぎりしこともまだとけなくに   はちがつじゅうはちにち    良寛りょうかん 」をわたした。[113]

ゆきどうによる良寛りょうかん肖像しょうぞう完成かんせいしたときのうたつぎのものとおもわれる。〕

良寛りょうかん禅師ぜんじ肖像しょうぞうさん うきぐものすがたはこゝにとゞむれどしんはもとのそらにすむらむ  — 相馬そうま御風ぎょふう 、「貞心ていしんあましょう」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 251

はちす(はちすのつゆ)』(~天保てんぽう6ねん5がつ ~38さい

[編集へんしゅう]
貞心ていしんあま自筆じひつ歌集かしゅう体裁ていさいは、たて24センチ、よこ16.5センチで和紙わしふくろとじにした冊子さっしほんである。表紙ひょうし裏表紙うらびょうしのぞいて50ちょう・100ページからなっている。内容ないよう良寛りょうかん略伝りゃくでん良寛りょうかん歌集かしゅう良寛りょうかん貞心ていしん唱和しょうわうたつづき、このあとにもとめあん(ふぐあん)のこと、山田やまだしずさと(やまだせいり)おうのこと、良寛りょうかん禅師ぜんじ戒語、はちす命名めいめいのことなどが、すべ貞心ていしんあまふでによってかれている。天保てんぽう6ねん5がつ完成かんせい良寛りょうかんぼつ4ねんたる。中村なかむらふじはちおきなおにしゅうした「中村なかむら文庫ぶんこちゅうにあり、1975ねん昭和しょうわ50ねん)に指定してい文化財ぶんかざいとなる。※ 閲覧えつらんには数種類すうしゅるい出版しゅっぱんされているふく製本せいほん利用りようされている。また、ビデオ2ほん視聴しちょうできる。 — — 、柏崎かしわざき市立しりつ図書館としょかんソフィアセンター発行はっこう史跡しせきパンフレット

柏崎かしわざき釈迦堂しゃかどう庵主あんしゅ天保てんぽう12ねん3がつよしみなが4ねん4がつ 44~54さい

[編集へんしゅう]
そのうち彼女かのじょ最初さいしょ受業じゅぎょう[114]であつたこころりゅういもうとであるねむりりゅうあま天保てんぽうきゅうねんよんがつじゅうにち示寂じじゃくし、つづいて天保てんぽうじゅういちねんろくがつ廿にじゅうはち[115]にち彼女かのじょこころりゅうえんさびした。そして天保てんぽうじゅうねんさんがつ彼女かのじょ正式せいしき柏崎かしわざきほら雲寺くもでら[116]たいぜん[117]和尚おしょうについて得度とくどしきりょう血脈けちみゃく相続そうぞくして、あらためてあといで柏崎かしわざき釈迦堂しゃかどう庵主あんしゅとなった。それは彼女かのじょよんじゅうよんさいときであった。それ以後いごける貞心ていしんあま生活せいかつまずしいうちにもきわめて平和へいわであった。良寛りょうかん和尚おしょうおなじように彼女かのじょもまたおおくの人々ひとびとから愛敬あいきょうされ、彼女かのじょあんいちめんそれらの人々ひとびとにとりての道場どうじょうであるとともに、他面ためんつね春風しゅんぷうめぐまれたたのしいあそ場所ばしょとなっていた。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 40

もとめあん時代じだいよしみなが4ねん9がつ明治めいじ5ねん 54~75さい

[編集へんしゅう]
そしてよしみながよんねん彼女かのじょ在中ざいちゅう火災かさいって釈迦堂しゃかどう焼失しょうしつ[118]したのちおいても、彼女かのじょ[58]彼女かのじょうたともでありかつみちともであった山田やまだしずさとはじおおくの人々ひとびと寄進きしんによって真光寺しんこうじ[119]しょうするてらがわあたらしい草庵そうあんむすんでもらい、そこにやすらかな生活せいかつつづけることが出来できた。その草庵そうあん施主せしゅ山田やまだしずさとによってもとめあん[120]づけられた。それははちじょうよんじょうさんじょうとのさんあいだしかないせまあんであった。彼女かのじょはそこににん弟子でしともんでいた。しかし、それでさえも彼女かのじょには勿体もったい[121]ないほどひろかんじられた。なおそのあんもとめあん命名めいめいしたについて施主せしゅ山田やまだしずさとはこんなようにいている。その文章ぶんしょう当時とうじ貞心ていしんあまそのひと世間せけんからどんなふうられていたかの証左しょうさともなるとおもうから、ここにその全文ぜんぶんかかげてくことにする。

