貞心 尼
経歴
[先日 は眼 病 のりやうじがてらに与板 へ参 候 。そのうへ足 たゆく腹 (はら)いたみ、御 草庵 (えんま堂 )もとむらはすなり候 。寺泊 の方 へ行 かん(と脱 )おもひ、地蔵堂 中村 氏 に宿 り ゐまにふせり、また(まだ)寺泊 へもゆかす候 。ちきり(契 り)にたかひ(違 い)候 事 大目 に御 らふ(覧 )じたまはるべく候 。
秋 はぎの花 のさかりもすきにけり ちきり(契 り)しこともまたとけ(遂 げ)なくに
御状 は地蔵堂 中村 にて被 (披)見 致候[5]良寛
八 月 十 八 日 あて
この名 がないのは貞心 尼 が切 り取 ったからとされている。書幅 にはさらに一 つの逸話 がある。それは貞心 尼 の本名 であるが、実 に昭和 も戦後 しばらくまで不明 とされてきたもので、「ます」と分 かったのは、この書幅 の巻 き止 めに、「升 尼 あて」(升 すなわちマス)と書 かれてあったことによるという(木村 秋雨 『貞心 尼 雑考 』昭和 三 十 三 年 )。おそらく書幅 の最初 の所持 者 雪 堂 家 で覚 えとして記 したものであろう。 —小出 町 教育 委員 会 、『小出 町 史 上巻 』1996, p. 1014.
前号 所載 、私 達 が貞心 尼 の生家 、奥村 の家 を訪 ねたのは、今 昨年 の日記 を見 ると実 に昭和 二 年 一 月 十 七 日 である。其 の時 の模様 は今 ここでは略 するとして、仝家 の過去 帳 ーーこれは仝家 の菩提寺 長興寺 にて写 したもの[14]ーーを掲 げてみる。二 十 五 石 荒屋敷 奥村 嘉七 御 鉄砲 台 師 五 兵衛 奥村 五 兵衛 先祖 又 は嘉七 —上杉 艸 庵 、「貞心 雑考 」中村 昭三 編 『貞心 尼 考 』1995, p. 23
〔
幼少 期 (1~13歳 )
[
10歳 の頃 、初 めて海 を見 て「こんなところで本 を読 んでいたいなあ」と独 り言 をした —松原 啓 作 、「遺墨 と史跡 史跡 の柏崎 を探 ねる」『小 出郷 新聞 』1959年 4月 23日
12
貞心 尼 が十 二 の年 に柏崎 の其 の生家 の女中 ーー柏崎 本町 四 丁目 佐藤 平 の先代 、佐藤 平 の養母 八 重 女 の母 なる人 に、「海 がみたい」という所 から、其 の女中 の親分 たる柳橋 の関谷 大八 氏 へ泊 まりに来 て、かの中浜 の薬師堂 の付近 に遊 び、其 の風光 明媚 なるに心 ひかれて「こういう処 に尼 さんのような生活 がしたい」と低徊 [30]去 りえなかったと言 い、…〔後略 〕 —上杉 艸 庵 、「貞心 雑考 」中村 昭三 編 『貞心 尼 考 』1995, p. 20
それにしても貞心 尼 が何故 自分 の剃髪 の地 として特 に柏崎 を選 んだかというに、それにはこうした因縁 がある。それは彼女 がまだ長岡 の生家 に愛育 されていた頃 のことであった。彼女 の家 の隣家 に柏崎 の佐藤 彦六というものの娘 が女中 奉公 をしていた。その女 は少女 時代 の貞心 を殊 の外 かあい[31]がって、時々 柏崎 の話 をして聞 かせた。わけても長岡 では見 ることの出来 ない海 についてのいろいろの話 が、少女 の好奇心 をそそらずにはいなかった。 そして彼女 の十 二 歳 の時 、ついにその海 に対 するあこがれに駆 られて、彼女 は隣家 の女中 に連 れられて柏崎 へと海 を見 に出 かけた。初 めて見 た海 の光景 は、彼女 にとりてはたしかに一種 の驚異 であつた。就中 柏崎 郊外 の中濱 [32]というところにあった薬師堂 附近 の明媚 [33]な風光 が、兎角 [34]物 に感 じ易 かった彼女 の心 に消 し難 い印象 をのこした。「いつまでもいつまでもこんなところにいたいものだ」というようなその土地 に対 する愛着 が其 の場合 彼女 の胸 に湧 き起 ったのであった。こんなわけで、後年 彼女 が人生 の無常 を感 じて出家 遁世 [35]の志 を抱 くようになった際 にも、先 [36]ず第 一 に彼女 の心 に描 き出 された隠棲 の地 はその柏崎 郊外 の薬師堂 であった。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 21
貞心 尼 は字 も能 [37]く書 き、歌 も能 く詠 み、文章 も能 く書 いた。良寛 和尚 に遇 った最初 から歌 の贈答 をしているところから見 ると、娘 時代 から相当 に教養 を与 えられていたのであろう。 とにかく娘 時代 から貞心 尼 がすぐれた才女 であったであろうことは想像 出来 る。そして又 かなり勝気 な性質 の女 であったろうことも窺 われる。 —相馬 御風 、「貞心 尼 雜考 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 63
長岡 城 に御殿 奉公 (14~15歳 頃 )
[〔貞心 尼 は〕七 十 五 歳 で亡 くなるまで、七 百 三 十 五 首 余 の歌 をのこした。特 に三 十 歳 で良寛 と知 り合 ってから、その才能 が花開 いたといってよい。武家 の娘 であれば、当然 に花 、茶 、歌 の心得 はあったであろう。だから良寛 と知 り合 う以前 から、堂上 派 的 な歌 を作 っていたと思 われるが、よくわからない。 —谷川 敏朗 、「良寛 と貞心 尼 のこころ」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』1993, p. 20
結婚 の相手 文化 九 年
[貞心 尼 が出家 する前 に嫁 いだと言 う、北魚沼 郡 小出 町 在 の龍光 村 (目下 、堀 の内 村 )[44]医師 某 [45]とはどんな人 か、…同 字 [46]区長 下村 東作 氏 から懇篤 なる御返事 を頂 いた…。「…実 は、自分 の家 は、明治 の初年 より不幸 続出 、相続 人 が大抵 短命 で私 も廿 [47]歳 頃 父 と別 れる等 の関係 で、…僅 かに残 って居 る記録 を…たどるより外 ありません。一透了関居士(
六 代 清 右 衛 門弟 医業 )関 長 温 …
始 同 郡 吉水 村 医 関 道順 の養子 となり其後小出島 に開業 文政 十 亥 二 月 十 四 日 小出島 に於 て卒 [48]す。年頃 と言 い、医師 、小出島 、龍光 等 を綜合 して来 ると、此の関 長 温 の家内 が貞心 尼 らしく思 われます。幼少 の頃 養家 にいったらしく、…私 の家 で今 でも年忌 も行 い、霊 会 日 鑑 にも載 って居 る処 から見 ますと、或 は嗣子 [49]もなく養家 にも骨 は納 まらぬのではなかったかと想像 されます。…漢方 医者 の色々 の道具 が私 の土蔵 にあって、私 共 兄弟 が幼少 の頃 玩具 にして遊 んで大抵 壊 してしまった様 であります。夫 等 から見 ると死歿 すると同時 に業 をやめ…。序 [50]ながら六 代 清 右 衛門 の家内 は長岡 藩士 木村 儀 右 衛門 娘 とあり、法名 密 藏 院 解脱 妙 海 大師 とあります…。…一 月 三 十 日 下村 東作 」 —上杉 艸 庵 、「貞心 雑考 」中村 昭三 編 『貞心 尼 考 』1995, pp. 51~54
