道場 どうじょう 橋 きょう (どうじょうばし)は埼玉 さいたま 県 けん 坂戸 さかど 市 し 大字 だいじ 横沼 よこぬま と、同 どう 県 けん 比企 ひき 郡 ぐん 川島 かわじま 町 まち 大字 だいじ 上伊草 かみいぐさ の間 あいだ を流 なが れる越辺川 おっぺがわ に架 か かる埼玉 さいたま 県 けん 道 どう 269号 ごう 上伊草 かみいぐさ 坂戸 さかど 線 せん の道路 どうろ 橋 はし である。
現行 げんこう の橋 はし は1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )に架 か けられたもので、越辺川 おっぺがわ の終点 しゅうてん からおよそ1.4 kmの地点 ちてん に架 か かる[1] 橋 はし 長 ちょう 313.5メートル、総 そう 幅員 ふくいん 10.75メートル、有効 ゆうこう 幅員 ふくいん 9.75メートル(車道 しゃどう 7.25メートル、歩道 ほどう 2.0メートル、車道 しゃどう と歩道 ほどう の間 あいだ にある縁石 えんせき の0.5メートルを含 ふく む)最大 さいだい 支 ささえ 間 あいだ 長 ちょう 45.050メートルの7径 みち 間 あいだ PC 連続 れんぞく 箱 ばこ 桁 けた 橋 きょう の1等 とう 橋 きょう (TL-20) である[2] 。支 ささえ 間 あいだ 割 わり は左岸 さがん 側 がわ から45.050 m + 44.450 m + 45.025 m + 45.025 m + 44.450 m + 44.450 m + 45.050 mとなっていて中央 ちゅうおう 部 ぶ より両 りょう 端 はし の支 ささえ 間 あいだ 長 ちょう が長 なが くなっている。歩道 ほどう は下流 かりゅう 側 がわ のみに設置 せっち されている。橋 はし 面 めん の横断 おうだん 面 めん が放物線 ほうぶつせん 状 じょう になっており1.5パーセントの横断 おうだん 勾配 こうばい が付 つ けられている[2] 。
両側 りょうがわ の取 と り付 つ け道路 どうろ (アプローチ区間 くかん )は総 そう 延長 えんちょう 516メートルあり[3] 、右岸 うがん 側 がわ は街路 がいろ 樹 じゅ が植 うえ 栽された盛土 もりつち で左岸 さがん 側 がわ は高架 こうか 橋 きょう が併用 へいよう されている。公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん (路線 ろせん バス)の経路 けいろ には使用 しよう されていない。最寄 もよ りのバス停留所 ていりゅうじょ は「伊草 いぐさ 小学校 しょうがっこう 前 まえ 」もしくは「伊草 いぐさ 坂下 さかした 」バス停留所 ていりゅうじょ となる[4] 。
古 ふる くからの水害 すいがい の常 つね 襲 かさね 地帯 ちたい であり、橋 はし は抜水橋 きょう であるため洪水 こうずい 時 じ でも通行 つうこう 可能 かのう だが、1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )の台風 たいふう 18号 ごう や[5] 、2019年 ねん (令 れい 和 わ 元年 がんねん )の台風 たいふう 19号 ごう [6] などによる大 だい 水害 すいがい の際 さい は右岸 うがん 側 がわ 一帯 いったい は湖 みずうみ のようになり、西 にし 詰 つめ の取 と り付 つ け道路 どうろ が冠水 かんすい して通行止 つうこうど めとなる場合 ばあい がある[7] 。
明治 めいじ 時代 じだい 初期 しょき 頃 ごろ にはこの場所 ばしょ に橋 はし は架 か けられず、いつから存在 そんざい していたかは定 さだ かではないが[注釈 ちゅうしゃく 1] 江戸 えど 時代 じだい より「道場 どうじょう の渡 わた し」と称 しょう される渡船場 とせんば が設 もう けられていて入間 いるま 郡 ぐん 横沼 よこぬま 村 むら と比企 ひき 郡 ぐん 上伊草 かみいぐさ 村 むら を結 むす んでいた[7] [8] [9] 。『武蔵 むさし 国 こく 郡村 こおりむら 誌 し 』横沼 よこぬま 村 むら の項 こう によると、船 ふね 1艘 そう を有 ゆう する私 わたし 渡 わたり と記 しる されている。渡船 とせん 料 りょう は周辺 しゅうへん の渡船場 とせんば より高 たか めでかなりの額 がく がかかったと云 い う[7] 。
