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超越ちょうえつ

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超越ちょうえつ(ちょうえつ、えい: transcendence)とは、普通ふつう程度ていどはるかにえること、または、あるものべつたか次元じげんにあることをあらわ語彙ごい概念がいねんである。ここでは後者こうしゃ、とりわけ西洋せいよう神学しんがく哲学てつがく形而上学けいじじょうがく)における、特殊とくしゅ用法ようほうとしての「超越ちょうえつ」について解説かいせつする。

概要がいよう

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しもじゅつするように、「超越ちょうえつ概念がいねんは、(人間にんげん自身じしんふくむ)感覚かんかく可能かのう流動的りゅうどうてきな「物理ぶつり現象げんしょうかい」との対比たいひで、「その物理ぶつり現象げんしょう物理ぶつり法則ほうそくとらわれない(超越ちょうえつした)存在そんざい」を想定そうてい表現ひょうげん形容けいようするさいされる概念がいねんである。

したがって、「超越ちょうえつ概念がいねんは、つね対照たいしょうてきな「物理ぶつり現象げんしょうかい」のなにか(もしくは全体ぜんたい)との対比たいひによってかたられる。(そして、その「物理ぶつり現象げんしょうかい」のなにか(もしくは全体ぜんたい)を表現ひょうげんする用語ようご概念がいねんが「内在ないざい」であり、「超越ちょうえつ」の対義語たいぎごとなっている。)

また、その「超越ちょうえつてき存在そんざいは、素朴そぼくに「かみ/かみ々」とされることもあれば、人格じんかくてきな「抽象ちゅうしょうてき存在そんざい」が想定そうていされることもあり、論者ろんしゃによってことなる。ただし、いずれの場合ばあいも、「世界せかい根源こんげんせい原因げんいんせい存在そんざいせい」とむすびつけられてろんじられることが、ほとんどである。

また、「超越ちょうえつ」のにふさわしいように、「物理ぶつり現象げんしょうかいぞくする我々われわれ人間にんげんには、それはとらえきれない、かたない」と処理しょり表現ひょうげんされることもおおい。

(しかし、ただそれだけだと、ただの不可知論ふかちろん懐疑かいぎろんおちいってしまい、人間にんげんがそうした「根源こんげんてき超越ちょうえつてき存在そんざい」とつながったり探求たんきゅうしたりするじゅつ意欲いよくうしなって堕落だらくしてしまいかねないので、実際じっさい宗教しゅうきょう哲学てつがくにおいては、「かみがかり」(古代こだいギリシアなど)や「信仰しんこういの」(キリスト教きりすときょうなど)や「瞑想めいそう」(仏教ぶっきょうなど)や「問答もんどうほうべんしょうじゅつ」(プラトン)といった「特殊とくしゅ手段しゅだん」をして、「根源こんげんてき超越ちょうえつてき存在そんざい」とつながれるというはなしにしたり、プラトンの「たましいろん」やウパニシャッド哲学てつがくの「アートマン梵我一如いちにょ思想しそう」や大乗だいじょう仏教ぶっきょうの「仏性ぶっしょう如来にょらいぞう思想しそう」に代表だいひょうされるように、「我々われわれ人間にんげんたましいなかには、「根源こんげんてき超越ちょうえつてき存在そんざい」とつながったなにか(ヌース・ロゴス(知性ちせい理性りせい)、アートマン()、仏性ぶっしょう如来にょらいぞう)があたえられて内在ないざいしており、それを探求たんきゅう強化きょうかすることで、「根源こんげんてき超越ちょうえつてき存在そんざい」に到達とうたつすることができる」といった「分配ぶんぱいろん」をして、実践じっせんかてとすることがおおい。

したがって、後者こうしゃ場合ばあいなどは、パルメニデス初期しょき仏教ぶっきょうられるような、「超越ちょうえつ実在じつざい)」と「内在ないざい現象げんしょう)」を峻別しゅんべつする厳密げんみつな「超越ちょうえつろん」ではなくなり、「超越ちょうえつろん」と「内在ないざいろん汎神論はんしんろん)」の折衷せっちゅうろん統合とうごうろん(「超越ちょうえつかつ内在ないざい」)になっている。)

歴史れきし

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古代こだい

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古代こだいギリシアにおいては、「超越ちょうえつ」のような発想はっそうは、元々もともとは「すべき無知むち人間にんげん動物どうぶつ」と「不死ふし全知全能ぜんちぜんのうかみ々・神霊しんれい」という対比たいひにおいて、「かみ々・神霊しんれい」の「不死ふし全知全能ぜんちぜんのう」ぶりを形容けいよう強調きょうちょうするための素朴そぼくなものだった。

哲学てつがくにおいて、「超越ちょうえつ」の概念がいねん最初さいしょ明確めいかくしたのは、パルメニデスである。かれヘラクレイトスした「万物ばんぶつ流転るてん」(すべては流動的りゅうどうてき現象げんしょうてき)というテーゼに対抗たいこうして、世界せかい存在そんざいせい恒常こうじょうせい担保たんぽする「本質ほんしつ存在そんざい」(ト・エオン)の概念がいねん論理ろんりてき提唱ていしょうした。

このパルメニデスの思想しそう影響えいきょうけたプラトンは、その根源こんげんてきな「本質ほんしつ存在そんざい」(ト・エオン)を、「ぜんのイデア」や、その神格しんかくである「創造そうぞうぬしデミウルゴス」にえつつ、それと「物理ぶつり現象げんしょうかい」の中間ちゅうかんに、多様たような「イデア」からる「イデアかい」を想定そうてい提唱ていしょうした。

他方たほうアリストテレスは、自然しぜんがくてき性格せいかくつよいため、「デミウルゴス」の代替だいたい概念がいねんである「不動ふどうどうしゃ」をのぞき、しょ存在そんざいは「形相ぎょうそう」と「質料しつりょう」の結合けつごうたいであると做し、超越ちょうえつについては積極せっきょくてきかたらない。

中世ちゅうせい

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中世ちゅうせいにおいては、上記じょうきしたギリシア哲学てつがく思想しそうキリスト教きりすときょう吸収きゅうしゅうされてキリスト教きりすときょう神学しんがく形成けいせいされ、その「超越ちょうえつ」(てきかみ概念がいねん継承けいしょうされた。

たとえば、かみ現実げんじつ世界せかいそとにあるとか、対象たいしょう人間にんげん意識いしきとは独立どくりつ存在そんざいするというかんがかたである。対義語たいぎごは「内在ないざい」(immanence)。

スコラ哲学すこらてつがくにおいてはアリストテレスの10範疇はんちゅううち包摂ほうせつされない存在そんざい属性ぞくせいことした。

近代きんだい

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カントは、上記じょうきしたプラトンの思想しそうを、人間にんげん認識にんしき構造こうぞうとく理性りせい)のがわからたてなおすことをかんがえた(コペルニクスてき転回てんかい)。そして、可能かのうてき経験けいけんえるもの、すなわち感性かんせいてき直感ちょっかん対象たいしょうとなりないもの(「感性かんせい-悟性ごせい-理論りろん理性りせい」の対象たいしょうとなる「物理ぶつり現象げんしょうかい」をえた、「実践じっせん理性りせい」の対象たいしょうとしてしかあつかえないもの)を「超越ちょうえつ」とかんがえた。カントはそれを、プラトンの「イデア」を意識いしきしつつ、「もの自体じたい」「ヌーメノンとうんだ。

ヤスパースげん存在そんざいから実存じつぞん飛躍ひやくすることをさし、哲学てつがく超越ちょうえつすることにならないとした。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう資料しりょう

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脚注きゃくちゅう

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