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せきつね

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

せき つね(かん い、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいしょくかん人物じんぶつ祖父そふせきはねちちせききょうあに異母いぼけい)はせきみつる

概要がいよう

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ちち死後しごあに爵位しゃくいいだものの、嗣子ししくして死去しきょしたため、せきはね血筋ちすじ断絶だんぜつするところだった。しかし皇帝こうていりゅうぜんは、功臣こうしんせき血筋ちすじやさないようにするため、せきつねにそのがせることにした。

ほのおきょう元年がんねん263ねん)のしょくかん滅亡めつぼうたかし龐会せきはねころされた龐徳遺児いじ)によって、せきはね一族いちぞく皆殺みなごろしにされたといわれている(『三国志さんごくしちゅうおうかくれしょく』)。しかし正史せいしではせきつね没年ぼつねん不明ふめいである。

三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、しょく滅亡めつぼうきょう鍾会そそのかくわだてた反乱はんらんさいし、その混乱こんらんなか殺害さつがいされたしょく人物じんぶつ一人ひとりとして、名前なまえのみが登場とうじょうしている。

その子孫しそん

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しんとうしょ宰相さいしょうけいひょうは、とうとくむね宰相さいしょうであるせき中国語ちゅうごくごばんかんせききょう末裔まつえいとしている。ただ『しんとうしょ宰相さいしょうけいひょう全体ぜんたいとして記述きじゅつあやまりがおおく、信憑しんぴょうせいには疑問ぎもんのこる。

きよしだい以降いこうの「せきはね文献ぶんけん」においては、しょせき系譜けいふせききょうせきつね以降いこう位置いちづけるものがおおい。一説いっせつにはせきつね庶子しょしであるせきえびすが、龐会ののが故郷こきょうかくまわれたという。せきえびすのちは、せき敝・せきあきらせき康之やすゆきせきよじ血筋ちすじつづいたともある。

参考さんこう文献ぶんけん

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