渡船場 とせんば の「道場 どうじょう 」の名 な の由来 ゆらい は、幕末 ばくまつ の頃 ころ 横沼 よこぬま 村 むら に大川 おおかわ 平 たいら 兵衛 ひょうえ の大川 おおかわ 道場 どうじょう (門弟 もんてい 約 やく 3000人 にん )が近傍 きんぼう にあり[7] 、門人 もんじん たちが信玄袋 しんげんぶくろ を持 も ち竹刀 しない を担 かつ いで渡 わた し場 ば を往来 おうらい していた様子 ようす や[3] 、大川 おおかわ 氏 し も川越 かわごえ の通 とおり 町 まち の道場 どうじょう に出稽古 でげいこ の際 さい に利用 りよう したことから、いつしか「道場 どうじょう の渡 わた し」と呼 よ ばれるようになったとい伝 いつた えられている[7] 。渡船場 とせんば は門人 もんじん だけではなく、住吉 すみよし 神社 じんじゃ や潮音寺 ちょうおんじ など周辺 しゅうへん の寺社 じしゃ 参拝 さんぱい の利用 りよう も少 すく なくなかった[7] 。
なお、明治 めいじ 時代 じだい 初期 しょき の迅速 じんそく 測 はか 図 ず では橋 はし が記 しる されていないが、明治 めいじ 40年 ねん 測量 そくりょう の5万 まん 分 ぶん の1地形 ちけい 図 ず [注釈 ちゅうしゃく 2] では橋 はし の記号 きごう が記 しる され、形式 けいしき は不明 ふめい だがその頃 ころ から何 なん らかの橋 はし が存在 そんざい していたことが見出 みだ せる。
渡船場 とせんば は橋 はし の架設 かせつ 後 ご に廃止 はいし され、渡船場 とせんば 跡 あと には欅 けやき の老木 ろうぼく がある[7] 。渡 わた し場 ば へ至 いた る道 みち も両 りょう 岸 きし 側 がわ とも残 のこ されている[7] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
大正 たいしょう 初期 しょき 頃 ごろ に川上 かわかみ の「天神 てんじん の渡 わた し」に橋 はし (現 げん 天神橋 てんじんばし )が架 か けられたため、道場 どうじょう の渡 わた しにも橋 はし を架 か ける風潮 ふうちょう が高 たか まり[7] 、伊草 いぐさ 村 むら ほか周辺 しゅうへん の村 むら の代表 だいひょう 者 しゃ らが募金 ぼきん 集 あつ めを行 おこ なった[7] 。募金 ぼきん は順調 じゅんちょう に集 あつ まり、木橋 もくきょう の道場 どうじょう 橋 きょう が架設 かせつ され、渡船 とせん が廃止 はいし された[8] 。丸太 まるた (木 き )の杭 くい の橋脚 きょうきゃく に根太 ねぶと (梁 りょう )を渡 わた してその上 うえ に渡 わた り板 いた を並 なら べた橋 はし である[7] 。洪水 こうずい 時 じ や船 ふね を通 とお すため、中央 ちゅうおう 部 ぶ より両 りょう 岸 きし にそれぞれ外 はず れる構造 こうぞう で、橋 はし 守 もり がいて開閉 かいへい を行 おこ なっていた。橋銭 はしせん (通行 つうこう 料 りょう )を徴収 ちょうしゅう する賃 ちん 取 と 橋 はし で、橋銭 はしせん はおとな5銭 せん 、こども約 やく 3銭 せん であった[7] 。橋 はし 名 めい は渡船場 とせんば の名前 なまえ が踏襲 とうしゅう された[3] 。現行 げんこう の橋 はし の約 やく 200メートル上流 じょうりゅう 側 がわ [注釈 ちゅうしゃく 4] にあり[8] 、川 かわ は蛇行 だこう を繰 く り返 かえ していた。橋 はし が外 はず れていて渡 わた れないときは両 りょう 岸 きし よりロープを張 は り、川下 かわしも に流 なが されないようにそれを伝 つた って渡 わた る「イタミ」と呼 よ ばれる繰 ぐ 船 ふね を臨時 りんじ に運行 うんこう していた。纏 まと まった人数 にんずう が出 で るまでは船 ふね を出 だ さなかったという[7] 。