結婚 時代 文化 十 年 ~文政 四 年 (16歳 ~24歳 )
[「
夫 との離縁 (文政 四 年 秋 頃 24歳 頃 )
[貞心 尼 離縁 (八 、九 年間 夫婦 トナル) —中村 藤 八 、『浄 業 餘事 』
文政 四 年 (1821年 )五 月 五 日 「天気 よし七 日 市 (なのかいち)神楽 来 (かぐらきた)ル立山 (たてやま)開帳 参詣 (さんけい)山行 入用 茂兵衛 より鯛 壱 枚 代 二 百 五拾 文 鱒 (ます)二 百 廿 五 文 玉子 すや出 す代 八 拾 文 酒 二 升 右 之 割 (みぎのわり)雄 兵衛 素面 (すずら)長 温 内 [55]外 もち代 」(文政 四 年 (1821年 )西井 口 [56]家 『日 監 』。) (この端午 (たんご)の節句 に大 旦那 様 は気心 の知 れた人達 と恒例 の山 遊 参 (やまゆさん山 遊 び)をします。そこに関 長 温 のご内儀 (ないぎ)が割 り勘 の外 に餅 代 を出 した、と読 めます。)(この時点 でます婦人 は小出島 [57]に居 たと考 えます。)(智 譲 尼 が「五 ・六 年 」とも「八 、九 年 」とも言 う婚姻 の期間 は八 ・九 年間 だったと思 います。)この年 の日記 体 の備忘録 『日 監 (にっかん)』は、この五月 十 七 日 以降 は見 あたりません。 —山本 哲 成 、「新 資料 により覆 される「浜 の庵主 さま伝承 」良寛 ・貞心 尼 と魚沼 市 」2007, p. 30
出家 ・柏崎 新出 (しで)の山 (文政 五 年 25歳 頃 ~30歳 )
[彼女 [58]が其 の中濱 [32]の薬師堂 を訪 ねた時 には、折 あしくそこの庵主 は不在 であった。と云 って一旦 発 念 した出家 の志 をそのまま抑 えていつまでも安閑 としているわけにもゆかなかったので、彼女 は勧 める人 のあるにまかせて矢 張 [59]柏崎 郊外 の下宿 村 新出 (しで)の山 というところに庵 [60]を結 んでいた眠 龍 [61]、心 龍 [62]の二人 の尼僧 を訪 ねて、そこでいよいよ剃髪 の身 となった。(因 [63]にいう、貞心 剃髪 の新田 (しで)[64]の山 の庵室 はその後 眠 龍 、心 龍 の両 尼 が柏崎 の釈迦堂 に移 ってからはひどく廃頽 して今日 ではその跡 方 もないということである。)二 十 五 歳 の若 さで、しかも人並 すぐれた美貌 の持主 であった剃髪 当時 の貞心 は、とにかく土地 の人々 の噂 の種 となった。師匠 の命令 で山 へ薪 [65]採 りに行 ったりすると、村 の人達 が目 をそばだててこそこそ何 かささやき合 ったりしてかなりうるさかったという話 である。そしていつの間 にか村人 達 の間 に「姉 さ庵主 (あんじゅ)」という仇名 [66]さえ云 いふらされるようになった。此の眠 龍 、心 龍 両 尼 の受業 [67]の下 に、貞心 は二 十 七 歳 の頃 まで苦 しい修行 をつづけた。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, pp. 21~22
長岡 ・福島 閻魔 堂 時代 (文政 十 年 三 月 ~ 30歳 ~44歳 )
[
そして二 十 八 歳 (?)[70]の時 に師 [71]の許 [72]を離 れて古志 [73]郡 福嶋 [68]村 [74]の閻魔 堂 に住 むことになった。福嶋 は彼女 の郷里 長岡 からは僅 かに二 里 を隔 てたところであるから、彼女 がそこに住 むようになったのも郷里 に近 いということが一 つの原因 でもあったとおもう。この福嶋 の閻魔 堂 に貞心 尼 は十 余 年間 住 んでいた。年齡 からいうと二 十 七 八 歳 頃 から四 十 歳 前後 までである。しかもその十 余 年間 が貞心 尼 にとりては一 生涯 中 での最 意義 あり、かつ最 光輝 ある時代 であった。彼女 が初 めて良寛 和尚 に見 えたのも、両者 の間 に世 にも稀 なる美 しい交 りの結 ばれたのも、又 彼女 が良寛 和尚 の死 に遭 ったのも、実 にその間 のことだったからである。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, pp. 22~23
良寛 に会 うために木村 家 を訪問 (文政 十 年 春 四 月 十 日 頃 30歳 )
[何 [77]かたにか御座 なされ候 やらん やがてまたあつき[78]時分 は御 かへり遊 さるべくと存 じ候 へば どふぞやそのみぎり参 りたき物 とぞんじまゐらせ候 わたくしもまづ当分 柏崎 へはかへらぬ[79]つもりにて さえわひ[80]此ほどふくじま[81]と申 ところにあき[82]庵 の有 候 まヽ当分 そこをかりるつもりにいたし あとの月 より参 りおり候 されどへんぴ[83]のところよへ便 り遠 に候 まゝ もし御 文 下 さるとも良 い他 のあぶらや喜 左衛門 様 まで御 出 しくだされば長岡 まで日々 便 り有 候 まゝさやうなし被 下 度 [84]候 何事 もまた御 めもじのふしゆるゆる申 上 べく まづは御礼 までにあらあらめで度 く かしく
卯月 十 五 日 貞心 のとや
※元 右 衛門 様 御 うち殿御 もとへ著者 堀 桃 坡[85]が述 べているように、この書簡 は文政 十 年 四 月 のものと思 われる。前半 が欠 けているようだが、「何 かたにか御座 なされ候 やらん」とある人物 は、良寛 を指 しているのではあるまいか。良寛 は四 月 、すでに密 蔵 院 へ入 っていたわけだ。また貞心 尼 は、「あとの月 より参 りおり候 」と記 しているので、三 月 から長岡 在 福島 の閻魔 堂 へ移 ったようだ。それまでは柏崎 在 下宿 (しもじゅく)で、尼僧 同志 の共同 生活 を続 けていた。 —谷川 敏朗 、『良寛 伝記 ・年譜 ・文献 目録 』1980, p. 400
