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長浜町バス転落事故 - Wikipedia コンテンツにスキップ

長浜ながはままちバス転落てんらく事故じこ

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長浜ながはままちバス転落てんらく事故じこ
場所ばしょ 日本の旗 日本にっぽん愛媛えひめけん喜多きたぐん長浜ながはままち櫛生くしゅう現在げんざい大洲おおす
日付ひづけ 1956ねん昭和しょうわ31ねん1がつ28にち
午後ごご8ごろ (JST)
概要がいよう 伊予いよ鉄道てつどう路線ろせんバスがうみ転落てんらく
原因げんいん しょうなみ飛沫しぶきによる視界しかい不良ふりょうなみにさらわれたか)
死亡しぼうしゃ 9めい運転うんてんしゅ1めい車掌しゃしょう1めい乗客じょうきゃく7めい
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地図

長浜ながはままちバス転落てんらく事故じこ(ながはまちょうバスてんらくじこ)は、1956ねん昭和しょうわ31ねん1がつ28にちに、愛媛えひめけん喜多きたぐん長浜ながはままち櫛生くしゅう現在げんざい大洲おおす長浜ながはままち櫛生くしゅう)の三ツ石みついし海岸かいがん発生はっせいしたバス転落てんらく事故じこ

強風きょうふうのためれていた伊予灘いよなだ磯崎いさきはつ長浜ながはまきの伊予いよ鉄道てつどう現在げんざい伊予いよ鉄南てつなんバス)のバスが転落てんらくし、運転うんてん1めい車掌しゃしょう1めい乗客じょうきゃく7めい全員ぜんいん死亡しぼうした。

経緯けいい[編集へんしゅう]

事故じこ発生はっせい[編集へんしゅう]

1956ねん1がつ28にちよるみなみ地方ちほうは、北海道ほっかいどう付近ふきんすすてい気圧きあつ影響えいきょうで、きわめてつよふういていた。同日どうじつ23ごろの宇和島うわじま測候所そっこうじょでは、1922ねん大正たいしょう11ねん)の開設かいせつ以来いらい平均へいきん瞬間しゅんかん最大さいだい風速ふうそく記録きろくしている[1]。この強風きょうふうによって伊予灘いよなだおおいに時化しけて、たかなみっていた。

磯崎いそざき愛媛えひめけん西宇和にしうわぐん保内ほないまち磯崎いそざき現在げんざい八幡浜やわたはま)から長浜ながはま愛媛えひめけん喜多きたぐん長浜ながはままち長浜ながはま)への伊予いよ鉄道てつどうのバス路線ろせんは、全線ぜんせんにわたって海岸かいがんせん沿った県道けんどうはしる。現在げんざいでこそ海岸かいがんせん沿いの道路どうろげん国道こくどう378ごう)は海面かいめんからたかはなれた場所ばしょを、余裕よゆうのある道幅みちはばかよっているが、事故じこ当時とうじうみれたさいにはなみ路面ろめんあらうほどひく位置いちはしっていて、はばも4.5メートルとけっしてひろいものではなかった。そのため運転うんてん技術ぎじゅつようし、経験けいけんなが運転うんてんてることとしていたと事故じこ当時とうじ伊予いよてつ大洲おおす営業えいぎょう所長しょちょうはなしている[2]事故じこ当時とうじ満潮まんちょうちか状態じょうたいで、なみ道路どうろえて山側やまがわにまでたっする状態じょうたいだったという[3]

この路線ろせんでは、風速ふうそく25メートルをえた場合ばあいには運休うんきゅうするといういちおう基準きじゅんもうけられていたが、運休うんきゅう判断はんだん運転うんてんゆだねられていた。運転うんてん運行うんこう判断はんだんくだし、始発しはつ停留所ていりゅうじょ磯崎いそざき出発しゅっぱつした。出海でうみまち停留所ていりゅうじょまでは問題もんだいなくすすみ、運転うんてん車掌しゃしょうのほかに7めい乗客じょうきゃくせて、1955ふん毎日新聞まいにちしんぶんは1940ふんほうじる[4])、つぎ櫛生くしゅう停留所ていりゅうじょけて出発しゅっぱつした[3]

