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鈴木すずき義司よしじ

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鈴木すずき 義司よしじ
(すずき よしじ)
生誕せいたん 1928ねん9月26にち[1]
東京とうきょう東京とうきょう赤坂あかさか[2]
死没しぼつ (2004-07-17) 2004ねん7がつ17にち(75さいぼつ[1][3]
東京とうきょうみなと[3]
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 漫画まんが
称号しょうごう 紫綬褒章しじゅほうしょう1996ねん
くんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう2003ねん
活動かつどう期間きかん 1953ねん - 2004ねん
ジャンル 風刺ふうし漫画まんがギャグ漫画まんが
代表だいひょうさくサンワリくん』(1966ねん
受賞じゅしょう 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう漫画まんがしょう1969ねん
日本にっぽん漫画まんが協会きょうかいしょう 大賞たいしょう2002ねん[1]
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鈴木すずき 義司よしじ(すずき よしじ、1928ねん昭和しょうわ3ねん9月26にち[1] - 2004ねん平成へいせい16ねん7がつ17にち[1][3])は、日本にっぽん漫画まんが

代表だいひょうさく読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん1966ねん6月22にちより2004ねん7がつ2にちまで、新聞しんぶん連載れんさいとしては当時とうじ歴代れきだい歴代れきだい2となる38年間ねんかん合計ごうけい1まん1240にわたって長期ちょうき連載れんさいされた『サンワリくん[1]勲等くんとうくんよんとう

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

東京とうきょう赤坂あかさか(のちの東京とうきょうみなと)で酒屋さかや質屋しちや兼業けんぎょうする商家しょうかまれ[2]川崎かわさき[2]大師河原だいしがわらげん川崎かわさき)にそだつ。少年しょうねん時代じだい漫画まんが興味きょうみがなく、1989ねん毎日新聞まいにちしんぶんのインタビューにこたえた時点じてんでは「のらくろ冒険ぼうけんダンきちもそれほどんだことがない」[2]という。旧制きゅうせい神奈川かながわ県立けんりつ川崎かわさき中学校ちゅうがっこう神奈川かながわ県立けんりつ川崎かわさき高等こうとう学校がっこう前身ぜんしん)を旧制きゅうせい東京とうきょう都立とりつ理工りこう専門せんもん学校がっこう東京都立大学とうきょうとりつだいがく前身ぜんしん卒業そつぎょう[2]

日本鋼管にほんこうかんへの入社にゅうしゃまりかけていたが、結核けっかく発見はっけんされたため就職しゅうしょく断念だんねん[2]自宅じたく療養りょうよう生活せいかつおくなか川崎かわさき駅前えきまえにあった「アメリカ文化ぶんかセンター」でんだ『ニューヨーカーつうじて、スタインバーグなどの当時とうじ最先端さいせんたん米国べいこく漫画まんが触発しょくはつされ、自分じぶん漫画まんがえがき、それを雑誌ざっしに「かたぱしから」「募集ぼしゅうしていない雑誌ざっしにまで」投稿とうこうはじめる[2]本人ほんにんいわく「名前なまえをかえて3まいおくったら1、2、3独占どくせんした[2]」と豪語ごうごするほどの採用さいようりつほこり、若手わかて投稿とうこうなか存在そんざいられるようになる。このころ『モダン日本にっぽん』の吉行よしゆき淳之介じゅんのすけに「きみ十分じゅうぶん、プロになれる[2]」と才能さいのうみとめられ、自信じしんをつけている。1950ねん鈴木すずきすうにん投稿とうこう仲間なかまで「漫画まんがエポック」を結成けっせい[2]東京とうきょう神田かんだにしきまち事務所じむしょかまえた[4]。メンバーの1人ひとりに、のちに演芸えんげい作家さっか転身てんしんした織田おだ正吉まさきちがいたほか、女優じょゆう山岡やまおか久乃ひさのがグループのマネージャー(電話でんわばん)となった[2][4]

1953ねん[1]、『夕刊ゆうかんフクニチ』における時事じじ漫画まんが連載れんさい[2]でプロデビューをたす。週刊しゅうかん創刊そうかんブームにって多数たすう連載れんさいかかえるうち、「大衆たいしゅうせいというか、読売よみうり体質たいしつにひかれて」「読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかんえがきたい」という目標もくひょうさだめる[2]。その念願ねんがんは『サンワリくん』で達成たっせいされた。