[86]「何 かたにか御座 なされ候 やらん、やがてまたあつき時分 は御 かへり遊 さるべくと存 じ候 へば、どふぞやそのみぎり参 りたき物 とぞんじまゐらせ候 。わたくしも、まづ当分 柏崎 へはかへらぬつもりにて、さえわひ此ほどふくじまと申 ところにあき庵 の有 候 まヽ、当分 そこをかりるつもりにいたし、あとの月 より参 りおり候 (下略 )」 の、[87]能登 屋 元 右 エ衛門 方 [88]へ宛 てた卯月 [89]十 五 日 附 の書簡 は前文 欠 というが、(堀 桃 坡前掲 書 [90])この書出 しは良寛 禅師 の動静 を伝 えたものに相違 なく、そうだとすれば、[91]島崎 に移 った翌年 のこととなり、あとの月 、即 ち文政 十 年 三 月 に[92]福島 えんま[93]堂 に移 るや否 や直 に島崎 に訪 庵 したのであろう。〔中略 〕良寛 は文政 九 年 十 月 九 日 、島崎 遷居を阿部 定 珍 [94]に報 じ、翌年 夏 (四 月 早々 であろう)寺泊 照明寺 密 蔵 院 に寓居 [95]したことを再度 定 珍 に通知 している。したがって前記 詞書 の(1)[96]の出会 い前 の手 まりの贈答 歌 は、林 甕 雄 [97]本 「良寛 禅師 歌集 」の付箋 に「この贈答 の歌 は貞心 尼 が良寛 禅師 をとひ[98]けるに、おはし[99]まさヾりけれバ、手 まりにこれやこの歌 をそへて[100]残 しおきける。師 後 につきてみよの歌 をかへし玉 ふ[101]と遍 澄 師 いふ」とあるように、密 蔵 院 仮寓 の不 在中 の出来事 であった。 —宮 栄二 、「貞心 尼 と良寛 :関 長 温 との離別 説 」『越佐 研究 』40, 1980
ところで、木村 家 へ宛 てた貞心 の手紙 によると、四 月 十 日 前後 に貞心 は、木村 家 を訪問 したらしい。良寛 に会 うためだった。しかし残念 なことに、良寛 はすでに密 蔵 院 へ移 っていたので、貞心 はむなしく帰 らざるを得 なかった。その手紙 の中 で貞心 は、「やがてまたあつき時分 は御 かへり遊 さるべくと存 じ候 へば、どふ(ママ)ぞやそのみぎり参 りたき物 とぞんじまゐらせ候 」と述 べ、さらに「もし御 文 を下 さるとも与板 のあぶらや喜 左衛門 まで御 出 くだされば、長岡 まで日々 便 り有 候 まゝ、さやうなし被 下 度 候 」と、良寛 が帰 庵 したならば知 らせてくれるように、それとなく依頼 している。婉曲 な態度 の中 にも、貞心 の熱意 が感 じられる。 —谷川 敏朗 、「良寛 と貞心 尼 のこころ」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』1993, pp. 20~21
貞心 尼 が良寛 を最初 に訪 ねた時 には、良寛 は旧 寺泊 町 (長岡 市 )にある照明寺 の密 蔵 院 に滞在 していて会 えず、その後 初 めて会 えたのは26年 [102]か27年 頃 で、場所 は旧 和島 村 (同 )の木村 家 だったとされていた。良寛 が密 蔵 院 にいた時期 が分 かれば、貞心 尼 と初 めて会 ったのがいつかについて特定 できるが、分 からないままだった。富沢 さんが見 つけたのは、「観音堂 の脇 (密 蔵 院 )の庵 (いおり)で‥‥‥」で始 まる漢詩 を含 む良寛 直筆 の遺墨 。〔中略 〕漢詩 のほかに、短歌 が2首 書 かれており、紙 の冒頭 に「亥 夏作 」とあることから、亥年 (いのししどし)の夏 に詠 まれたことが分 かった。短歌 は1825年 (文政 8年 )~1829年 (文政 12年 )頃 の作品 とされていたが、この間 の亥年 は27年 (文政 10年 )しかないため、漢詩 が詠 まれたのは27年 夏 で、この時期 には密 蔵 院 にいたと特定 した。さらに初対面 の2人 が詠 みあった歌 で、良寛 が秋 の夜 の寒 さについて詠 んでいることから、2人 が会 ったのは秋 だったとみられる。良寛 は28年 夏 は木村 家 にいたことが別 の史料 でわかっているため、富沢 さんは「貞心 尼 と良寛 の初対面 は27年 秋 だった」と結論 づけた。 — — 、読売新聞 朝刊 新潟 南 12版 、2011年 10月 26日
歌 と手 まりを木村 家 に預 ける(文政 十 年 夏 閏 六 月 十 五 日 頃 30歳 )
[〔「あつき
これぞこの ほとけのみちにあそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ
「あつき時分 は御 かへり遊 ばさるべくと存 じ候 へばどふぞやそのみぎり参 りたき物 とぞんじまゐらせ候 」と述 べているから、貞心 尼 は夏 の盛 りに良寛 を木村 家 に訪 ねたのだろう。その折 手作 りの毬 を土産 にしたらしい。しかし良寛 は留守 だったので、歌 を木村 家 に託 しておいたと思 われる。秋 、帰 庵 した良寛 はその歌 を見 て、返歌 を送 った。それが「御 かへし」の歌 である。「つきて見 よ」といっているから、貞心 尼 の訪問 を促 したと見 てよい。 —谷川 敏朗 、『良寛 伝記 ・年譜 ・文献 目録 』1980, p. 403
〔
良寛 は、貞心 尼 に返歌 の手紙 を贈 る(文政 10年 秋 閏 六 月 二 十 四 日 )
[やがて立秋 が過 ぎ、良寛 は島崎 へ帰 ってきた。そして貞心 の贈 り物 と歌 を見 、関心 を持 ったのである。そこで良寛 は、貞心 へ手紙 を贈 った。すぎしころは、てまりみうたをそへてたまはり、うやうやしくをさめまいらせ
候 つきてみよひふみよいむなやこゝのとを とをとおさめてまたはじまるを
みなづき
廿 四 日 この
貞心 上座 [104]良寛 年 は、六 月 に閏月 があった。この手紙 は、〔文政 十 年 〕閏 [105]六月 二 十 四 日 付 [106]のものである。陽暦 では、八 月 十 六 日 だった。そろそろ萩 の花 が咲 こうとする時節 である。歌 の初 めに「つきてみよ」とある。「毬 [107]をついてみなさい」の意味 のほか、「自分 に就 いて修行 してみなさい」に意味 もこめられていよう。暗 に、良寛 が貞心 の弟子入 りを認 めた形 になっている。また良寛 は歌 で、仏法 が無限 で量 り知 れないことを教 えている。〔中略 〕ただ、この書簡 を手 にして貞心 が直 ちに島崎 へ赴 いたとしても、それは早 くても七 月 に入 ってからであろう。良寛 の書簡 は塩入 峠 [108]を越 えて与板 の「あぶらや」に運 ばれ、折 よい船便 によって長岡 へ運 ばれる。そして、長岡 に止 められる。貞心 は托鉢 のついでなどで立 ち寄 って受 け取 るのであるから、現在 の運送 事情 とは、大 いに異 なったのである。 —谷川 敏朗 、「良寛 と貞心 のこころ」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』1993, pp. 21~23
良寛 と会 う(文政 10年 秋 30歳 )
[はじめてあひ
君 にかくあひ見 ることのうれしさもまださめやらぬ夢 かとぞ思 ふ
夢 の世 にかつまどろみてゆめを又 かたるも夢 もそれがまにまに
いとねもごろなる
白 たへのころもでさむし秋 の夜 の月 なかぞらにすみわたるかも
されどなほあかぬこゝちして
向 ひゐて千代 も八千代 も見 てしがな空 ゆく月 のこと問 はずとも