櫛生くしゅうへの海岸かいがん沿いのみちは、なみ路面ろめんあらっていてきわめて危険きけん状況じょうきょうであった。まもなく櫛生くしゅう集落しゅうらくはいるというところまでて、通称つうしょう三ツ石みついしばれた箇所かしょうみたカーブにおいて、バスは転落てんらくした。乗員じょういん乗客じょうきゃく全員ぜんいん死亡しぼうしたため転落てんらく原因げんいんさだかではないが、なみくるまがさらわれたとも、なみしぶきによる視界しかい不良ふりょう運転うんてんあやまったとも推測すいそくされる[3]

発覚はっかくおく[編集へんしゅう]

20ごろにバスが転落てんらくしても、その事実じじつはただちには発覚はっかくしなかった。

磯崎いそざき長浜ながはませんにおいて、もし運転うんてん運休うんきゅう判断はんだんくだした場合ばあいには、大洲おおす営業えいぎょうしょとどけることとなっていた。しかし28にちよる運休うんきゅう連絡れんらくはなく、大洲おおす営業えいぎょうしょでは長浜ながはまきのバスは通常つうじょうどお運行うんこうしたものと理解りかいしていた。終業しゅうぎょう報告ほうこくのような仕組しくみも存在そんざいしなかったため、大洲おおす営業えいぎょうしょでは28にちよる時点じてんでは当該とうがいバスの長浜ながはま未着みちゃく把握はあくできなかった。

また、いちにち運行うんこうえると、運転うんてん大洲おおす営業えいぎょうしょ運行うんこう日報にっぽうとどけることとなっていたが、夜間やかん磯崎いさきはつ長浜ながはまきの日報にっぽうは、長浜ながはま到着とうちゃく同地どうち車庫しゃこき、翌日よくじつ一番いちばん長浜ながはまはつ大洲おおすきのバスがとどける段取だんどりとなっていた。29にちあさ大洲おおすきの一番いちばんバス出発しゅっぱつするさい車庫しゃこには前夜ぜんやのバスの日報にっぽうかれていなかったため、運転うんてんは、前夜ぜんや磯崎いそざきからのバスは運休うんきゅうしたものととらえた。

しかしこの一番いちばんバスが大洲おおす営業えいぎょうしょ到着とうちゃくすると、磯崎いそざきはつ長浜ながはまゆきのバスはかけぎょうせず運行うんこうされたと認識にんしきしていた大洲おおす営業えいぎょうしょと、当該とうがいバスは運休うんきゅうしたものと認識にんしきしていた一番いちばんバスの運転うんてんとのあいだで、矛盾むじゅん露呈ろていした。運行うんこうされたはずの当該とうがいバスが長浜ながはま到着とうちゃくしたことを確認かくにんできず、ここではじめて有事ゆうじうたがわれた。しかしこの時点じてんでは警察けいさつ通報つうほうせず、大洲おおす営業えいぎょう所長しょちょう現場げんばへと急行きゅうこうし、確認かくにんしてからとどることとしたため、通報つうほうさらおくれることとなった[5]

大洲おおす営業えいぎょうしょからの通報つうほうがあった時点じてんではすでに、乗客じょうきゃくうちの1めいであった出海でうみ中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆ消息しょうそく不明ふめいという通報つうほうによって警察けいさつ捜査そうさはじめていた。教諭きょうゆ勤務きんむさき出海でうみ中学校ちゅうがっこうから長浜ながはま自宅じたくへの帰路きろにおいて当該とうがいバスに乗車じょうしゃしていた。翌朝よくあさ出海でうみ中学校ちゅうがっこうでは、どう教諭きょうゆ出勤しゅっきんしないことを不審ふしんおもい、校長こうちょう大洲おおす警察けいさつしょ櫛生くしゅう巡査じゅんさ駐在ちゅうざいしょ[6]連絡れんらく巡査じゅんさがバス経路けいろかく停留所ていりゅうじょ調しらべたところ、出海でうみまち停留所ていりゅうじょ出発しゅっぱつしたことは確認かくにんできたが、つぎ櫛生くしゅう停留所ていりゅうじょ到着とうちゃくしたことを確認かくにんできず、出海でうみまちから櫛生くしゅうあいだでバスが行方ゆくえをくらませたことが判明はんめいした[3][7]

捜索そうさく活動かつどう[編集へんしゅう]