 「よろづのものおのれにもとめむより、もとめずしておのづからるこそ、まことのるとはいふべけれ。されば佛説ぶっせつにもせいけいにもさるすぢにをしへありとぞ  此庵のあるじ貞心ていしんあまのぬしは、年頃としごろふつみちのおこなひはさらなり、つきはなのみやびよりそとにいささかもとむることなく、よろず[11]むなししんものしたまふ。月日つきひ和歌わかうらしんをよせて、あまころもたちなれぬる人々ひとびとはかねてよりよくはべりぬ。しかるにことしのひさしがつすえつかたまがつわざわいひにてもとまひたまひしあたりもひとつらのやけとなりぬれば、かのこころしれる人々ひとびともろともにことはからひつゝ、あらたにさゝやかなるくさあんむすびて、あるじをうつしすゑまゐらすことゝはなりぬ。これや、さはもとめずしておのづからにるともうんふべけれとて、もとめあんとはづけはべるになむ。  もとめなきこころひとつはかりそめのくさあんみよかるらむ  こはよしみながよんねん長月ながつき[122]なかばのことにぞありける。かくいふは方寸ほうすんきょのあるじのおうしずさと

 こうした里人さとびとたちのあたたかな愛敬あいきょうのうちに、貞心ていしんあまにん弟子でしたちともきよやすらかな晩年ばんねんおくることをたのであった。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, pp. 40~42

良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう出版しゅっぱん尽力じんりょく慶応けいおう元年がんねん?~慶応けいおう3ねん3がつ 68?~70さい

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加藤かとう僖一は、こうべている。

良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう』は、慶応けいおう3ねん、わがくに最初さいしょ刊行かんこうされた良寛りょうかん詩集ししゅうである。しかも唯一ゆいいつ木版もくはんほんであり、資料しりょうとしても書物しょもつとしても、非常ひじょう貴重きちょうせいたかい。編者へんしゃぞうくも和尚おしょうは、うえしゅう前橋まえばしりゅううみいんだい29せい住職じゅうしょく明治めいじ2ねんぼつ本書ほんしょ巻頭かんとうかかげられた良寛りょうかん肖像しょうぞうも、良寛りょうかん弟子でし貞心ていしんあまあまねきよし下絵したえ参考さんこうにして、ぞうくも和尚おしょういたものである。(相馬そうま御風ぎょふうちょ良寛りょうかんひゃくこう』、渡辺わたなべしげるえいこう註『大愚たいぐ良寛りょうかん』による)」、「ぞうくも和尚おしょうひろし4ねん越後えちご巡錫じゅんしゃく[123]してき、そのいち柏崎かしわざきざい吉井よしい善法寺ぜんぽうじにすんでいたことがある。良寛りょうかん和尚おしょう遺稿いこう感銘かんめいをうけ、ごうあんたずねたり、貞心ていしんあまともい、良寛りょうかん詩集ししゅうおもったようである。」、「良寛りょうかん肖像しょうぞうが、口絵くちえいちぺーじえがかれている。この肖像しょうぞうまえにもふれたように、貞心ていしんあま原画げんがき、ぞうくも和尚おしょう仕上しあげたといわれている。まだ写真しゃしんなどなかった時代じだいであるから、このが、もっともよく良寛りょうかん風貌ふうぼうをとらえた貴重きちょう資料しりょうといえよう。右肩みぎかたには「良寛りょうかん道人どうじん肖像しょうぞう」と篆書てんしょかれている。この肖像しょうぞうのウラはしろで、つぎに「良寛りょうかん道人どうじん略伝りゃくでん」が、よんぺーじにわたって掲載けいさいされている。ぶんはやはりぞうくも和尚おしょうしょあおやまぼし嶂というひとになる隷書れいしょたい。なかなか装飾そうしょくせいむきれいな隷書れいしょである。良寛りょうかん略伝りゃくでん手際てぎわよくまとめ、かつ、貞心ていしんあまから、しばしば助言じょげんをうけたことをきとどめている。 — 加藤かとう僖一 、『良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう ちょん』1982, pp. 140~142[124]

加藤かとう僖一は、『良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう ちょん』の解説かいせつに、こうべている。

大島おおしま花束はなたば[125]の『良寛りょうかん全集ぜんしゅう』には、貞心ていしんあまぞうくも和尚おしょうあてした手紙てがみ収録しゅうろくされている。その一部いちぶに「詩集ししゅういちさつ序文じょぶんとおり、島崎しまざきへんきよしもう法師ほうし年頃としごろ禅師ぜんじしたしくいたししひとにて、此度ひらきばん[126]ことにつき、わざわざわたしかた持参じさんいたされこうまま、差上さしあにかけまいらせこうときおなじことにこうへど、所々しょしょぶんじのあやまりあるを、学者がくしゃあらたなおしたりとのことこう序文じょぶん俗人ぞくじんさくにてさのみるべきところもなきやうにこうへど、慰のためめ、御覧ごらんまいらせこう便びんかへしした[84]こう。」とあり、みぎ詩集ししゅうのほかに、あまねきよしあつめた詩集ししゅうをも参考さんこうにしていることがわかる。またここにふれられている序文じょぶんは、鈴木すずき文台ぶんだい[127]あたりのになるものをさすとおもわれるが、俗人ぞくじんさくとばかり、きびしいきめつけかたをしている。 — 加藤かとう僖一 、『良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう ちょん』1982, p. 141