心 さへかはらざりせばはふつたのたえずむかはむ千代 も八千代 も
いざかへりなんとて
立 ちかへりまたもとひこむ玉 ほこの道 のしば草 たどりたどりに
又 もこよ山 のいほりをいとはずば薄 尾花 のつゆをわけわけ
貞心 尼 の迷 いに良寛 からの手紙 (文政 11年 11月=冬 31歳 )
[〔
ほどへてみせうそこ
かへしひさかたの
月 のひかりのきよければてらしぬきかり からもやまとも
むかしもいまも うそもまことも
やみもひかりも
はれやらぬ みねのうすぐもたちさりて のちのひかりとおもはずやきみ
ふゆのはじめのころ
きみやわするみちやかくる丶このごろハ まてどくらせどをとづれのなき
良 寛 霜月 四 日 ○この書簡 にも宛名 がない。しかし、歌 はいずれも『はちすの露 』にあるから、貞心 尼 宛 の書簡 である。この書簡 の初 めにある「かへし」とは、次 の貞心 尼 の歌 に対 してである。
- やまのはのつきはさやかにてらせども まだはれやらぬみねのうすぐも 〔
貞心 尼 〕
貞心 尼 は、仏法 に対 する悟 りがまだ得 られないことを、良寛 に訴 えたのである。それに対 して良寛 は、月 の光 のような清 く尊 い仏 のみ心 は、唐 (から)の国 も日本 も、昔 も今 も、うそも真実 も、闇 の世界 も明 るい世界 も、みな同 じように照 らして理解 するようにしておられる。だから、あなたもやがて仏 のみ心 を理解 できるであろうと、歌 で教 えたのであった。 この歌 は、変 わった形式 である。従来 の歌集 にはないようだ。その形式 の中 に良寛 は、空間 の世界 、時間 の世界 、内面 の世界 、外面 理念 の世界 を対 にして、月輪 のごとき丸 く円満 な仏法 は、宇宙 の実相 をわけへだてなく、あまなく照 らしている、と教 えたのである。 さらに良寛 は、あなたの心 の迷 いはやがて消 え去 り、月 の光 のような仏法 の光 が、あらゆる隅々 まで、きっと照 らし出 すだろうよ、そのように、あなたは仏法 を悟 ることができるはずだ、と歌 で示 した。これらの歌 に接 した貞心 尼 は、仏法 を理解 でき、その喜 びを歌 にして良寛 へ送 った。
我 も人 もうそもまことも隔 てなく照 らしぬきけり月 のさやけさ
覚 めぬれば闇 も光 もなかりけり夢路 を照 らす有明 の月 〔貞心 尼 〕
良寛 も、すぐに祝福 の歌 を返 した。
天 が下 に満 つる玉 よりこがねより春 の初 めの君 がおとづれ 〔良寛 〕なお、
書簡 の最後 の歌 について、『はちすの露 』の中 で貞心 尼 は、「ほどへてきせうこそ給 はりけるなかに」と詞書 をつけ、返歌 を記 している。
御 かへし奉 るとて 〔貞心 尼 〕
- ことしげきむぐらのいほにとぢられて
- みをばこ丶ろにまかせざりけり
良寛 は、貞心 尼 が訪問 の約束 を違 えて、なかなか来 てくれない不満 を、それとなく述 べたのである。それに対 して貞心 尼 が、訪問 できなかった言 いわけを歌 で示 したのであった。 なお、『はちすの露 』の、この部分 の頭注 に、「こは人 の庵 に」有 りし時 なり」と、貞心 尼 は書 きしている。このころ貞心 尼 は、柏崎 の二人 の尼僧 のもとで、庵室 に籠 (こも)って修行 にいそしんでいたのである。すると、この書状 は文政 十 一 年 (一 八 二 八 )十 一 月 四 日 のものかもしれない。 —谷川 俊朗 編 、『良寛 の書簡 集 』1988, pp. 297~300
良寛 寂滅 (天保 2年 1月 6日 )
[貞心 は良寛 の急 を聞 くと、年 の暮 れの庵主 の勤 めを投 げ出 して、島崎 へかけつけました。このときの良寛 の様子 を、貞心 は--さのみなやましきご気色 にあらず、床 の上 に座 しゐたまへるが--とのべています。良寛 は最後 の気力 をふりしぼって、床 の上 にきちんと坐 って貞心 をむかえたのです。
貞心 の手 をとると、もうほとんど言葉 にはならず、その手 の甲 に涙 をこぼしながら、ようやくこう詠 みました。
- いついつと
待 ちにし人 はきたりけり いまはあひ見 てなにかおもはむ 〔良寛 〕
貞心 は良寛 の耳許 に口 をよせて、別 れの歌 を告 げました。
生 き死 にのさかひはなれてすむ身 にも さらぬわかれのあるぞかなしきしかしこの
時 はもう、〔良寛 は〕歌 をかえす力 もなくほとんど聞 きとれないほどの、覚束 ない声 で、つぶやくようにとだけ
- うらを
見 せおもてを見 せてちるもみぢ告 げたそうです。…それから数日 の後 、最愛 の貞心 にみとられながら、良寛 は静 かに七 十 四 年 の生涯 を閉 じました。天保 二 年 の正月 六 日 の、雪 ふりしきる夕方 のことでした。 —子 田 重次 [110] 、「『はちすの露 』断章 」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』1993, pp. 57~59
貞心 にとっては、永遠 に良寛 と語 り続 けたかったのである。この情熱 を良寛 はしっかり受 けとめ、貞心 が悟 りに至 るまで、仏道 を中心 に説 いて聞 かせたのであった。 しかし、こうした濁 りのない心 の交流 も、長 くは続 かなかった。貞心 の懇篤 な看病 も空 しく、良寛 は直腸 癌 のために、天保 二 年 (一 八 三 一 )正月 六 日 死亡 した。死期 が迫 った時 、貞心 は連歌 形式 の句 を詠 んだ。
来 るに似 てかへるに似 たり沖 つ波
沖 の波 のように、人間 は死 にまた新 しい命 が生 まれ代 わって、人類 の命 は永遠 である。あなたのお心 は私 の中 にしっかりと生 きつづけるはずだと、いうのであろう。 すると良寛 は、苦 しい息 をつきながら、
- あきらかりけり
君 が言 の葉 と
応 じた。あなたの言葉 はありがたく、すばらしい。その通 りだという意味 であろう。この良寛 との連歌 は、貞心 にとって肉体 以上 に強 い心 の合一 であった。単 なる贈答 の歌 ではない。合一 の歌 であった。 また、良寛 の死 が近 いのを知 った貞心 は、悲 しみのあまり、
生 き死 にの境 離 れて住 む身 にもさらぬ別 れのあるぞ悲 しきと
詠 んだ。貞心 は、仏 に仕 える身 でありながら、避 けられない死 によって別 れなければのは、まことに悲 しいという、それに対 して良寛 は、次 の発句 を示 した。
裏 を見 せ表 を見 せて散 る紅葉 (もみじ)この
「こは句 について貞心 は、「はちすの露 」で、御 みづからのにはあらねど、時 にとりあひのたまふ いといとたふとし」と述 べている。貞心 にとって、この句 が特 に尊 く感 じられたのは、なぜだったのだろう。良寛 は発句 の中 に、自分 はやがて息 を引 き取 るが、あなたには私 の心 のすべてを示 してみせたから、今 は思 いのこすことはない、という意味 を含 ませたものであろう。 —谷川 敏朗 、「良寛 と貞心 のこころ」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』1993, pp. 24~26