バス遭難そうなんあきらかになってまもなく、出海でうみ櫛生くしゅうあいだ県道けんどうからえる海中かいちゅうにバスのシャーシ発見はっけんされた。荒波あらなみにもまれたバスは原形げんけいめずばらばらになり、あらゆる部品ぶひん岸辺きしべせられていた。29にち捜索そうさくでは遺体いたいまったつからず、乗客じょうきゃくにつけていたマフラーつかったばかりであった[3]遺族いぞく長浜ながはままち水元みずもと旅館りょかん現存げんそんしない)を連絡れんらく場所ばしょとしてさだめ、捜索そうさく進展しんてんった[8]

同夜どうや大洲おおす警察けいさつ署員しょいん地元じもと消防しょうぼうだんいんやく200めいによる徹夜てつや捜索そうさくおこなわれ、けて30にちあさからは潜水せんすいくわわり、また地元じもと櫛生くしゅう漁協ぎょきょうあみ使つかった捜索そうさくはじまった。30にち午前ごぜんまでに、事故じこ発覚はっかくのきっかけとなった出海でうみ中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆいで運転うんてん遺体いたいげられた。事故じこ衝撃しょうげきによってかなみをうけたことによってか、遺体いたいかおはゆがんでいたとされる[9]

30にち午後ごごには捜索そうさく作業さぎょう海上保安庁かいじょうほあんちょう巡視じゅんしせん地元じもと漁船ぎょせんくわわった。その結果けっか、さらに乗客じょうきゃく2めい遺体いたい収容しゅうようされた[10]。31にち午後ごごにも干潮かんちょう利用りようした捜索そうさく乗客じょうきゃく2めい遺体いたい収容しゅうよう[11]、2がつ4にちまでにさらに乗客じょうきゃく2めい遺体いたい収容しゅうようされ、運転うんてんぜん乗客じょうきゃく遺体いたい発見はっけんされた。しかしついに車掌しゃしょう発見はっけんされないまま、2がつ5にち捜索そうさくられることとなった[12](ただ、後年こうねん編纂へんさんされたとしるい年表ねんぴょう記述きじゅつでは、車掌しゃしょうふくめて死者ししゃは9めいとされている[13][14][15])。

事故じこうご[編集へんしゅう]

新聞しんぶんにおける報道ほうどう[編集へんしゅう]

一瞬いっしゅんのうちに9にんいのちうしなわれたこの事件じけんは、事件じけん翌々日よくよくじつ1がつ30にち新聞しんぶん全国ぜんこくてきほうじられた。全国ぜんこくではおおきな記事きじとはならなかったが[7][4][16]地元じもと愛媛えひめ新聞しんぶん朝刊ちょうかん1めんのトップ記事きじとして大々的だいだいてきほうじ、どう7めん半分はんぶん以上いじょうをこの事故じこいている[2][3]

当初とうしょは、遭難そうなんしたのは運転うんてん車掌しゃしょうのほかに乗客じょうきゃくが8めいけい10めいほうじられていた。乗客じょうきゃく8めいのうち1めい身元みもと不明ふめいの40さいだい男性だんせいで、始発しはつ停留所ていりゅうじょ磯崎いそざきからったものと推測すいそくされていた[3]調査ちょうさすすむと乗車じょうしゃ保内ほないまち宮内くない停留所ていりゅうじょ年齢ねんれいは30-35さい程度ていど情報じょうほうあらためられたが、身元みもとからないままであり、それらしき遺体いたいがることもなかった。また、証言しょうげん当日とうじつ事故じこ以前いぜん宮内くない停留所ていりゅうじょ男性だんせい降車こうしゃしたというものであり、かならずしも当該とうがいバスにっているとはかぎらず、また当該とうがいバスにっていても出海でうみよりまえりてなんのがれている可能かのうせいかんがえられた[10]。1月31にちまでの調査ちょうさによって、この身元みもと不明ふめい遭難そうなんしゃ候補こうほとされた人々ひとびとはみな当該とうがいのバスにはっていなかったことが判明はんめいし、また行方ゆくえ不明ふめい届出とどけでなどもされていなかったため、捜査そうさ本部ほんぶ遭難そうなんした乗客じょうきゃくが7めい遭難そうなんしゃ全部ぜんぶで9めいであったと断定だんていした[11]。しかしこの遭難そうなんしゃすう変更へんこうは、地元じもと愛媛えひめ新聞しんぶんでこそほうじられたものの、全国ぜんこくほうじられることはなかったため、近年きんねんでもほん事故じこあつかった記事きじでは当時とうじ新聞しんぶんもとにして遭難そうなんしゃすうを10めいとしている記述きじゅつられる[17]