1962ねん11月に漫画まんがのグループ「漫画まんが集団しゅうだん」に加入かにゅう[5]晩年ばんねんにはその代表だいひょうをつとめた[1]。2004ねん7がつ17にち午後ごご245ふん悪性あくせいリンパ腫りんぱしゅのためひがし京都きょうとこう区内くない病院びょういん死去しきょした[3]。75さいぼつ

受賞じゅしょう叙勲じょくんれき[編集へんしゅう]

人物じんぶつ活動かつどう[編集へんしゅう]

作風さくふう創作そうさく姿勢しせい[編集へんしゅう]

生前せいぜん東京とうきょう原宿はらじゅく仕事場しごとばかまえていた。たびたび近所きんじょ竹下たけしたどおにたむろする若者わかものたちを観察かんさつし、時事じじ風刺ふうしのヒントをていたという[2]

ギャグのアイデアを独自どくじのメソッドをっていることを公言こうげんし、それを「からくり」としょうしていたが、そのプロセスを生前せいぜんだれにもかさなかった[4]

新聞しんぶん連載れんさい極意ごくいとして「カゼをひかないこと」「二日酔ふつかよいしないこと」「一般いっぱんひとたちとおなじようにあさきて新聞しんぶんみ、ひるのニュースをる」という3てんをあげている[2]

「いいものをれるにはえらい努力どりょく必要ひつようだが、わるいものにはすぐ影響えいきょうされる」「これで通用つうようするのなららくだ、と。どうしてもらくほうはしりますから」として、どう業者ぎょうしゃ漫画まんが作品さくひんにはほとんどとおさなかった[2]

『おわらいマンガ道場どうじょう[編集へんしゅう]

1976ねんより1994ねんまで放送ほうそうされた長寿ちょうじゅ番組ばんぐみ、『わらいマンガ道場どうじょう』(中京ちゅうきょうテレビ制作せいさく)に出演しゅつえんつねちょうネクタイ姿すがたて、共演きょうえんしゃ富永とみなが一朗いちろうに「土管どかんんでいるせこけた貧乏人びんぼうにん」「アホウドリ」(実在じつざいのそれではない。くびだけ鈴木すずき架空かくうとり)「ミノムシケムシ」とこきろされる一方いっぽうぎゃく自身じしんを「頻繁ひんぱんにおさつのばらきをする富豪ふごう」としてえが富永とみながを「めぐまれないデブ」「おナマコ」「サンショウウオ」「タラバカガニ」とこきろし、そのやりとりで人気にんきはくした。

実際じっさいには、鈴木すずき富永とみながたがいに盟友めいゆう公言こうげんするすうじゅう年来ねんらい友人ゆうじんであり、『マンガ道場どうじょう開始かいし本人ほんにん富永とみながさそって出演しゅつえんすることになったため[6]鈴木すずきくなったとき富永とみなが元気げんきになったらまた一緒いっしょに『マンガ道場どうじょう』でもやろうぜとってたのに…」号泣ごうきゅうした。鈴木すずき富永とみながとともに、紫綬褒章しじゅほうしょうくんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう受章じゅしょうしている。

2021ねん10がつ中京ちゅうきょうテレビが「マンガ道場どうじょう」の過去かこぶんをWEB配信はいしんする計画けいかくにあたって、鈴木すずき権利けんりしゃ所在しょざい不明ふめいになっていること公表こうひょうした[7]最終さいしゅうてき著作ちょさくけんほうだい103じょうにおいて準用じゅんようするどうほうだい67じょう規定きていもとづく文化庁ぶんかちょう長官ちょうかん裁定さいていによる著作ちょさくけんしゃ不明ふめいとう場合ばあいにおける著作ちょさくぶつ利用りよう制度せいどにより配信はいしん実現じつげんした[8]

原子力げんしりょく発電はつでん広報こうほう活動かつどうと、それにまつわる批判ひはん[編集へんしゅう]