相馬そうま御風ぎょふうは、こう擁護ようごしている。

貞心ていしんあま良寛りょうかん和尚おしょう詩集ししゅう開板かいはんしゃであるうえしゅう前橋まえばしりゅううみいんぞうくも和尚おしょうてた手紙てがみなかに、学者がくしゃぼう良寛りょうかん和尚おしょうあつめたのはいいが、それに文字もじあやまりがあるといって所々ところどころあらたなおしたのはけしからぬ、また序文じょぶんごときも俗人ぞくじんまたしん良寛りょうかんそのひとかいしないものいたのはきにおとるというようなことをいっている。そうしたてんでは、貞心ていしんあまもなかなか一家いっか見識けんしきこうしていたらしい。世間せけんなみさんでなかったことは、こんなごとからだけでも想像そうぞう出来できる。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「貞心ていしんあま雜考ざっこう」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 54
慶応けいおうさんねん貞心ていしんあまななさいさんがつうえしゅう前橋まえばしりゅううみ院主いんじゅぞうくも[128]和尚おしょうが、良寛りょうかんいちはちしゅ法華ほっけさんしゅおさめた『良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう』(良寛りょうかんかん詩集ししゅう最初さいしょ刊行かんこう)を江戸えど出版しゅっぱんしたが、書中しょちゅう良寛りょうかん道人どうじん略伝りゃくでんに、「またしばしば(しばしば)さん貞心ていしんあまなるものいて、履践りせん(りせん)ふういろどりしょう(つまびらか)にす」(原詩げんし漢文かんぶん)とことわっているとおり、良寛りょうかん閲歴えつれき、とくに巻頭かんとう画像がぞうについては貞心ていしんあまによるところがおおきかった。画像がぞうのこされた良寛りょうかんぞうのうちもっともしんせまるといわれ、原画げんが貞心ていしんあまによるものとされているが、かつてゆきどうによってえがかれたぞうへの記憶きおくによるところがおおきいものとされている。  — 小出こいでまち教育きょういく委員いいんかい 、『小出こいでまち 上巻じょうかん』1996, pp. 1014-1015

貞心ていしんあま寂滅じゃくめつ明治めいじ5ねん2がつ 75さい

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 貞心ていしんあま小出こいで西井にしいくち慶応けいおうさんねん、70さいのときにおとずれて、下記かきうたのこしていった。現在げんざい不明ふめいであるが、西井にしいくちのこ貞心ていしんあまひつ短冊たんざく(たんざく)をひかえた記録きろくが、松原まつばらあきらさく研究けんきゅうろくのこっている。[129]

しょうせつうたをかきたるものどう家蔵かぞう

不二ふじ みるたひにめづらしきかなくもきりの たちきょにかほるふしのすかたは ななじゅうさい 貞心ていしん 」

明治めいじみずのえさるがつじゅういちにち[130]こうしつ貞心ていしんあま寂滅じゃくめつ。 「辞世じせいうたは るにてかへるにたりおきなみ たちゐはかぜくにまかせて であった。はかほら雲寺くもでら裏山うらやま墓地ぼちにある。」[131]