良寛 肖像 (天保 5年 37歳 )
[〔
良寛 禅師 肖像 賛 うきぐものすがたはこゝにとゞむれど心 はもとの空 にすむらむ —相馬 御風 、「貞心 尼 歌 抄 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 251
『蓮 の露 (はちすのつゆ)』(~天保 6年 5月 ~38歳 )
[貞心 尼 自筆 の歌集 。体裁 は、縦 24センチ、横 16.5センチで和紙 を袋 とじにした冊子 本 である。表紙 と裏表紙 を除 いて50丁 ・100ページからなっている。内容 は良寛 の略伝 、良寛 歌集 、良寛 ・貞心 唱和 の歌 と続 き、このあとに不 求 庵 (ふぐあん)のこと、山田 静 里 (やまだせいり)翁 のこと、良寛 禅師 戒語、蓮 の露 の命名 のことなどが、全 て貞心 尼 の筆 によって書 かれている。天保 6年 5月 に完成 。良寛 没 後 4年 目 に当 たる。中村 藤 八 翁 が鬼 集 した「中村 文庫 」中 にあり、1975年 (昭和 50年 )に市 の指定 文化財 となる。※閲覧 には数種類 出版 されている複 製本 が利用 されている。また、ビデオ2本 で視聴 できる。 — — 、柏崎 市立 図書館 ソフィアセンター発行 の史跡 パンフレット
柏崎 ・釈迦堂 の庵主 (天保 12年 3月 ~嘉 永 4年 4月 44~54歳 )
[そのうち彼女 の最初 の受業 [114]師 であつた心 龍 尼 の妹 である眠 龍 尼 が天保 九 年 四 月 十 五 日 に示寂 し、続 いて天保 十 一 年 六 月 廿 八 [115]日 彼女 の師 心 龍 尼 も圓 寂 した。そして天保 十 二 年 三 月 彼女 は正式 に柏崎 洞 雲寺 [116]泰 禅 [117]和尚 について得度 の式 を了 し血脈 を相続 して、改 めて師 の跡 を継 いで柏崎 釈迦堂 の庵主 となった。それは彼女 の四 十 四 歳 の時 であった。それ以後 に於 ける貞心 尼 の生活 は貧 しいうちにも極 めて平和 であった。良寛 和尚 と同 じように彼女 もまた多 くの人々 から愛敬 され、彼女 の庵 は一 面 それらの人々 にとりての道場 であると共 に、他面 常 に春風 に恵 まれた楽 しい遊 び場所 となっていた。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 40
不 求 庵 時代 (嘉 永 4年 9月 ~明治 5年 54~75歳 )
[そして嘉 永 四 年 彼女 の不 在中 火災 に遭 って釈迦堂 の焼失 [118]した後 に於 ても、彼女 [58]は彼女 の歌 の友 でありかつ道 の友 であった山田 静 里 を初 め多 くの人々 の寄進 によって真光寺 [119]と称 する寺 の側 に新 しい草庵 を結 んで貰 い、そこに安 らかな生活 を続 けることが出来 た。その草庵 は施主 山田 静 里 によって不 求 庵 [120]と名 づけられた。それは八 畳 と四 畳 と三 畳 との三 間 しかない狭 い庵 であった。彼女 はそこに二 人 の弟子 と共 に住 んでいた。しかし、それでさえも彼女 には勿体 [121]ないほど広 く感 じられた。なおその庵 を不 求 庵 と命名 したについて施主 山田 静 里 はこんなように書 いている。その文章 は当時 貞心 尼 その人 が世間 からどんな風 に見 られていたかの証左 ともなると思 うから、ここにその全文 を掲 げて置 くことにする。「よろづのものおのれに
こうした求 めむより、求 めずしておのづから得 るこそ、まことの得 るとはいふべけれ。されば佛説 にも聖 經 にもさるすぢにをしへありとぞ 此庵のあるじ貞心 尼 のぬしは、年頃 佛 の道 のおこなひは更 なり、月 花 のみやびより外 にいささか世 に求 むることなく、よろず[11]むなし心 に物 したまふ。月日 を和歌 の浦 波 に心 をよせて、あま衣 たちなれぬる人々 はかねてよりよく知 り侍 りぬ。しかるにことしの永 月 の末 つかたまがつ火 の災 ひにてもと住 まひたまひしあたりも一 つらのやけ野 となりぬれば、かの心 しれる人々 諸 ともにことはからひつゝ、あらたにさゝやかなる草 の庵 を結 びて、あるじをうつしすゑまゐらすことゝはなりぬ。これや、さは求 めずしておのづからに得 るとも云 ふべけれとて、不 求 庵 とは名 づけ侍 るになむ。 もとめなき心 ひとつはかりそめの草 の庵 も住 みよかるらむ こは嘉 永 四 年 亥 の長月 [122]半 ばのことにぞありける。かくいふは方寸 居 のあるじの翁 静 里 」里人 達 のあたたかな愛敬 のうちに、貞心 尼 は二 人 の弟子 達 と共 に清 く安 らかな晩年 を送 ることを得 たのであった。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, pp. 40~42
『良寛 道人 遺稿 』出版 に尽力 (慶応 元年 ?~慶応 3年 3月 68?~70歳 )
[
『良寛 道人 遺稿 』は、慶応 3年 、わが国 で最初 に刊行 された良寛 の詩集 である。しかも唯一 の木版 本 であり、資料 としても書物 としても、非常 に貴重 性 が高 い。編者 の蔵 雲 和尚 は、上 州 前橋 ・竜 海 院 の第 29世 の住職 。明治 2年 没 。本書 の巻頭 に掲 げられた良寛 の肖像 も、良寛 の弟子 、貞心 尼 や遍 澄 の下絵 を参考 にして、蔵 雲 和尚 が書 いたものである。(相馬 御風 著 『良寛 百 考 』、渡辺 秀 英 校 註『大愚 良寛 』による)」、「蔵 雲 和尚 は弘 化 4年 、越後 へ巡錫 [123]してき、その後 一 時 、柏崎 在 吉井 の善法寺 にすんでいたことがある。良寛 和尚 の遺稿 を見 て感銘 をうけ、五 合 庵 を訪 ねたり、貞心 尼 とも会 い、良寛 詩集 を思 い立 ったようである。」、「良寛 の肖像 が、口絵 一 頁 に描 かれている。この肖像 は前 にもふれたように、貞心 尼 が原画 を書 き、蔵 雲 和尚 が仕上 げたといわれている。まだ写真 などなかった時代 であるから、この絵 が、最 もよく良寛 の風貌 をとらえた貴重 な資料 といえよう。右肩 には「良寛 道人 肖像 」と篆書 で書 かれている。この肖像 のウラは白 で、次 に「良寛 道人 略伝 」が、四 頁 にわたって掲載 されている。文 はやはり蔵 雲 和尚 。書 は碧 山 星 嶂という人 の手 になる隷書 体 。なかなか装飾 性 に富 むきれいな隷書 である。良寛 略伝 を手際 よくまとめ、かつ、貞心 尼 から、しばしば助言 をうけたことを書 きとどめている。 —加藤 僖一 、『良寛 道人 遺稿 全 』1982, pp. 140~142[124]