越辺川 おっぺがわ の河川 かせん 改修 かいしゅう を機 き に蛇行 だこう していた流 りゅう 路 ろ をショートカットする捷 とし 水路 すいろ が新 あら たに開削 かいさく され、架橋 かきょう 地点 ちてん である今 いま までの流 なが れは廃 はい 川 がわ されたため、下流 かりゅう 側 がわ の河 かわ 道 どう 上 じょう に橋 はし が架 か け直 なお されることになり、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )に木製 もくせい の冠水 かんすい 橋 きょう が架設 かせつ された[10] [注釈 ちゅうしゃく 5] 。架橋 かきょう と同時 どうじ に橋 はし は県道 けんどう に編入 へんにゅう されている。橋 はし 長 ちょう 66メートル、幅員 ふくいん 3.2メートル[11] の低 てい 水路 すいろ のみに架 か けられていた。橋 はし には流木 りゅうぼく 除 の けや欄干 らんかん が設 もう けられ、橋詰 はしづめ には親 おや 柱 ばしら も設置 せっち されていた[10] 。道幅 みちはば が狭 せま いことから片側 かたがわ 交互 こうご 通行 つうこう であった。
架設 かせつ 当時 とうじ は三芳 みよし 野村 のむら と伊草 いぐさ 村 むら を結 むす ぶ橋 はし であったが、所謂 いわゆる 昭和 しょうわ の大 だい 合併 がっぺい により1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )7月 がつ 1日 にち に三芳 みよし 野村 のむら が坂戸 さかど 町 まち に、同年 どうねん 11月 がつ 3日 にち に伊草 いぐさ 村 むら が川島 かわじま 村 むら にそれぞれ発足 ほっそく した。
この橋 はし は水害 すいがい で度々 たびたび 破損 はそん し、1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )の台風 たいふう 23号 ごう による洪水 こうずい で流失 りゅうしつ した[10] 。復旧 ふっきゅう 工事 こうじ は冬場 ふゆば の渇水 かっすい 期 き を待 ま って行 おこな われ、同 どう 形式 けいしき の橋 はし に架 か け直 なお され、翌年 よくねん 3月 がつ に完了 かんりょう した[10] 。
冠水 かんすい 橋 きょう の老朽 ろうきゅう 化 か に伴 ともな い、永久 えいきゅう 橋 きょう への架 か け替 か え事業 じぎょう に着手 ちゃくしゅ され、1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )度 ど より現地 げんち 測量 そくりょう が行 おこ なわれた[3] 。1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )より架設 かせつ 工事 こうじ に着手 ちゃくしゅ され[10] 、旧 きゅう 橋 はし のすぐ川上 かわかみ 側 がわ の位置 いち に架設 かせつ されることとなった。下部 かぶ 工 こう は逆 ぎゃく T式 しき 鋼管 こうかん 杭 くい 基礎 きそ 橋脚 きょうきゃく と逆 ぎゃく T式 しき 鋼管 こうかん 杭 くい 基礎 きそ 橋台 きょうだい を組 く み合 あ わせており、支 ささえ 承 うけたまわ はゴム沓 くつ が使用 しよう されている[2] 。橋脚 きょうきゃく の高 たか さは低 てい 水路 すいろ 部 ぶ で15.1メートルである。上部 じょうぶ 工 こう は桁 けた 高 だか は2.6メートルで、3径 みち 間 あいだ 連続 れんぞく 箱 ばこ 桁 けた と4径 みち 間 あいだ 連続 れんぞく 箱 ばこ 桁 けた を組 く み合 あ わせている[2] 。上部 じょうぶ 工 こう の施工 しこう はオリエンタルコンクリート(現 げん オリエンタル白石 はくせき )が行 おこ ない[11] 、架設 かせつ 工法 こうほう として当時 とうじ としては珍 めずら しい押 お し出 だ し工法 こうほう を用 もち いて建設 けんせつ された[2] 。総 そう 工費 こうひ は13億 おく 4300万 まん 円 えん であった[10] 。
橋 はし は1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )3月 がつ 完成 かんせい し[注釈 ちゅうしゃく 6] 、同年 どうねん 3月 がつ 27日 にち に開通 かいつう した[3] [12] 。完工 かんこう 祝賀 しゅくが 式 しき (開通 かいつう 式典 しきてん )は同日 どうじつ 10時 じ に挙行 きょこう され、両 りょう 市町 しちょう の首長 しゅちょう ら関係 かんけい 者 しゃ が出席 しゅっせき した。式典 しきてん の後 のち 、くす玉 だま 開 ひらき 披や三 さん 世代 せだい 家族 かぞく による渡 わた り初 ぞ め が行 おこ なわれた[3] [10] 。橋 はし は同日 どうじつ 午後 ごご より一般 いっぱん 供用 きょうよう が開始 かいし された[3] 。