良寛りょうかんあいされた貞心ていしんあま

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相馬そうま御風ぎょふうは、つぎのようにべている。

古来こらい男女だんじょあいだ唱和しょうわされたうたひろられているものは、無論むろんすくなくない。しかし、今日きょうまでにわたしみずかんだものでは、万葉まんよう集中しゅうちゅう少数しょうすうのぞそとは、その表現ひょうげん切実せつじつあじを以ってむねをうつようなさくには、あまりおおせっすることが出来できなかった。ところが、じゅうすうねんまえはじめて良寛りょうかん和尚おしょううたみ、そのなかかれかれ最愛さいあい弟子でし貞心ていしんあまとのあいだ唱和しょうわされたじゅうしゅのあったのにせっして、わたしはかくもじゅんしん[132]な、かくも切実せつじつな、かくも無礙むげ[133]な、かくもあたたかな、そしてかくもきよらかな男女だんじょあいだあい表現ひょうげんがありるものかと驚嘆きょうたん[134]のう[135]はなかったのである。 そもそも此の良寛りょうかん貞心ていしん唱和しょうわうたは、良寛りょうかんぼつ貞心ていしんあま苦心くしん蒐集しゅうしゅうした良寛りょうかん歌集かしゅうはちす[136]」のわりにえてあるものであって、これほど数多かずおお男女だんじょ唱和しょうわうたいちまとめにしてあるというてんでも、古来こらいあまりおおくそのるいないところであろう。それにはあま貞心ていしんそう良寛りょうかんはじめてそう[137][138]ってから、最後さいご良寛りょうかんによって永遠えいえんわかれをげたまでのあいだに、両者りょうしゃあいだみかわされたうただい部分ぶぶんがしるされている。そしてその歌集かしゅう序文じょぶんわりに貞心ていしんあまみずから「こはのおほんかたみとはた[139]におき朝夕あさゆうにとりつつ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ。」とうん[140]っているように、もともとそれは彼女かのじょみずからの追憶ついおくりょうとしてしるしあつめたものであった。そこに此のしゅうたいしていちだんのゆかしさをわたしたちおぼえさせるものがある。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 3
なにという純真じゅんしんあい表現ひょうげんであろう。「いざさらばわれはかへらむ……」の如[141]き、「うたやよまむ手毬てまり[142]やつかむ………」のごとき、あるいは「梓弓あずさゆみ[143]はるになりなば……」のごとき、さては「いついつとちにしじんは………」のごとき、よむごとわたしたちはその情緒じょうちょのみづみづしさと、あたたかさと、きよ[144]とに感動かんどうさせられずにはいられぬのである。而も[145]それがななじゅうさいろうそうと、さんじゅうさいうつくしいあまとのあいだにとりかわされたあい表現ひょうげんであることをおもときわたしたちはそこになみなみならぬきよあい世界せかい展開てんかいおもわずにいられぬのである。

[146]わたしは此の二人ふたり関係かんけいについていたおりにもったように、このななじゅうさいろう法師ほうしさんじゅうえたばかりの此の尼僧にそうとの関係かんけいは、いちめんおいてはまさ仏門ぶつもんに於[134]ける師弟していまじりであつた。また同時どうじにそれはうたみち芸術げいじゅつ世界せかい天地てんちける師弟していでもあり、またみちづれでもあった。而も現身うつせみ[147]人間にんげんとしての両者りょうしゃ関係かんけいは、あるとき[148]親子おやこのそれであり、あるとき兄妹きょうだいのそれであり、あるときもっとしたしき心友しんゆうのそれであり、さらあるときもっときよ意味いみでの恋人こいびとのそれでさえもあったろう。きよくしてぬくく、人間にんげんてきにして而も煩悩ぼんのう執着しゅうちゃくなく、霊的れいてきにして而もとおった、うつくしくたっとく、いみじきあいーまったくわたしはいつも此の良寛りょうかん貞心ていしんとのまじりをおもうごとに、なんともいえないしんのうるおひにたされるのである。

齋藤さいとう茂吉しげよしかつてそのちょ短歌たんかわたし鈔」のなかで此にんまじりについてこんなことをっていた。「良寛りょうかん貞心ていしんとの因縁いんねんきわめて自然しぜんである。このことおもごとはいい気持きもちになる。良寛りょうかん貞心ていしんってますます優秀ゆうしゅうなるうたつくった。そのうたさむかわったものでなく、恋人こいびとたいするようなぬくながれているものである。人間にんげんなまであるから、いくら天然てんねんあいしたとて、天然てんねん遠慮えんりょなく人間にんげんせまってる。そこにいて心細こころぼそくないなどというのはきょ[149]である。良寛りょうかん老境ろうきょうたっしてからきよし[150]おんな貞心ていしんから看護かんごけた。本当ほんとう意味いみ看護かんごである。良寛りょうかんにとっては、こよなき Gerokomik のひとつであったろう。たっと因縁いんねんである。」 この齋藤さいとう見方みかたには、わたしたちしん同意どういすることが出来できる。いかにもそれはにもまれとうと因縁いんねんであったのである。良寛りょうかん和尚おしょううつくしい生涯しょうがいかんがえるうえに、わたしはどうしても此のさい晩年ばんねんける和尚おしょう貞心ていしんあまとのまじりをおろそかにすることは出来できないと同時どうじに、良寛りょうかん和尚おしょう生活せいかつたいするとおなじく貞心ていしんあまそのひと生活せいかつたいしてもやみがたい興味きょうみをおぼえるのである。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, p. 16~18

美貌びぼう

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貞心ていしんあま美貌びぼうであったことは、彼女かのじょ後半こうはんせいくらした柏崎かしわざきひろかたつたえられていたのでたしかである[151]相馬そうま御風ぎょふうは、貞心ていしんあま美貌びぼうを、貞心ていしんあまのこおとうと柏崎かしわざき釈迦堂しゃかどう庵主あんしゅとしてきながらえていたななじゅうななさい高野たかのさとしゆずるろうあまからたしかめている。さとしゆずるあまは、ななさいからじゅうさいまでの14年間ねんかん貞心ていしんあま起居ききょをともにしていた。