大島 花束 [125]氏 の『良寛 全集 』には、貞心 尼 が蔵 雲 和尚 宛 に出 した手紙 が収録 されている。その一部 に「詩集 一 冊 、序文 二 通 り、是 は島崎 へん澄 と申 す法師 、年頃 禅師 と親 しく致 しし人 にて、此度開 版 [126]の事 につき、わざわざ私 方 へ持参 致 され候 まま、差上 げ御 目 にかけ参 らせ候 。時 は同 じことに候 へど、所々 文 じのあやまりあるを、学者 の改 め直 したりとの事 に候 。序文 も俗人 の作 にてさのみ取 るべき所 もなきやうに候 へど、御 慰の為 め、御覧 に入 れ参 らせ候 。便 の御 かへし被 下 度 [84]候 。」とあり、右 の詩集 のほかに、遍 澄 が書 き集 めた詩集 をも参考 にしていることがわかる。またここにふれられている序文 は、鈴木 文台 [127]あたりの手 になるものをさすと思 われるが、俗人 の作 とばかり、手 きびしいきめつけ方 をしている。 —加藤 僖一 、『良寛 道人 遺稿 全 』1982, p. 141
貞心 尼 が良寛 和尚 の詩集 の開板 者 である上 州 前橋 龍 海 院 の蔵 雲 和尚 に宛 てた手紙 の中 に、学者 某 が良寛 和尚 の詩 を集 めたのはいいが、それに文字 の誤 りがあるといって所々 改 め直 したのはけしからぬ、又 序文 の如 きも俗人 又 は真 に良寛 その人 を解 しない者 の書 いたのは無 きに劣 るというような事 をいっている。そうした点 では、貞心 尼 もなかなか一家 の見識 を高 持 していたらしい。世間 並 の尼 さんでなかったことは、こんな事 からだけでも想像 出来 る。 —相馬 御風 、「貞心 尼 雜考 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 54
慶応 三 年 貞心 尼 七 〇歳 の三 月 、上 州 前橋 の竜 海 院主 蔵 雲 [128]和尚 が、良寛 の詩 一 八 二 首 、法華 讃 五 二 首 を収 めた『良寛 道人 遺稿 』(良寛 漢 詩集 の最初 の刊行 )を江戸 で出版 したが、書中 良寛 道人 略伝 に、「又 屡 (しばしば)其 の参 徒 貞心 尼 なる者 に就 いて、師 の履践 (りせん)風 彩 を詳 (つまびらか)にす」(原詩 漢文 )と断 っている通 り、良寛 の閲歴 、とくに巻頭 画像 については貞心 尼 によるところが大 きかった。画像 は世 に残 された良寛 像 のうちもっとも真 に迫 るといわれ、原画 は貞心 尼 の手 によるものとされているが、かつて雪 堂 によって描 かれた師 像 への記憶 によるところが大 きいものとされている。 —小出 町 教育 委員 会 、『小出 町 史 上巻 』1996, pp. 1014-1015
貞心 尼 寂滅 (明治 5年 2月 75歳 )
[
「
良寛 に愛 された貞心 尼
[古来 男女 の間 に唱和 された歌 で広 く世 に知 られているものは、無論 少 なくない。しかし、今日 までに私 自 ら読 んだものでは、万葉 集中 の少数 を除 く外 は、その表現 の切実 味 を以って胸 をうつような作 には、あまり多 く接 することが出来 なかった。ところが、十 数 年 前 はじめて良寛 和尚 の歌 を読 み、その中 に彼 と彼 の最愛 の弟子 貞心 尼 との間 に唱和 された五 十 余 首 のあったのに接 して、私 はかくも淳 真 [132]な、かくも切実 な、かくも無礙 [133]な、かくも温 かな、そしてかくも清 らかな男女 間 の愛 の表現 があり得 るものかと驚嘆 措[134]く能 [135]はなかったのである。 そもそも此の良寛 貞心 唱和 の歌 は、良寛 没 後 貞心 尼 が苦心 蒐集 した良寛 歌集 「蓮 の露 [136]」の終 わりに添 えてあるものであって、これほど数多 く男女 唱和 の歌 が一 まとめにしてあるという点 でも、古来 あまり多 くその類 を見 ないところであろう。それには尼 貞心 が僧 良寛 と初 めて相 [137]識[138]ってから、最後 に良寛 の死 によって永遠 の別 れを告 げたまでの間 に、両者 の間 に詠 みかわされた歌 の大 部分 がしるされている。そしてその歌集 の序文 の終 わりに貞心 尼 自 ら「こは師 のおほんかたみと傍 [139]におき朝夕 にとり見 つつ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ。」と云 [140]っているように、もともとそれは彼女 みずからの追憶 の料 としてしるし集 めたものであった。そこに此の集 に対 して一 段 のゆかしさを私 達 に覚 えさせるものがある。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 3
何 という純真 な愛 の表現 であろう。「いざさらばわれはかへらむ……」の如[141]き、「歌 やよまむ手毬 [142]やつかむ………」の如 き、或 いは「梓弓 [143]春 になりなば……」の如 き、さては「いついつと待 ちにし人 は………」の如 き、よむ度 毎 に私 達 はその情緒 のみづみづしさと、温 かさと、清 さ[144]とに感動 させられずにはいられぬのである。而も[145]それが七 十 歳 の老 僧 と、三 十 歳 の美 しい尼 との間 にとりかわされた愛 の表現 であることを思 う時 、私 達 はそこになみなみならぬ清 い愛 の世界 の展開 を想 わずにいられぬのである。嘗[146]て
私 は此の二人 の関係 について書 いた折 にも云 ったように、この七 十 歳 の老 法師 と三 十 を越 えたばかりの此の尼僧 との関係 は、一 面 に於 ては正 に仏門 に於[134]ける師弟 の交 りであつた。又 同時 にそれは歌 の道 、芸術 の世界 、美 の天地 に於 ける師弟 でもあり、又 道 づれでもあった。而も現身 [147]の人間 としての両者 の関係 は、或 時 [148]は親子 のそれであり、或 時 は兄妹 のそれであり、或 時 は最 も親 しき心友 のそれであり、更 に或 時 は最 も清 い意味 での恋人 のそれでさえもあったろう。清 くして温 く、人間 的 にして而も煩悩 の執着 なく、霊的 にして而も血 の通 った、美 しく尊 く、いみじき愛 ーまったく私 はいつも此の良寛 と貞心 との交 りをおもう毎 に、何 ともいえない心 のうるおひに充 たされるのである。齋藤 茂吉 氏 も嘗 てその著 「短歌 私 鈔」の中 で此二 人 の交 りについてこんなことを云 っていた。「良寛 と貞心 との因縁 は極 めて自然 である。