旧 きゅう 橋 はし は撤去 てっきょ されたが、堤防 ていぼう に沿 そ ったクランク状 じょう の線形 せんけい の取付 とりつけ 道路 どうろ は両 りょう 岸 きし 側 がわ ともに残 のこ されている。
右岸 うがん 側 がわ 取付 とりつけ 道路 どうろ
橋 はし の右岸 うがん 側 がわ は水田 すいでん 地帯 ちたい となっており、民家 みんか などは皆無 かいむ である。左岸 さがん 側 がわ は越辺川 おっぺがわ が作 つく り出 だ した自然 しぜん 堤防 ていぼう が川 かわ 沿 ぞ いにあり、その上 うえ を川越 かわごえ 松山 まつやま 往還 おうかん が通 とお り、伊草 いぐさ 宿 やど 由来 ゆらい の古 ふる くからの集落 しゅうらく があり、民家 みんか などが立 た ち並 なら ぶ[13] 。高水 たかみず 敷 じき (河川敷 かせんしき )は一部 いちぶ が運動 うんどう 場 じょう や農地 のうち として使用 しよう されている以外 いがい は地図 ちず 記号 きごう から広葉樹 こうようじゅ の河畔 かはん 林 りん や荒地 あれち となっている[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
道場 どうじょう 橋 きょう の西方 せいほう 1.5キロの台地 だいち 上 じょう に「道場 どうじょう 」の名 な の由来 ゆらい となる大川平 おおかわだい 兵衛 ひょうえ の大川 おおかわ 道場 どうじょう 跡 あと (大川 おおかわ 平三郎 へいさぶろう 翁 おう 記念 きねん 公園 こうえん )がある。道場 どうじょう 橋 きょう 袂 たもと の右岸 うがん 下流 かりゅう 側 がわ の堤防 ていぼう に1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )に大川 おおかわ 堤 つつみ 遺跡 いせき の記念 きねん 碑 ひ が建 た てられた[14] [8] 。
川島 かわしま 町立 ちょうりつ 伊草 いぐさ 小学校 しょうがっこう
川島 かわしま 町立 ちょうりつ 伊草 いぐさ 公民館 こうみんかん
笛木 ふえき 醤油 じょうゆ (金 きむ 笛 ふえ しょうゆパーク)
さくら保育園 ほいくえん
埼玉 さいたま 縣 けん 信用金庫 しんようきんこ 川島 かわしま 支店 してん
上伊草 かみいぐさ 公園 こうえん
金 かね 乗 じょう 院 いん
長福寺 ちょうふくじ
大聖寺 だいしょうじ
伊草 いぐさ 神社 じんじゃ
昭和 しょうわ 樋 とい 管 かん (河川 かせん 施設 しせつ )
(上流 じょうりゅう ) - 八幡橋 はちまんばし - 越辺川 おっぺがわ 橋 きょう - 道場 どうじょう 橋 きょう - 落合 おちあい 橋 きょう - 釘無 くぎなし 橋 きょう - (下流 かりゅう )
^ 後述 こうじゅつ する道場 どうじょう 通 がよ いの経緯 けいい から、幕末 ばくまつ までには確実 かくじつ に存在 そんざい していたと考 かんが えられる。
^ a b 外部 がいぶ リンク節 ぶし の『今昔 こんじゃく マップ』も参照 さんしょう 。
^ 一部 いちぶ (河 かわ 道 どう と旧 きゅう 河 かわ 道 どう に挟 はさ まれた場所 ばしょ )が経年 けいねん により自然 しぜん に還 かえ りつつあり、不明瞭 ふめいりょう なものとなっている。
^ 資料 しりょう によっては約 やく 100メートルとも[7] 。
^ 土木 どぼく 学会 がっかい 図書館 としょかん の『橋梁 きょうりょう 史 し 年表 ねんぴょう 』では開通 かいつう 年月日 ねんがっぴ が1952年 ねん [11] となっている。
^ 坂戸 さかど 側 がわ 親 おや 柱 ばしら に「昭和 しょうわ 56年 ねん 3月 がつ 完成 かんせい 」と刻 きざ まれた橋 はし 名 めい 板 いた が設置 せっち されている。
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 35度 ど 58分 ふん 6.16秒 びょう 東経 とうけい 139度 ど 27分 ふん 37.16秒 びょう / 北緯 ほくい 35.9683778度 ど 東経 とうけい 139.4603222度 ど / 35.9683778; 139.4603222