さとしゆずるあまった。「わしらが庵主あんしゅさんほど器量きりょうのえいさんは、わしは此のとしになるまでたことがありませんのう。」こうってからろうあまさらしんにその面影おもかげおもかべでもするようにしずかをとじながら、「なんでもそれはりん[152]とした、中肉ちゅうにく中背ちゅうぜいの、いろしろい、しなのえいかたでした。わしのはじめておそばにたのは庵主あんしゅさんのろくじゅうとし五月ごがつじゅうよんにちのことでしたが、そんなお年頃としごろでさえあんなにうつくしくおえなさったのだもの、おわか時分じぶんはどんなにお綺麗きれいだったやら…」というようなこともはなした。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, pp. 18~19

しかし、こえわるかったらしい。

貞心ていしんあま容貌ようぼうおいては人並ひとなみすぐれたうつくしい女性じょせいであったが、こえがあまりよくなかった。おけいときなど、そのきいきいごえがひどくきにくかった。それで晩年ばんねんには自分じぶんでもそれがいやであったらしく、おおくの場合ばあい須磨すまこと[153]しょうするいち絃のきんいて、それにあわせておけいんでいた。きんあわせておけいむなどは普通ふつうさんなどには到底とうてい出来できない芸当げいとうであるとのこおとうとさとしゆずるあまわらいながらはなした。 — 相馬そうま御風ぎょふう 、「良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, pp. 45~46

位階いかい

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釈迦堂しゃかどう仏壇ぶつだんくろおおきな位牌いはいには、きむ文字もじで「こうしつ貞心ていしんあま首座しゅざ[154]」「いぬいどうこうじゅんあま」、裏面りめんには「明治めいじ廿にじゅうはちねんおつがつじゅうななにち[155]、「明治めいじみずのえさるがつじゅういちにち[156]かれてあったことから、貞心ていしんあま首座しゅざ位階いかいであったとおもわれる。[157]

この位牌いはいは、釈迦堂しゃかどうがなくなったときに薬師堂やくしどううつされた。その与板よいたき、不明ふめいとなっている。薬師堂やくしどうによれば、宗務しゅうむしょには、貞心ていしんあま首座しゅざであった記録きろくのこっているという。

同名どうめい尼僧にそう

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新潟にいがた県内けんないだけでも、貞心ていしんあまという法名ほうみょう尼僧にそう複数ふくすういる。とくに「はま庵主あんしゅさま伝承でんしょう」が提起ていきされたさかなぬまかんして、貞心ていしんあま法名ほうみょうあま複数ふくすうじんいる。[158]

脚注きゃくちゅう

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貞心ていしんあまかんしては、1980ねん昭和しょうわ55ねん以降いこう様々さまざま憶測おくそく誤解ごかいまれ、その真実しんじつ姿すがた歪曲わいきょくされてきた。出典しゅってん原文げんぶん提示ていじすることで、利用りようしゃ真実しんじつ探究たんきゅう容易よういになるようつとめた。

引用いんよう文中ぶんちゅうおよび脚注きゃくちゅうちゅうの〔 〕、〈 〉は編集へんしゅう投稿とうこうしゃによる付記ふきまたは補足ほそく引用いんよう文中ぶんちゅうにある( )は引用いんようぶんにもともとあったもの、またはルビ。極力きょくりょく正確せいかく引用いんようとなるようつとめた。

相馬そうま御風ぎょふうちょ引用いんようぶんについては、原文げんぶんきゅう漢字かんじもちいているが現在げんざい漢字かんじあらため、きゅう仮名遣かなづかいも現代げんだいぶんあらためている。

