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じゅうそう和伸かずのぶ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しげむね かずのぶ
じゅうそう和伸かずのぶ
本名ほんみょう じゅう宗務しゅうむ
べつ名義めいぎ じゅう宗務しゅうむ
生年月日せいねんがっぴ (1896-07-27) 1896ねん7がつ27にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1971-12-04) 1971ねん12月4にち(75さいぼつ
出生しゅっしょう 山口やまぐちけん玖珂くがぐん岩国いわくにまちげん岩国いわくに
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく映画えいがプロデューサー
テンプレートを表示ひょうじ

じゅうそう 和伸かずのぶ(しげむね かずのぶ、1896ねん7がつ27にち - 1971ねん12月4にち)は、日本にっぽん映画えいが監督かんとく映画えいがプロデューサーである。本名ほんみょうじゅう宗務しゅうむでの活動かつどうおおい。

来歴らいれき人物じんぶつ

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だい世界せかい大戦たいせんまえ松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょで、本名ほんみょうの-つとむ(-つとむ名義めいぎで40ほんあまりのサイレント映画えいが監督かんとくし、その東京とうきょう発声はっせい映画えいが製作所せいさくしょ設立せつりつ参加さんかして同所どうしょ所長しょちょうとなり、トーキー映画えいが監督かんとくさく発表はっぴょうした。和伸かずのぶはおもにプロデューサーで、豊田とよだ四郎しろう阿部あべゆたからの作品さくひんをプロデュースした。義弟ぎてい映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん村田むらた武雄たけお

1896ねん明治めいじ29ねん7がつ27にち山口やまぐちけん玖珂くがぐん岩国いわくにまち現在げんざいどうけん岩国いわくに)にまれる。2さいじょうあには、明電舎めいでんしゃ社長しゃちょうで、のちの参議院さんぎいん議長ぎちょうじゅうそう雄三ゆうぞうである。上京じょうきょうして東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこう(のちの東京とうきょう都立とりつ日比谷ひびや高等こうとう学校がっこう)を卒業そつぎょう1918ねん大正たいしょう7ねん)に早稲田大学わせだだいがく英文えいぶん入学にゅうがくするも、演劇えんげき没頭ぼっとうしまもなく中退ちゅうたいした[1]

1923ねん大正たいしょう12ねん)、創立そうりつ3周年しゅうねんむかえた松竹しょうちくキネマ蒲田かまた撮影さつえいしょ入社にゅうしゃどう撮影さつえい所長しょちょう野村のむらかおるてい師事しじ同年どうねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい蒲田かまた機能きのう松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょうつしたころに入社にゅうしゃしたしょ平之ひらのすけが、重宗しげむねした助監督じょかんとくについた。よく1924ねん大正たいしょう13ねん)のはじめには蒲田かまた撮影さつえいしょ機能きのう復興ふっこうし、野村のむらたち現代げんだいげき蒲田かまたもどるが、やなぎさくとのスキャンダルで野村のむら所長しょちょうりることになる。同年どうねん7がつ野村のむら監督かんとくの『大尉たいいむすめ』の地方ちほうでのロケーション撮影さつえいかえりの列車れっしゃなかで、助監督じょかんとくをつとめた重宗しげむねしょに、野村のむらは「やなぎをくれぐれもたのむ」とって、一介いっかい監督かんとくとしてふたたび下加茂したかもへとった[1]

1925ねん大正たいしょう14ねん)、重宗しげむねしょはほぼ同時どうじ監督かんとく昇進しょうしんするが、後輩こうはいしょさきに『そられたり』で5がつまつ監督かんとくデビュー、2かげつおくれて重宗しげむねは『郊外こうがいいえ』で7がつ監督かんとくとしてデビューした(「じゅう宗務しゅうむ名義めいぎ)。どちらも野田のだ高梧こうごのオリジナル脚本きゃくほん押本うつ主演しゅえんさくであった。40ほんあまりもの作品さくひん監督かんとくしてきたが、後輩こうはいしょ1931ねん昭和しょうわ6ねん)に「国産こくさんはつ本格ほんかくてきトーキーだい1さく」と銘打めいうった『マダムと女房にょうぼう』をがけているというのに、自分じぶんにはなかなかトーキーをらせてくれない城戸きど四郎しろう所長しょちょう体制たいせい嫌気いやけし、1933ねん昭和しょうわ8ねん)の吉屋よしや信子のぶこ原作げんさく筑波つくば雪子ゆきこ逢初夢子ゆめこ主演しゅえんの『理想りそう良人りょうじん』を最後さいご重宗しげむね同社どうしゃ退社たいしゃ日活にっかつ多摩川たまがわ撮影さつえいしょ移籍いせきする[1]

その1935ねん昭和しょうわ10ねん)3がつ日活にっかつ資本しほんにより「東京とうきょう発声はっせい映画えいが製作所せいさくしょ」が設立せつりつされ、重宗しげむねはその所長しょちょう就任しゅうにん企画きかく製作せいさく部長ぶちょうには日活にっかつ多摩川たまがわにいたマキノ・プロダクション正確せいかくにはマキノ傘下さんか勝見かつみ庸太郎ようたろうプロダクション出身しゅっしんの、八田はった尚之なおゆき就任しゅうにんした[2]。まもなく重宗しげむね同様どうよう動機どうき豊田とよだ四郎しろう松竹しょうちく蒲田かまた退社たいしゃ同社どうしゃ入社にゅうしゃした[1]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)3がつ同社どうしゃ日活にっかつり、東宝とうほう当時とうじは「東宝とうほう映画えいが配給はいきゅう」)の協力きょうりょくて、東京とうきょう世田谷せたがや世田谷せたがや4丁目ちょうめ現在げんざい同区どうくさくら3丁目ちょうめ、のちのしん東宝とうほうだい撮影さつえいしょ現在げんざいオークラランド)に自社じしゃのトーキースタジオを完成かんせい重宗しげむね豊田とよだ監督かんとくさく発表はっぴょうした。また、みずからの監督かんとくさく波止場はとばやくざ』の脚本きゃくほんに、つま実弟じってい村田むらた武雄たけお起用きよう、のちに監督かんとくとしてデビューさせている。1938ねん昭和しょうわ13ねん)、「和伸かずのぶ」と改名かいめいし、プロデューサーにまわり、豊田とよだ四郎しろう阿部あべゆたか作品さくひん製作せいさくした。1941ねん昭和しょうわ16ねん)には、東京とうきょう発声はっせいは「東宝とうほう映画えいが」と合併がっぺいした[1]

戦後せんご1948ねん昭和しょうわ23ねん)からは、創立そうりつ2周年しゅうねんむかえた鎌倉かまくらアカデミア映画えいが教鞭きょうべんった。晩年ばんねん事故じこい、松葉杖まつばづえをつくらしであった。1971ねん昭和しょうわ46ねん12月4にち病気びょうきにより死去しきょした[1]。75さいぼつ

関連かんれん事項じこう

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  1. ^ a b c d e f 日本にっぽん映画えいが監督かんとく全集ぜんしゅう』(キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1976ねん)の「じゅうそう和伸かずのぶ」のこう(p.197)を参照さんしょうどうこう執筆しっぴつきし松雄まつお
  2. ^ 日本にっぽん映画えいが監督かんとく全集ぜんしゅう』(キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1976ねん)の「八田はった尚之なおゆき」のこう(p.318)を参照さんしょうどうこう執筆しっぴつ清水しみずあきら

外部がいぶリンク

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