全国ぜんこくほん事故じこあつかったのは事故じこからすう日間にちかんだけであったが[18][19][20]愛媛えひめ新聞しんぶんは2がつはいってからも遺体いたい回収かいしゅう進行しんこうじょうきょう遺族いぞくうごきなどを逐次ちくじほうじた。「記者きしゃ座談ざだんかい」としょうして、ほん事故じこかんする社説しゃせつ掲載けいさいしている[21]

事故じこ再発さいはつ防止ぼうしへの[編集へんしゅう]

この事故じこでは、路線ろせん責任せきにんしゃ存在そんざいせずバスの運休うんきゅう判断はんだん運転うんてんまかせとなっていたてん営業えいぎょうしょ翌日よくじつまでバスの遭難そうなん把握はあくできなかったてんなど、会社かいしゃのずさんな管理かんり体制たいせい批判ひはんまねいた[5][22]背景はいけいとして、戦後せんご伊予いよ鉄道てつどう急速きゅうそくにバス路線ろせん拡張かくちょうすすめていたが(走行そうこうきろめーとる1947ねんから1956ねんの9年間ねんかんで67まんkm→487まんkmと7ばいちょうになっていた)、一方いっぽう運行うんこう安全あんぜんせい確保かくほ後手ごてまわっていたという事情じじょうがあった[22]当時とうじ宮脇みやわきさき社長しゃちょう1958ねん年頭ねんとう挨拶あいさつでこの事故じこ回顧かいこし、「運転うんてん自分じぶん可愛かわいいから、そう事故じここすものではないとタカをくくっていた……」とべた[22]

事故じこけて3がつ17にちには運輸省うんゆしょう伊予いよ鉄道てつどうたいして業務ぎょうむ改善かいぜん命令めいれいした[23]が、2がつ11にち石手川いしてがわ堤防ていぼう重軽傷じゅうけいしょうしゃ8めい[24])、4がつ9にち肱川ひじかわむら萩野はぎの死者ししゃ1めい重軽傷じゅうけいしょうしゃ30めい[25])、6月1にち松山まつやま湯山ゆやま死者ししゃ2めい重軽傷じゅうけいしょうしゃ29めい[26])にもつづけてバスの転落てんらく事故じここしている[27]。5月には労働省ろうどうしょうから特別とくべつ管理かんり指導しどう事業じぎょうじょう指定していされた[28]

伊予いよ鉄道てつどうでは事故じこ防止ぼうし対策たいさくとして、以下いか措置そちこうじた[27]

  • 会社かいしゃない機構きこう改革かいかく - 自動車じどうしゃでは、営業えいぎょうがかり権限けんげんつよいために営業えいぎょう本位ほんい運営うんえいおこなわれ、労務ろうむ管理かんり観点かんてんいていたことから、乗務じょうむがかり乗務じょうむしょ新設しんせつして営業えいぎょう乗務じょうむ分離ぶんりしたほか、乗務じょうむいん指導しどう監督かんとくおこな乗務じょうむ監督かんとくいん配置はいちした。また、従来じゅうらい自動車じどうしゃ整備せいび鉄道てつどう同一どういつおこなわれていたが、自動車じどうしゃのみの整備せいび新設しんせつした。
  • 完全かんぜん運転うんてん規範きはん制定せいてい
  • ダイヤすう編成へんせいえと運転うんてんしゃ増員ぞういん - 運行うんこうダイヤすうを123から131に編成へんせいえし、運転うんてんしゃは155めいから175めい増員ぞういんして勤務きんむ時間じかん短縮たんしゅくはかった
  • ダイヤ変更へんこう週休しゅうきゅうせい実施じっし - 従来じゅうらい最高さいこう拘束こうそく時間じかん21あいだ15ふん最高さいこう実働じつどう時間じかん9あいだ25ふんとなっていたが、安全あんぜん考慮こうりょしてそれぞれ9あいだ35ふん、5あいだ59ふんとした。また4週間しゅうかんにつき4にちとしていた公休こうきゅうは、連続れんぞく勤務きんむふせぐため週休しゅうきゅうせいあらためられた。
  • 運転うんてんしゃ採用さいよう
  • 連絡れんらくしょ設置せっち - ほん事故じこでは連絡れんらく体制たいせい不備ふびのために発覚はっかくおくれたことから、バスが発着はっちゃくするごとに時刻じこく記録きろくして、最終さいしゅうしゃ出発しゅっぱつ大洲おおす営業えいぎょう所長しょちょう確認かくにん報告ほうこくおこな連絡所れんらくしょ路線ろせん始発しはつ長浜ながはま設置せっちした。連絡れんらくしょでは悪天候あくてんこう道路どうろ損壊そんかい乗務じょうむいん急病きゅうびょうなどのさいには営業えいぎょう所長しょちょうから指示しじけ、緊急きんきゅうには発車はっしゃ停止ていしめいじる。また山間さんかん路線ろせんでは、乗務じょうむいん営業えいぎょうしょ連絡れんらくのため終点しゅうてん電話でんわ連絡れんらくしょ設置せっちし、それができない場合ばあいには連絡れんらくいん嘱託しょくたくおこなった。
  • 気象きしょう状況じょうきょう判断はんだん対策たいさく - 路線ろせんごとに安全あんぜん運行うんこう可能かのう限度げんど検討けんとうし、気象きしょう警報けいほう発令はつれい運行うんこう停止ていし速度そくど制限せいげんおこなうこととした。
  • 気象きしょう状況じょうきょうともな運行うんこう方法ほうほう規定きてい - 強風きょうふう速度そくど制限せいげん運行うんこう停止ていし基準きじゅんさだめた。