  1. ^ はちす
  2. ^ 奥村おくむら5代目だいめ兵衛ひょうえ代々だいだい奥村おくむら兵衛ひょうえ襲名しゅうめい上杉うえすぎそうこうあん貞心ていしん雑考ざっこう昭和しょうわ3ねん による〕
  3. ^ げん魚沼うおぬま本町ほんまち1丁目ちょうめ北側きたがわ付近ふきん
  4. ^ 〔せつどう。本名ほんみょう松原まつばら俊蔵しゅんぞう現在げんざいの「タケヤ時計とけいてん」が屋敷やしきあと位置いち魚沼うおぬま良寛りょうかんかいパンフレットによる)〕
  5. ^ 披見ひけん=ひけん。手紙てがみ文書ぶんしょひらいてること〕
  6. ^ 柏崎かしわざき図書館としょかんぞう 51ぺーじ 1967ねん昭和しょうわ42ねん長岡ながおか童話どうわ研究けんきゅうかい
  7. ^ 〔じょうじゅうぶつ〕
  8. ^ 菩提寺ぼだいじ
  9. ^ 鉄砲てっぽうぞうとは城内じょうない鉄砲てっぽう火薬かやく火縄ひなわ貯蔵ちょぞうするところ〕
  10. ^ にちはいちょう
  11. ^ a b 原文げんぶんのまま〕
  12. ^ 〔そうあん。本名ほんみょうは涓潤:けんじゅん〕
  13. ^ 会津あいづはんほかおおくのはんには「鉄砲てっぽうだい」が武具ぶぐ奉行ぶぎょうのもとにもうけられているのでこの記述きじゅつただしい可能かのうせいたかい。鉄砲てっぽうづくりは、銃身じゅうしんを「鍛冶たんや」、銃床じゅうしょうを「たい」、がね・カラクリを「金具かなぐ」の3分業ぶんぎょうせいでおこなわれた。〕
  14. ^ 1923ねん大正たいしょう12ねん7がつ11にち長興寺ちょうこうじ過去かこちょう上杉うえすぎ記録きろく
  15. ^ 〔のちの貞心ていしんあま
  16. ^ かぞえ、以下いかまれたとしを1さいとして年齢ねんれいしるす〕
  17. ^ 法名ほうみょうに1ちがいあるが、奥村おくむら過去かこちょう長興寺ちょうこうじ過去かこちょうもとつくられたとの奥村おくむら家子いえこまご証言しょうげんから、「月光げっこうさだえん大姉だいし」がただしいとおもわれる〕
  18. ^ 〔おおい〕
  19. ^ 〔ここ〕
  20. ^ 読書どくしょ
  21. ^ 〔しょうじつ=たいしたこともせず、そのごすこと〕
  22. ^ 〔どくご=ひとごとをいうこと〕
  23. ^ 〔ちじょうに。貞心ていしんあま弟子でし
  24. ^ 〔がくもん=学問がくもん中世ちゅうせいから近世きんせいにかけてがくぶんといった。大辞泉だいじせん
  25. ^ はいき〕
  26. ^ 〔ごぜんかた〕
  27. ^ 〔さずき=かりたな
  28. ^ 〔これなし=漢文かんぶん
  29. ^ a b 中村なかむら文庫ぶんこふで原本げんぽん確認かくにん
  30. ^ 思案しあんにふけりながら、あたましだれてゆっくりときつもどりつすること。てんじて、いろいろとかんがえめぐらすこと。=日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん
  31. ^ 可愛かわい
  32. ^ a b 中浜なかはま
  33. ^ 〔めいび〕
  34. ^ 〔とにかく〕
  35. ^ 〔とんせい〕
  36. ^ 〔ま〕
  37. ^ 〔よ〕
  38. ^ 〔ごてんぼうこう=御殿ごてん女中じょちゅうとして大名だいみょうおくきなどに奉公ほうこうすること〕
  39. ^ 小出こいで貞心ていしんあま」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1958ねん9がつ15にち
  40. ^ 〔せき ちょうおん=みが不明ふめい場合ばあいは、音読おんよみすることになっている。「ながたみ」「ながあつ」「ながはる」かもしれない〕
  41. ^ げん魚沼うおぬま竜光りゅうこう=りゅうこう〕
  42. ^ 同家どうけ過去かこちょうにちはいちょうから推定すいてい
  43. ^ 〔どうじゅん。「みちなり」か?〕
  44. ^ げん魚沼うおぬま竜光りゅうこう
  45. ^ 〔なにがし〕
  46. ^ 〔あざ〕
  47. ^ 〔20〕
  48. ^ 〔しゅつ〕
  49. ^ 〔しし=跡継あとつぎ〕
  50. ^ 〔ついで〕
  51. ^ 〔のみ=漢文かんぶん
  52. ^ 〔読〕
  53. ^ 〔そのきんぼうのひと〕
  54. ^ 〔てつじょう〕
  55. ^ せきちょうあつし内儀ないぎ
  56. ^ 〔にしいのくち〕
  57. ^ 小出島こいでじまむら現在げんざい魚沼うおぬま本町ほんちょう1丁目ちょうめ付近ふきん
  58. ^ a b c 貞心ていしんあま
  59. ^ 〔やはり〕
  60. ^ 〔閻王てら:えんのうじ。尼寺あまでら
  61. ^ 〔みんりゅう〕
  62. ^ 〔しんりゅう〕
  63. ^ 〔ちなみ〕
  64. ^ 〔「新出にいで」の誤植ごしょく
  65. ^ 〔たきぎ〕
  66. ^ 〔あだな=根拠こんきょのないわるうわさ
  67. ^ 〔じゅぎょう=弟子でしから学問がくもん技術ぎじゅつまなぶこと〕
  68. ^ a b 〔ふくじま〕
  69. ^ 〔もら〕
  70. ^ 下記かきみや栄二えいじろんにより、文政ぶんせいじゅうねんさんがつ、30さいからとなる〕
  71. ^ ねむりりゅうあまこころりゅう
  72. ^ 〔もと〕
  73. ^ 〔こし〕
  74. ^ げん長岡ながおか福島ふくしま
  75. ^ 〔1827ねん5がつ10日とおか