この事 を思 う毎 に予 はいい気持 になる。良寛 は貞心 に会 ってますます優秀 なる歌 を作 った。その歌 は寒 く乾 き切 ったものでなく、恋人 に対 するような温 い血 の流 れているものである。人間 は生 の身 であるから、いくら天然 を愛 したとて、天然 は遠慮 なく人間 に迫 って来 る。そこにいて心細 くないなどというのは虚 [149]である。良寛 は老境 に達 してから淨 [150]い女 の貞心 から看護 を受 けた。本当 の意味 の看護 である。良寛 にとっては、こよなき Gerokomik の一 つであったろう。世 に尊 き因縁 である。」 この齋藤 氏 の見方 には、私 達 も真 に同意 することが出来 る。いかにもそれは世 にも稀 な尊 い因縁 であったのである。良寛 和尚 の美 しい生涯 を考 える上 に、私 はどうしても此の最 晩年 に於 ける和尚 と貞心 尼 との交 りをおろそかにすることは出来 ないと同時 に、良寛 和尚 の生活 に対 すると同 じく貞心 尼 その人 の生活 に対 してもやみがたい興味 をおぼえるのである。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, p. 16~18
美貌
[智 讓 尼 は云 った。「わしらが庵主 さんほど器量 のえい尼 さんは、わしは此の年 になるまで見 たことがありませんのう。」こう云 ってから老 尼 は更 に心 にその面影 を想 い浮 かべでもするように静 に眼 をとじながら、「何 でもそれは目 の凛 [152]とした、中肉 中背 の、色 の白 い、品 のえい方 でした。わしの初 めておそばに来 たのは庵主 さんの六 十 二 の年 の五月 十 四 日 のことでしたが、そんなお年頃 でさえあんなに美 しくお見 えなさったのだもの、お若 い時分 はどんなにお綺麗 だったやら…」というようなことも話 した。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, pp. 18~19
しかし、
貞心 尼 は容貌 に於 ては人並 すぐれた美 しい女性 であったが、声 があまりよくなかった。お経 を読 む時 など、そのきいきい声 がひどく聞 きにくかった。それで晩年 には自分 でもそれがいやであったらしく、多 くの場合 須磨 琴 [153]と称 する一 絃の琴 を弾 いて、それに合 せてお経 を読 んでいた。琴 に合 せてお経 を読 むなどは普通 の尼 さんなどには到底 出来 ない芸当 であると遺 弟 智 讓 尼 も笑 いながら話 した。 —相馬 御風 、「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, pp. 45~46
位階
[この
同名 の尼僧
[脚注
[- ^ 〔
蓮 の露 〕 - ^ 〔
奥村 家 5代目 五 兵衛 。代々 、奥村 五 兵衛 を襲名 =上杉 艸 庵 「貞心 雑考 」昭和 3年 による〕 - ^ 〔
現 :魚沼 市 本町 1丁目 北側 付近 〕 - ^ 〔せつどう。
本名 は松原 俊蔵 。現在 の「タケヤ時計 店 」が屋敷 跡 (位置 は魚沼 良寛 会 パンフレットによる)〕 - ^ 〔
披見 =ひけん。手紙 や文書 を開 いて見 ること〕 - ^ 〔
柏崎 市 図書館 蔵 51頁 1967年 (昭和 42年 )長岡 童話 研究 会 〕 - ^ 〔じょうじゅうぶつ〕
- ^ 〔
菩提寺 〕 - ^ 〔
鉄砲 蔵 とは城内 で鉄砲 ・火薬 ・火縄 を貯蔵 するところ〕 - ^ 〔
日 拝 帳 〕 - ^ a b 〔
原文 のまま〕 - ^ 〔そうあん。
本名 は涓潤:けんじゅん〕 - ^ 〔
会津 藩 ほか多 くの藩 には「鉄砲 台 師 」が武具 奉行 のもとに設 けられているのでこの記述 が正 しい可能 性 が高 い。鉄砲 作 りは、銃身 を「鍛冶 師 」、銃床 を「台 師 」、引 き金 ・カラクリを「金具 師 」の3師 の分業 制 でおこなわれた。〕 - ^ 〔1923
年 (大正 12年 )7月 11日 に長興寺 の過去 帳 を上杉 が記録 〕 - ^ 〔のちの
貞心 尼 〕 - ^ 〔
数 え、以下 生 まれた年 を1歳 として年齢 を記 す〕 - ^ 〔
法名 に1字 の違 いあるが、奥村 家 過去 帳 は長興寺 の過去 帳 を元 に作 られたとの奥村 家子 孫 証言 から、「月光 貞 圓 大姉 」が正 しいと思 われる〕 - ^ 〔おおい〕
- ^ 〔ここ〕
- ^ 〔
読書 〕 - ^ 〔しょうじつ=たいしたこともせず、その
日 を過 ごすこと〕 - ^ 〔どくご=
独 り言 をいうこと〕 - ^ 〔ちじょうに。
貞心 尼 の弟子 〕 - ^ 〔がくもん=
学問 。中世 から近世 にかけて学 文 といった。大辞泉 〕 - ^ 〔
灰 書 き〕 - ^ 〔ごぜんかた〕
- ^ 〔さずき=
仮 の棚 〕 - ^ 〔これなし=
漢文 〕 - ^ a b 〔
中村 文庫 の筆 字 の原本 で確認 〕 - ^ 〔
思案 にふけりながら、頭 を垂 れてゆっくりと行 きつもどりつすること。転 じて、いろいろと考 えめぐらすこと。=日本 国語 大 辞典 〕 - ^ 〔
可愛 〕 - ^ a b 〔
中浜 〕 - ^ 〔めいび〕
- ^ 〔とにかく〕
- ^ 〔とんせい〕
- ^ 〔ま〕
- ^ 〔よ〕
- ^ 〔ごてんぼうこう=
御殿 女中 として大名 家 の奥 向 きなどに奉公 すること〕 - ^ 「
小出 と貞心 尼 」『小 出郷 新聞 』1958年 9月 15日 - ^ 〔せき ちょうおん=
読 みが不明 の場合 は、音読 みすることになっている。「ながたみ」「ながあつ」「ながはる」かもしれない〕 - ^ 〔
現 :魚沼 市 竜光 =りゅうこう〕 - ^ 〔
同家 過去 帳 =日 拝 帳 から推定 〕 - ^ 〔どうじゅん。「みちなり」か?〕
- ^ 〔
現 :魚沼 市 竜光 〕 - ^ 〔なにがし〕
- ^ 〔あざ〕
- ^ 〔20〕
- ^ 〔しゅつ〕
- ^ 〔しし=
跡継 ぎ〕 - ^ 〔ついで〕
- ^ 〔のみ=
漢文 〕 - ^ 〔読〕
- ^ 〔そのきんぼうのひと〕
- ^ 〔てつじょう〕
- ^ 〔
関 長 温 の内儀 〕 - ^ 〔にしいのくち〕
- ^ 〔
小出島 村 。現在 の魚沼 市 本町 1丁目 付近 〕 - ^ a b c 〔
貞心 尼 〕 - ^ 〔やはり〕
- ^ 〔閻王
寺 :えんのうじ。尼寺 〕 - ^ 〔みんりゅう〕
- ^ 〔しんりゅう〕
- ^ 〔ちなみ〕
- ^ 〔「
新出 」の誤植 〕 - ^ 〔たきぎ〕
- ^ 〔あだな=
根拠 のない悪 い噂 〕 - ^ 〔じゅぎょう=
弟子 が師 から学問 や技術 を学 ぶこと〕 - ^ a b 〔ふくじま〕
- ^ 〔もら〕
- ^ 〔
下記 、宮 栄二 の論 により、文政 十 年 三 月 、30歳 からとなる〕 - ^ 〔