伊予いよ鉄道てつどうのバスでは、措置そちこうじる以前いぜんの3ねん6かげつあいだ交通こうつう事故じこが101けん発生はっせいし、201めい死傷ししょうしゃしていたが、これらの措置そちこうじてからは事故じこ大幅おおはば減少げんしょうした。

のバス事業じぎょうしゃへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

ほん事故じこ県下けんか交通こうつう事業じぎょうしゃにも衝撃しょうげきあたえ、事故じこ翌月よくげつ2がつには、愛媛えひめけん警察けいさつ本部ほんぶ県内けんないバス事業じぎょうしゃ参加さんかもとめ、乗合のりあい自動車じどうしゃ事故じこ防止ぼうし対策たいさく協議きょうぎかいひらかれている[29]。この協議きょうぎかいでは、1. 車両しゃりょう整備せいび点検てんけん、2. 飲酒いんしゅ運転うんてん厳禁げんきん、3. 安全あんぜん運転うんてんたいする監督かんとく教養きょうよう徹底てってい、4. 採用さいよう条件じょうけんさい検討けんとう、5. 労務ろうむ管理かんり徹底てってい、6. あく路線ろせんたいする安全あんぜん運転うんてん方策ほうさく、7. 人命じんめい尊重そんちょう精神せいしん高揚こうよう、8. 踏切ふみきり安全あんぜん確認かくにん励行れいこう、9. 停留ていりゅうじょう乗降じょうこうじょうとう位置いちさい検討けんとう、10、事故じこ発生はっせいたいする措置そち、11. 気象きしょう情報じょうほうたいする措置そち、12. 優良ゆうりょう無事故むじこ運転うんてんしゃ表彰ひょうしょう、13. 発生はっせい事故じこたいする原因げんいん究明きゅうめい検討けんとう、の13項目こうもくについて、事故じこ防止ぼうし対策たいさく検討けんとう討議とうぎした[27]

また、高松たかまつ陸運りくうんきょく2がつ18にち管内かんないのバス事業じぎょうしゃたいしてほん事故じこまえた警告けいこくはっし、1. 悪天候あくてんこうには責任せきにんしゃ運行うんこう中止ちゅうし指令しれいはっすること、2. 運行うんこうたいする安全あんぜん意識いしきたかめ、はげしい降雨こううなどのときは運行うんこう中止ちゅうしすること、3. 責任せきにんしゃから従業じゅうぎょういんたいして運行うんこう指示しじ徹底てっていするよう訓練くんれんすること、4. バス路線ろせん終着しゅうちゃく所定しょてい時刻じこくより30ふん以上いじょうたってもバスが到着とうちゃくしない場合ばあいちゅうあいだわせること、5. ちゅうはくしょ営業えいぎょうしょ連絡れんらくみつにすること、などの安全あんぜん対策たいさく指示しじされた[30]

その[編集へんしゅう]