  76. ^ 良寛りょうかん貞心ていしんあま出会であいを文政ぶんせい9ねんとするせつもあるが、これを文政ぶんせい10ねんとする根拠こんきょおよび貞心ていしんあま福島ふくしま閻魔えんまどううつんだ時期じき文政ぶんせいじゅうねんさんがつとする根拠こんきょ以下いか谷川たにがわ敏朗としろうみや 栄二えいじろんによる。〕
  77. ^ 〔いざ〕
  78. ^ あつき〕
  79. ^ かえらぬ〕
  80. ^ さいわい〕
  81. ^ 福嶋ふくしま
  82. ^ き〕
  83. ^ へんぴ〕
  84. ^ a b 〔くだされたく〕
  85. ^ ほりもも坡『良寛りょうかん貞心ていしんあま遺稿いこう日本文芸社にほんぶんげいしゃ、1962ねん昭和しょうわ37ねん)。柏崎かしわざき図書館としょかんぞう
  86. ^ 貞心ていしんあま木村きむらてた手紙てがみに〕
  87. ^ 貞心ていしんあまが〕
  88. ^ 木村きむら
  89. ^ 旧暦きゅうれきよんがつ
  90. ^ ほりもも坡『良寛りょうかん貞心ていしんあま遺稿いこう』をす〕
  91. ^ 良寛りょうかんが〕
  92. ^ 貞心ていしんあまは〕
  93. ^ 閻魔えんま
  94. ^ 〔さだよし〕
  95. ^ 〔ぐうきょ=一時いちじてきせること〕
  96. ^ 次項じこう掲載けいさい
  97. ^ a b 〔みかお〕
  98. ^ a b い〕
  99. ^ a b ましまし〕
  100. ^ a b えて〕
  101. ^ a b かえたまう〕
  102. ^ 〔1826ねん
  103. ^ 〔1827ねん8がつ7にち
  104. ^ 〔じょうざ〕
  105. ^ 〔うるう〕
  106. ^ 〔1827ねん8がつ16にち
  107. ^ 〔まり〕
  108. ^ 〔しおいりとうげ〕
  109. ^ 〔はちすの
  110. ^ 〔こだしげじ〕
  111. ^ 与板よいた
  112. ^ 〔はら〕
  113. ^ 小出こいでまち教育きょういく委員いいんかい小出こいでまち上巻じょうかん貞心ていしんあま小出こいでのゆかり」のこう, 1996, p. 1014
  114. ^ 〔じゅごう〕
  115. ^ はち
  116. ^ 〔とううんじ〕
  117. ^ 〔たいぜん〕
  118. ^ よしみながよんねんよんがついちにち柏崎かしわざき大火たいかによる〕
  119. ^ 柏崎かしわざき
  120. ^ 〔ふぐあん〕
  121. ^ 〔もったい〕
  122. ^ 旧暦きゅうれききゅうがつ異称いしょう
  123. ^ 〔じゅんしゃく〕
  124. ^ なお古堂ふるどう慶応けいおう3ねん3がつ23にち良寛りょうかん収録しゅうろくすうは234。
  125. ^ 〔おおしまかそく〕
  126. ^ 〔かいばん〕
  127. ^ 〔ぶんたい〕
  128. ^ 〔ぞううん〕
  129. ^ 〔この不二ふじとは、同家どうけからえるふじ権現ごんげん雲霧うんむがかかる姿すがたうたったものとおもわれる。なお、「小出こいでまち」および「しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん」には「たちきょにかはる」としるされているが、研究けんきゅうろくほうただしいと松原まつばらあきらさく昭和しょうわ60ねんごろかたっている。小出こいでふじ権現ごんげん雲霧うんむがかかって、うつくしくえるのは新暦しんれき5がつごろである。したがって、上記じょうき、『良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう』の出版しゅっぱんにしてから、小出こいでおとずれたのであろう。そのときにはくなっていた松原まつばらゆきどういえ報告ほうこくしたものとおもわれる。〕
  130. ^ 〔1872ねん3がつ19にち
  131. ^ 加藤かとう僖一『良寛りょうかん』2008、pp. 85~86
  132. ^ 純真じゅんしん
  133. ^ 〔むげ〕
  134. ^ a b 〔お〕
  135. ^ 〔「」の誤植ごしょく?〕
  136. ^ 〔はちすのつゆ〕
  137. ^ 〔あい〕
  138. ^ 〔し〕
  139. ^ 〔かたわら〕
  140. ^ 〔い〕
  141. ^ 〔ごと〕
  142. ^ 〔てまり〕
  143. ^ 〔あずさゆみ〕
  144. ^ きよらかさ〕
  145. ^ 〔しかも〕
  146. ^ 〔かつ〕
  147. ^ 〔うつしみ〕
  148. ^ 〔あるとき〕
  149. ^ 〔うそ〕
  150. ^ 〔きよ〕
  151. ^ 相馬そうま御風ぎょふう良寛りょうかんあいされたあま貞心ていしん」『貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ』1930, pp. 18~19
  152. ^ 〔りん〕
  153. ^ 〔すまごと〕
  154. ^ 〔しゅそ〕
  155. ^ いぬいどうこうじゅんあま寂滅じゃくめつ
  156. ^ こうしつ貞心ていしんあま寂滅じゃくめつ
  157. ^ 1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつ12にちごろ柏崎かしわざき6丁目ちょうめ 釈迦堂しゃかどうおとずれた松原まつばらあきらさくによる(「貞心ていしんあま はる釈迦堂しゃかどう貞心ていしんく」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1950ねん4がつ20日はつか)。
  158. ^ 〔このために、おおくの憶測おくそく誤解ごかいむことになったとおもわれる。〕