眠 龍 尼 、心 龍 尼 〕 - ^ 〔もと〕
- ^ 〔こし〕
- ^ 〔
現 :長岡 市 福島 〕 - ^ 〔1827
年 5月 10日 〕 - ^ 〔
良寛 と貞心 尼 の出会 いを文政 9年 とする説 もあるが、これを文政 10年 とする根拠 および貞心 尼 が福島 の閻魔 堂 へ移 り住 んだ時期 を文政 十 年 三 月 とする根拠 は以下 の谷川 敏朗 と宮 栄二 の論 による。〕 - ^ 〔いざ〕
- ^ 〔
暑 き〕 - ^ 〔
帰 らぬ〕 - ^ 〔
幸 い〕 - ^ 〔
福嶋 〕 - ^ 〔
空 き〕 - ^ 〔
辺 ぴ〕 - ^ a b 〔くだされたく〕
- ^
堀 桃 坡『良寛 と貞心 尼 の遺稿 』日本文芸社 、1962年 (昭和 37年 )。柏崎 市 図書館 蔵 。 - ^ 〔
貞心 尼 が木村 家 に宛 てた手紙 に〕 - ^ 〔
貞心 尼 が〕 - ^ 〔
木村 家 〕 - ^ 〔
旧暦 四 月 〕 - ^ 〔
堀 桃 坡『良寛 と貞心 尼 の遺稿 』を指 す〕 - ^ 〔
良寛 が〕 - ^ 〔
貞心 尼 は〕 - ^ 〔
閻魔 〕 - ^ 〔さだよし〕
- ^ 〔ぐうきょ=
一時 的 に身 を寄 せること〕 - ^ 〔
次項 に掲載 〕 - ^ a b 〔みかお〕
- ^ a b 〔
訪 い〕 - ^ a b 〔
御 在 し〕 - ^ a b 〔
添 えて〕 - ^ a b 〔
返 し給 う〕 - ^ 〔1826
年 〕 - ^ 〔1827
年 8月 7日 〕 - ^ 〔じょうざ〕
- ^ 〔うるう〕
- ^ 〔1827
年 8月 16日 〕 - ^ 〔まり〕
- ^ 〔しおいりとうげ〕
- ^ 〔はちすの
露 〕 - ^ 〔こだしげじ〕
- ^ 〔
与板 〕 - ^ 〔はら〕
- ^
小出 町 教育 委員 会 『小出 町 史 』上巻 「貞心 尼 と小出 のゆかり」の項 , 1996, p. 1014 - ^ 〔じゅごう〕
- ^ 〔
二 八 〕 - ^ 〔とううんじ〕
- ^ 〔たいぜん〕
- ^ 〔
嘉 永 四 年 四 月 二 一 日 の柏崎 大火 による〕 - ^ 〔
柏崎 〕 - ^ 〔ふぐあん〕
- ^ 〔もったい〕
- ^ 〔
旧暦 九 月 の異称 〕 - ^ 〔じゅんしゃく〕
- ^
尚 古堂 、慶応 3年 3月 23日 、良寛 の収録 詩 数 は234。 - ^ 〔おおしまかそく〕
- ^ 〔かいばん〕
- ^ 〔ぶんたい〕
- ^ 〔ぞううん〕
- ^ 〔この
不二 とは、同家 から見 える藤 権現 に雲霧 がかかる姿 を歌 ったものと思 われる。なお、「小出 町 史 」および「小 出郷 新聞 」には「たち居 にかはる」と記 されているが、研究 録 の方 が正 しいと松原 啓 作 は昭和 60年 頃 に語 っている。小出 の藤 権現 に雲霧 がかかって、美 しく見 えるのは新暦 5月 頃 である。したがって、上記 、『良寛 道人 遺稿 』の出版 を目 にしてから、小出 を訪 れたのであろう。そのときには亡 くなっていた松原 雪 堂 の家 に報告 したものと思 われる。〕 - ^ 〔1872
年 3月 19日 〕 - ^
加藤 僖一『良寛 』2008、pp. 85~86 - ^ 〔
純真 〕 - ^ 〔むげ〕
- ^ a b 〔お〕
- ^ 〔「
他 」の誤植 ?〕 - ^ 〔はちすのつゆ〕
- ^ 〔あい〕
- ^ 〔し〕
- ^ 〔かたわら〕
- ^ 〔い〕
- ^ 〔ごと〕
- ^ 〔てまり〕
- ^ 〔あずさゆみ〕
- ^ 〔
清 らかさ〕 - ^ 〔しかも〕
- ^ 〔かつ〕
- ^ 〔うつしみ〕
- ^ 〔あるとき〕
- ^ 〔うそ〕
- ^ 〔きよ〕
- ^
相馬 御風 「良寛 に愛 された尼 貞心 」『貞心 と千代 と蓮月 』1930, pp. 18~19 - ^ 〔りん〕
- ^ 〔すまごと〕
- ^ 〔しゅそ〕
- ^ 〔
乾 堂 孝 順 尼 の寂滅 の日 〕 - ^ 〔
孝 室 貞心 尼 の寂滅 の日 〕 - ^ 1950
年 (昭和 25年 )3月 12日 頃 に柏崎 6丁目 釈迦堂 を訪 れた松原 啓 作 による(「貞心 尼 春 の釈迦堂 に貞心 を聴 く」『小 出郷 新聞 』1950年 4月 20日 )。 - ^ 〔このために、
多 くの憶測 、誤解 を生 むことになったと思 われる。〕
参考 文献
[上杉 艸 庵 「貞心 雑考 」1928年 (昭和 3年 )=中村 昭三 編 「貞心 尼 考 」全国 良寛 会 柏崎 総会 記念 誌 1995年 (平成 7年 )。加藤 僖一『良寛 道人 遺稿 全 』良寛 の書 研究 会 、1982年 (昭和 57年 )9月 。加藤 僖一『良寛 』新潟 県 人物 小伝 、新潟 日報 事業 社 、2008。小出 町 教育 委員 会 『小出 町 史 』上巻 、1996。子 田 重次 「『はちすの露 』断章 」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』考古 堂 、1993。相馬 御風 『貞心 と千代 と蓮月 』春秋 社 、1930年 (昭和 5年 )2月 20日 。谷川 敏朗 『良寛 伝記 ・年譜 ・文献 目録 』良寛 全集 別巻 1、良寛 全集 刊行 会 、1980年 (昭和 55年 )。谷川 俊朗 編 『良寛 の書簡 集 』恒文社 、1988。谷川 敏朗 「良寛 と貞心 尼 のこころ」『良寛 と貞心 その愛 とこころ』考古 堂 、1993年 (平成 5年 )10月 1日 。俵谷 由 助 『良寛 の愛弟子 貞心 尼 と福島 の歌碑 』長岡 童話 研究 会 、1967年 (昭和 42年 )。柏崎 市 図書館 所蔵 。中村 藤 八 『浄 業 餘事 』〔智 譲 尼 からの聞書 き〕中村 文庫 、柏崎 市 図書館 。松原 啓 作 「小出 と貞心 尼 」『小 出郷 新聞 』1958年 (昭和 33年 )8月 1日 ・15日 ・9月1日 ・15日 ・10月1日 ・15日 ・11月1日 。松原 啓 作 「貞心 尼 春 の釈迦堂 に貞心 を聴 く」『小 出郷 新聞 』1950年 (昭和 25年 )3月 20日 。松原 啓 作 「遺墨 と史跡 史跡 の柏崎 を探 ねる」『小 出郷 新聞 』1959年 (昭和 34年 )4月 23日 。宮 栄二 「貞心 尼 と良寛 :関 長 温 との離別 説 」『越佐 研究 』第 40集 、1980(昭和 55年 )、p. 54。長岡 市立 図書館 蔵 。山本 哲 成 「新 資料 により覆 される「浜 の庵主 さま伝承 」良寛 ・貞心 尼 と魚沼 市 」『魚沼 の貞心 尼 と良寛 さま「浜 の庵主 さま伝承 」の再 検討 』魚沼 良寛 会 、2007年 (平成 19年 )6月 9日 。魚沼 市 小出 図書館 蔵 。- —、
読売新聞 (朝刊 )、新潟 南 12版 、2011年 (平成 23年 )10月 26日 。