鈴木すずき1970ねん前後ぜんごから、なが電気事業連合会でんきじぎょうれんごうかい電事連でんじれん)の新聞しんぶん広告こうこくえがいたほか、東京電力とうきょうでんりょくのパンフレットにおけるカットやイラスト、通商産業省つうしょうさんぎょうしょう立地りっちセンターの『らしとエネルギー』原発げんぱつについての肯定こうていてきルポルタージュ漫画まんがえがくなど、20ねん以上いじょうにわたって電力でんりょく産業さんぎょう、とりわけ原子力げんしりょく発電はつでんしょ関係かんけい仕事しごとをおこなった[9]。また、「漫画まんが集団しゅうだん系列けいれつ代理だいりてん漫画まんがしゃ」から、原発げんぱつ推進すいしんキャンペーンよう無料むりょうパンフレット『鈴木すずき義司よしじ原子力げんしりょく発電はつでんかんがえる』を発行はっこうした[10]

はん原発げんぱつ立場たちばから漫画まんが立場たちば告発こくはつ記事きじ連載れんさいした漫画まんが雑誌ざっしCOMIC BOX』によれば、鈴木すずき漫画まんがかいにおける原子力げんしりょく発電はつでん広報こうほう中心ちゅうしんてき人物じんぶつであったという[9]鈴木すずきは「漫画まんがしゃ」としてった原発げんぱつ広報こうほう仕事しごとを、富永とみなが一朗いちろう園山そのやま俊二しゅんじ馬場ばばのぼるやなせたかし漫画まんが仲間なかまこえをかけ、年間ねんかん150まんえん看板かんばんりょうえがいてもらったという[11]旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこうそつで「物理ぶつりてき思考しこうができる[2]」と自負じふする鈴木すずきは、同誌どうしのインタビューにおうじ、事故じここしたチェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ日本にっぽん原発げんぱつ構造こうぞうちがうためにだい事故じここらない、爆発ばくはつすることも放射ほうしゃせい物質ぶっしつそとれることもないと断言だんげん[9]、「広告こうこく仕事しごとをしなければっていけない」「(広瀬ひろせたかしについて)データが全部ぜんぶインチキ」と発言はつげんしている[9]

連載れんさい作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビアニメ[編集へんしゅう]

その作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビ番組ばんぐみ出演しゅつえん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 鈴木すずき義司よしじ とは - コトバンク”. 2012ねん2がつ22にち閲覧えつらん 典拠てんきょは『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん』『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x てらこう忠男ただお正伝せいでん昭和しょうわ漫画まんが ナンセンスの系譜けいふ毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1990ねん pp.156-160
  3. ^ a b c d 鈴木すずき義司よしじ死去しきょ/ユーモアの漫画まんが 四国新聞社しこくしんぶんしゃ、2004ねん7がつ17にち
  4. ^ a b c 織田おだ正吉まさきちわらいのこころ ユーモアのセンス』 岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ、2013ねん pp.287-291「岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこばんあとがき」
  5. ^ 漫画まんが集団しゅうだんへん)『漫画まんが集団しゅうだん漫画まんがしゅう』 グラフィックしゃ、1972ねん p.29
  6. ^ わらっていいとものテレフォンショッキングでは富永とみなが紹介しょうかいされて出演しゅつえんし、マンガ道場どうじょう共演きょうえんしたことがある三波みなみ豊和とよかず紹介しょうかいした。
  7. ^ 権利けんりしゃさがしています”. 中京テレビ放送ちゅうきょうてれびほうそう. 2021ねん10がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ5にち閲覧えつらん
  8. ^ 2022ねん7がつ25にちづけ文化庁ぶんかちょう告示こくじだい32ごうだい43ごう
  9. ^ a b c d インタビュアー高瀬たかせあつし日本にっぽん原発げんぱつ絶対ぜったい安全あんぜん鈴木すずき義司よしじ」『COMIC BOX』1990ねん1がつごう、pp.46-53
  10. ^ 図説ずせつ 危険きけんはなし』ふゅーじょんぷろだくと、1989ねん pp.44-48 「手塚てづか治虫おさむ特別とくべつインタビュー ぼくも原発げんぱつ反対はんたいです」 - 版元はんもと関係かんけいしゃによるweb再掲さいけい
  11. ^ インタビュアー高瀬たかせあつし「まんが原発げんぱつについてのさまざまなおもい」『COMIC BOX』1990ねん1がつごう、pp38-39。それぞれ本人ほんにんたちのコメントによる。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]