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 上杉うえすぎそうこうあん貞心ていしん雑考ざっこう」1928ねん昭和しょうわ3ねん)= 中村なかむら昭三しょうぞうへん貞心ていしんあまこう全国ぜんこく良寛りょうかんかい柏崎かしわざき総会そうかい記念きねん 1995ねん平成へいせい7ねん)。
  • 加藤かとう僖一『良寛りょうかん道人どうじん遺稿いこう ぜん良寛りょうかんしょ研究けんきゅうかい、1982ねん昭和しょうわ57ねん)9がつ
  • 加藤かとう僖一『良寛りょうかん新潟にいがたけん人物じんぶつ小伝しょうでん新潟にいがた日報にっぽう事業じぎょうしゃ、2008。
  • 小出こいでまち教育きょういく委員いいんかい小出こいでまち上巻じょうかん、1996。
  • 重次しげつぐ「『はちすの断章だんしょう」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』考古こうこどう、1993。
  • 相馬そうま御風ぎょふう貞心ていしん千代ちよ蓮月れんげつ春秋しゅんじゅうしゃ、1930ねん昭和しょうわ5ねん)2がつ20日はつか
  • 谷川たにがわ敏朗としろう良寛りょうかん 伝記でんき年譜ねんぷ文献ぶんけん目録もくろく良寛りょうかん全集ぜんしゅう 別巻べっかん1、良寛りょうかん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1980ねん昭和しょうわ55ねん)。
  • 谷川たにがわ俊朗としろうへん良寛りょうかん書簡しょかんしゅう恒文社こうぶんしゃ、1988。
  • 谷川たにがわ敏朗としろう良寛りょうかん貞心ていしんあまのこころ」『良寛りょうかん貞心ていしん そのあいとこころ』考古こうこどう、1993ねん平成へいせい5ねん)10がつ1にち
  • 俵谷たわらやゆかりすけ良寛りょうかん愛弟子まなでし 貞心ていしんあま福島ふくしま歌碑かひ長岡ながおか童話どうわ研究けんきゅうかい、1967ねん昭和しょうわ42ねん)。柏崎かしわざき図書館としょかん所蔵しょぞう
  • 中村なかむらふじはちきよしぎょう餘事よじ』〔さとしゆずるあまからの聞書ききがき〕中村なかむら文庫ぶんこ柏崎かしわざき図書館としょかん
  • 松原まつばらあきらさく小出こいで貞心ていしんあま」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1958ねん昭和しょうわ33ねん)8がつ1にち・15にち・9月1にち・15にち・10月1にち・15にち・11月1にち
  • 松原まつばらあきらさく貞心ていしんあま はる釈迦堂しゃかどう貞心ていしんく」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつ20日はつか
  • 松原まつばらあきらさく遺墨いぼく史跡しせき 史跡しせき柏崎かしわざきさがせねる」『しょう出郷しゅっきょう新聞しんぶん』1959ねん昭和しょうわ34ねん)4がつ23にち
  • みや 栄二えいじ貞心ていしんあま良寛りょうかん : せきちょうあつしとの離別りべつせつ」『越佐こつさ研究けんきゅうだい40しゅう、1980(昭和しょうわ55ねん)、p. 54。長岡ながおか市立しりつ図書館としょかんぞう
  • 山本やまもとあきらなりしん資料しりょうによりくつがえされる「はま庵主あんしゅさま伝承でんしょう良寛りょうかん貞心ていしんあま魚沼うおぬま」『魚沼うおぬま貞心ていしんあま良寛りょうかんさま「はま庵主あんしゅさま伝承でんしょう」のさい検討けんとう魚沼うおぬま良寛りょうかんかい、2007ねん平成へいせい19ねん)6がつ9にち魚沼うおぬま小出こいで図書館としょかんぞう
  • —、読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん)、新潟にいがたみなみ12はん、2011ねん平成へいせい23ねん)10がつ26にち

外部がいぶリンク

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