愛媛えひめけんは、犠牲ぎせいとなった乗客じょうきゃく遺族いぞくたいして、社会しゃかい福祉ふくしつうじて見舞みまいきん贈与ぞうよすることを事故じこ発覚はっかく当日とうじつ決定けっていした[9]

慰霊いれい建立こんりゅう[編集へんしゅう]

事故じこきたとし建立こんりゅうされた慰霊いれい事故じこ現場げんばのやや東側ひがしがわにある。現在げんざいでもさかきなどがそなえられる。

事故じこ翌月よくげつ悲惨ひさん事故じこ記憶きおく継承けいしょう惨事さんじかえさないいましめとするため、犠牲ぎせいしゃ慰霊いれい建立こんりゅうする運動うんどうこった。中心ちゅうしんとなったのは当時とうじ長浜ながはま商工しょうこう団体だんたい会員かいいん33めいだった。事故じこ発生はっせいから13にち愛媛えひめ新聞しんぶんには、実際じっさい完成かんせいがたちかかたち慰霊いれい完成かんせい掲載けいさいされている。工事こうじ捜索そうさく活動かつどうにもたずさわった地元じもと松栄まつえ建設けんせつおこなった。慰霊いれい事故じこ現場げんばよりも東側ひがしがわ建立こんりゅうされている[31]

慰霊いれいはまもなく完成かんせいし、5月8にち除幕じょまくしきおこなわれた[15]上部じょうぶには当時とうじ久松ひさまつじょうたけ愛媛えひめけん知事ちじふでによる「慰霊いれい」の3、そのしたに9めいぜん犠牲ぎせいしゃ氏名しめいきざまれている。裏面りめんには伊予いよ鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ伊予いよ鉄道てつどう労働ろうどう組合くみあい長浜ながはままち双葉ふたばかい長浜ながはままち消防しょうぼうだん長浜ながはままち連合れんごう青年せいねんだん長浜ながはままち連合れんごう婦人ふじんかいの6団体だんたい世話人せわにんとしてつらね、そのよこには工事こうじ関与かんよした松栄まつえ建設けんせつ大洲おおす田所たどころ石材せきざいてんきざまれている。

事故じこから60ねん以上いじょう経過けいかした2019ねん年末ねんまつにおいても、慰霊いれいには犠牲ぎせいしゃすうどうじ、9ほんさかきそなえられている。ぶしによっては、みかんなどのそなものなども見受みうけられる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ みなみでは卅ろくメートル 強風きょうふう 縣下けんか各地かくちおそう」『愛媛えひめ新聞しんぶん昭和しょうわ31ねん1がつ30にち朝刊ちょうかん 6めん
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  3. ^ a b c d e f g 「バス、うみ転落てんらく 長浜ながはままち櫛生くしゅうで」『愛媛えひめ新聞しんぶん昭和しょうわ31ねん1がつ30にち朝刊ちょうかん 1めん
  4. ^ a b じゅうめいなみにのまれ死亡しぼう愛媛えひめよるのバス、海中かいちゅう転落てんらく」『毎日新聞まいにちしんぶん昭和しょうわ31ねん1がつ30にち朝刊ちょうかん 7めん
  5. ^ a b 「"おくれた事故じこ発見はっけん"に非難ひなん 直接ちょくせつ責任せきにんしゃなし 大洲おおす営業えいぎょうしょ届出とどけであしぶみ」『愛媛えひめ新聞しんぶん昭和しょうわ31ねん1がつ30にち夕刊ゆうかん 2めん
  6. ^ 現在げんざい大洲おおす警察けいさつしょ長浜ながはま交番こうばん統合とうごうされて現存げんそんしない
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  10. ^ a b さらたい收容しゅうよう バス轉落てんらく事件じけん」『愛媛えひめ新聞しんぶん昭和しょうわ31ねん1がつ31にち朝刊ちょうかん 7めん
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  30. ^ 「『悪天候あくてんこうには中止ちゅうしを』高松たかまつ陸運りくうんきょく バス運行うんこう警告けいこく」『愛媛えひめ新聞しんぶん昭和しょうわ31ねん2がつ18にち夕刊ゆうかん 2めん
  31. ^ 「「惨事さんじ繰返くりかえすまい」 バス轉落てんらく現場げんば慰霊いれい建立こんりゅう運動うんどう」『愛媛えひめ新聞しんぶん昭和しょうわ31ねん2がつ10日とおか夕刊ゆうかん 2めん